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日露戦争から学ぶ、戦争を止める"知恵"(上)

世界は局地戦のウクライナ戦争が第三次世界大戦に発展する危機に直面している。
いまこそ「歴史の教訓」に学ぶとき。
知の巨人と歴史小説の雄が、日露戦争から、戦争を止める"知恵"を紡ぎ出す。
(『潮』2023年2月号より転載、全2回の1回目)

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大東亜共栄圏の源流
吉田松陰の『幽囚録』

安部 これまで佐藤さんと一緒に、歴史をめぐる対談『対決!日本史』シリーズを発刊してきました。

「日清戦争から日露戦争篇」と題する第3弾を発刊するため2022年夏に語り始めたところ、2人とも話が湧き出るように止まらない。「維新から日清戦争篇」(2212月発売)だけで1冊の分量に達してしまったため、「日露戦争篇」は第四弾として発刊(233月発売)することに決めました。

19世紀末から20世紀初頭にかけての戦乱の時代は「終わってしまった過去の歴史」ではありません。ウクライナ戦争の停戦合意が見えず、朝鮮半島や台湾海峡で緊張感が高まるなか、現在を生きる人々にとって「過去」と「今」は直結します。

佐藤 第3弾「維新から日清戦争篇」では、1881年に大蔵卿に就任した松方正義によるインフレからデフレヘの転換政策「松方財政」や、「教育勅語」「万世一系」という天皇神話などが日本の近代化に与えた影響について語り合いました。

安部 そうした明治政府が行った内政を踏まえながら、なぜ日清戦争が起こったのか、また大国・清に日本が勝った理由、その勝利が日本に与えた影響に至るまで、当時の国際情勢も踏まえつつ、歴史の真実を探り当てる語りを行いました。

佐藤 第3弾で刮目すべきは、明治維新以降、帝国主義国家へと変貌していく日本の思想的背景には、1856年に吉田松陰が獄中で書いた『幽囚録』があったことを安部さんが指摘されたことです。

安部 『幽囚録』には、大東亜共栄圏構想の萌芽とも言うべき帝国主義構想があからさまに書かれているのです。吉田松陰は、「急いで軍備を整え、北海道を開墾して日本国内に封建体制を整備する。カムチャッカとオホーツクを勝ち取ったあとは、琉球、朝鮮、満州、台湾、ルソン諸島まで支配下に治めるべきだ」と言っています。

佐藤 私は吉田松陰が入っていた牢獄の跡地に行ったことがあります。びっくりするほど狭いところで驚きました。いったいあんなところに、何人の罪人を詰めこんでいたのか。酸素が欠乏するような劣悪な環境で、松陰は耐え忍んでいたはずです。

このような難を克服して、松下村塾を作り、後進の育成にエネルギーを投入したことは松陰の大きな魅力のひとつです。しかし、『幽囚録』に潜む危険な帝国主義思想は見逃してはいけません。



安部
 功罪相半ばする傑出した思想家、指導者であったことは間違いありません。吉田松陰は松下村塾で、『幽囚録』に書いているようなことを繰り返し繰り返し門下生に伝えたのでしょうね。松下村塾で松陰が指導した期間は、たった2年でした。

佐藤 その間に松下村塾で学んだ門下生は、みんな松陰の思想をバッチリ刷りこまれてしまったのですよね。強力なマインドコントロールです。

安部 陽明学で言うところの「知行合一」です。

佐藤 本当の「知」は、行為を伴わないといけない、という意味ですね。

安部 こういう教えを徹底的に刷りこまれたのですから、教え子たちは刃物が剥き出しになったような鋭さだったことでしょう。

「西欧列強の東アジア進出があったから」とか「ロシアの南下政策があったから」とか、あるいは「清国の近代化への無理解があったから」という理由で、日本が朝鮮半島へ侵攻したわけではありません。列強の帝国主義競争に日本も打って出て、植民地支配を目指していたのです。

佐藤 1876年に日本は周到な準備を重ねたうえで、朝鮮と不平等条約である江華条約(日朝修好条規)を結びました。

安部 そこから日本と朝鮮の貿易が始まり、日本は朝鮮半島から大量の穀物を買い占めました。代わりに劣悪な綿製品を売りつけたりして、朝鮮半島の農民が困窮する経済状況を作り出します。

