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「賃金の引き上げ」こそ、最も有効な物価高騰対策だ。(上)

生活を直撃している物価高。コロナ禍を経て社会・経済が大きく動き出している今、どのように生活者を守っていくのか。物価研究の第一人者である渡辺努東京大学大学院経済学研究科教授と石井啓一公明党幹事長が解決への方途を探る。
(『潮』2023年6月号より転載、全2回中の1回目。)

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インフレの二つの要因


石井 コロナ禍以降の世界的なインフレが、昨年から日本にも影響を及ぼしています。とりわけ物価高により、日本の人々の生活も大きな影響を受けています。今回は物価研究の第一人者であられる東京大学大学院教授の渡辺努先生とともに、「インフレに政治はどう立ち向かうか」を中心に語り合いたいと思います。

渡辺 よろしくおねがいします。

石井 初めに渡辺先生から、昨今の世界的なインフレの背景と現下の日本の状況について解説いただければと思います。

渡辺 日本では昨年の22年4月から物価の高騰が始まり、現在はインフレの状態にありますが、欧米では21年春からインフレが始まっていました。世界で起きたインフレがおよそ1年遅れで日本に入ってきたのです。世界のインフレの要因は、すべてが解明されているわけではありませんが、少しずつ明らかになってきています。現時点では「労働供給の不足」と「脱グローバル化」の二つが主な要因だとされています。

まずは「労働供給の不足」について、欧米ではコロナ禍を受けての経済活動が再開されても、人々が労働の現場に十分に戻っていない状況が生まれています。要因としては、在宅勤務や仕事以外の活動の価値に気付いたり、他社との接触が多い職場に戻りたくないと考える人が大幅に増えたことが考えられます。アメリカでは、コロナを契機に前倒しで定年を決めたシニアも多い。つまり、人々の働くことに対する価値観と行動が変わってきたのです。経済活動の再開によって労働需要は戻ったものの、それに労働者の供給が伴わなければ賃金は引き上げられ、モノやサービスが十分に作れなくなる。そうした構図がインフレを引き起こしたのです。



 一方の「脱グローバル化」は企業側の事情です。コロナ禍は物流の大混乱を招きました。その背景にあるのは1980年代以降に進んだグローバル化です。例えば、これまでアメリカや日本をはじめとした先進諸国は、人件費を抑えるために自国外の工場で生産する体制を推し進めてきました。アメリカの港で入港待ちする大量のコンテナ船の映像が象徴的でしたが、今般の物中の大混乱にはそうした行き過ぎたグローバル化も大きな要因であったのです。

 コロナ禍を受けて「非常事態が起きても物流まで責任を持つ企業でなければならない」という考えが広まり、企業は脱グローバル化を図って賃金が多少高くても近隣諸国や国内に生産拠点を戻し始めています。グローバル化には物価と賃金を下げる作用があるため、脱グローバル化の局面では反対に物価や賃金の上昇が起きます。

 これら二つの要因は世界規模での中長期的な流れとなっているため、インフレや物価高はしばらく続くことが予想されます。

 

戦争の影響は限定的

石井 日本では、しばしばロシアによるウクライナ侵攻が招いたエネルギー価格や小麦価格の高騰がインフレの主たる要因として語られます。まずはいま話のあった「労働供給の不足」と「脱グローバル化」がベースにあり、そこにウクライナ危機の影響が追い打ちをかけたと考えればよいでしょうか。

渡辺 そうですね。ただ、ウクライナ危機の影響はそれほど大きくはありません。ウクライナに近いヨーロッパの消費者物価指数の上昇率は約10%ですが、そのうちウクライナ危機の影響分は約2%とされています。日本はウクライナと距離が離れている分、ヨーロッパほどの影響はないでしょう。おっしゃるように日本ではよく今回の戦争がインフレの原因であるかのように言われがちですが、そうではありません。ゆえに、仮に戦争が終わったとしてもインフレは続くはずです。