こうした流れがあったうえで、経済的に困窮した農民が必然的に蜂起(甲午農民戦争)して、1894年の日清戦争へとつながるのです。19世紀後半に日本が歩んだ帝国主義路線は、まさしく「吉田松陰ドクトリン」です。

佐藤 獄中で松陰が構想した「吉田松陰ドクトリン」に基づいて、松陰の門下生たちは帝国主義路線を主導していったわけですね。

安部 今、プーチン大統領は「ネオ・ユーラシア主義」とも言うべき「プーチンドクトリン」に基づいて、ウクライナヘ侵攻しています。明治期の日本も、今のロシアのように「先に方針ありき」「先にドクトリンありき」で植民地支配に突き進んだと見るべきではないでしょうか。

佐藤 過去であれ現在であれ、戦争の危機において、為政者の思想、内在的論理を掴み取ることがいかに重要か。誤った思想の犠牲者はいつの時代も民衆であることを忘れてはなりません。

ウクライナ戦争と
日露戦争の類似点

佐藤 日清戦争以降、日本は10年に1度、戦争する好戦国家になってしまいます。日露戦争(1904年)で日本はロシアに勝利するわけですが、歴史を振り返ると日露戦争のバックグラウンドでは、イギリスやアメリカの思惑が蠢いていました。

誤解を恐れず言いましょう。アングロサクソンは、自分では戦わず他人に戦わせるのがとてもうまいのです。

実例をあげれば、185660年の第二次アヘン戦争(アロー号戦争)は、イギリスとフランスの連合軍と清国が激突したことになっていますが、英仏連合軍の最前線には相当数のインド人が参加していました。イギリスは「アジア人とアジア人を戦わせる」という構図を作り、自らは後ろに控えていました。

安部 第二次アヘン戦争と同様の構図が日露戦争にもあったのです。日清戦争後、ロシアは清国や朝鮮に急接近して満州進出への足掛かりとします。列強のイギリスは、当時の東アジアにおけるロシアの動きに対抗することができませんでした。世界に大帝国を築いていたイギリスでしたが戦線を広げすぎていたのです。ひとつが19世紀末から1902年まで続いたボーア戦争(南アフリカ戦争)です。

佐藤 南アフリカの金に目をつけて植民地化しようとしたイギリスでしたが、南アフリカのボーア人に激しく抵抗され、ボーア戦争が勃発します。それ以外にイギリスはロシアとのグレートゲームも仕掛けます。

1858年、イギリスはインドを植民地化しました。大英帝国の一部であるインドから北上して、イギリスは中央アジアに至ろうと目論みます。それに対してロシアは、中央アジアからアフガニスタンを経由してインド洋に至ろうと考えました。

安部 イギリスは先手を打ってアフガニスタンに侵攻すると、1878年には第二次アフガン戦争が起こります。

佐藤 このグレートゲームが結局どういう形で落ち着いたのでしょう。ロシアとイギリスはアフガニスタンでぶつかり、両方が膠着して動けなくなってしまいました。世界に手を広げすぎたイギリスは、日清戦争後に満州へと南下するロシアの動きを食い止めるだけの余裕がなかったのです。

安部 そのイギリスに代わり日本がロシアと対峙した側面が日露戦争にはあったわけですね。

20222月に勃発したウクライナ戦争は、ロシア対ウクライナという単純な図式ではありません。ウクライナの背後からNATO(北大西洋条約機構)、とりわけアメリカが支援して大量の武器を送りこみ、NATOの代理戦争の様相を呈しています。

佐藤 その意味では、日露戦争における日本と欧米列強諸国との関係と似通っています。

 

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作家
安部龍太郎(あべ・りゅうたろう)
1955年福岡県生まれ。久留米工業高等専門学校機械工学科卒業。東京都大田区役所勤務、図書館司書として働きながら小説を執筆。90年に『血の日本史』で作家デビュー。2005年に『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞受賞。13年に『等伯』で直木賞受賞。『信長燃ゆ』『維新の肖像』など著書多数。日本経済新聞で小説「ふりさけ見れば」を連載中。

作家・元外務省主任分析官
佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、専門職員として外務省に入省。在ロシア日本大使館に勤務、帰国後は外務省国際情報局で主任分析官として活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴され、09年6月に執行猶予付き有罪確定(13年6月に執行猶予期間満了)。『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞受賞)、『池田大作研究 世界宗教への道を追う』など著書多数。


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