石井 エネルギー価格の高騰は、どの程度日本のインフレに影響を与えたとお考えでしょうか。

渡辺 エネルギー価格は確かに高騰しましたが、同じ時期の物価を見ると食料品なども上がっています。もともと日本の企業は、コスト高の価格転嫁に消極的でしたが、昨年春頃からは大胆に価格転嫁を始めています。これはウクライナ危機やエネルギー価格の高騰とは別に、インフレに伴ってジワジワと上昇していた原材料のコスト高に企業が耐えられなくなった結果だと考えられます。

石井 コロナ禍のなかでは、各国が国民に何かしらの給付を行いました。それが消費を後押しした側面があります。経済活動の再開による需要拡大は、どのくらいインフレに影響しているのでしょうか。

渡辺 各国の中央銀行は、2021年時点では需要拡大だけのインフレならばいずれ収まるため大きな問題はないと判断していました。しかしインフレは収まらなかった。そこで22年になって慌てて金利を引き上げるなどの施策を打ちました。つまり、実際には先述のように供給面に問題があったわけです。

ガラパゴス状態を脱せられるか


石井 日本のインフレの現況をどうご覧になっていますか。

渡辺 日本はずっとデフレが続いてきたためインフレが大きな動揺を生んではいますが、欧米に比べればその度合いは決して高くはありません。消費者物価指数の上昇率を見ると先述の通りヨーロッパは10%、アメリカは6%、日本は4%です。

 日本は1995年以降、賃金も物価も手を取り合うように“凍結”された状態が四半世紀以上続いてきました。他の国はその間、賃金も物価も右肩上がりでしたので、日本はかなり特殊な国です。いわゆる“日本のガラパゴス化”は様々な分野でよく話題になりますが、賃金と物価においては良い面もありました。賃金や物価がともに凍結していれば、経営者にとっても消費者にとっても先行きへの不安感が薄らぐため、安定した生活や経営がしやすいのです。だからこそ四半世紀以上続けることができたわけです。
 ところが今になって、長らく続いてきたその状況がついに変わりつつある。昨年春以降の物価高に伴って、今年の春闘では賃金も3%程度引き上げられました。いわば他の国と同じ賃金と物価の決まり方に変わりつつあるのです。もちろん、それに向けてはまだまだ取り組むべき課題はありますが、世界と歩調を合わせる意味でも、ゆくゆくはそうした流れにもっていくことが健全であると私は考えています。

 

低成長からの転換となるか

石井 欧米に比べて日本の消費者物価指数が低い理由としては、どんなことが考えられますか。

渡辺 消費者物価指数を構成する約600品目についてそれぞれの品目のインフレ率を見ると現時点でも価格がまったく動いていないものがたくさんあることが分かります。これはもともとの慢性デフレが残っているためです。「インフレだからもうデフレは終わった」と言う人がいますが、そうではありません。外からの急性的なインフレと内にある慢性的なデフレ、この二つを両睨みで対応しなければいけないところに日本の難しさがあります。

石井 今の日本の若者は実感としてインフレを知らないわけですよね。

渡辺 おっしゃるように授業でインフレの話をしても学生たちは実感が持てないようです。ただ、今回のインフレで初めて実感するわけですので、物価に対する社会のマインドもいよいよ変わりつつあるのかもしれません。



石井 皮肉なことですが、コロナ禍という大きなショックが、物価も賃金も上がらないという低成長からの転換を招いたとも言えるのでしょうか。

渡辺 デフレ対策は第二次安倍政権以降ずっと取り組んできたことです。しかし、あれほど政治的に強い基盤を持っていた安倍政権ですらデフレ脱却については思うような成果を上げられませんでした。ウイルスという自然の力の強さをまざまざと見せつけられた思いです。

 ペストやスペイン風邪などのパンデミック後にどのくらい経済に影響が残るかという研究があります。それによると、過去の感染症は多くの人々が亡くなったため、労働力が不足し、賃金が上昇しました。それがもとの水準に戻るまで10年から20年かかったそうです。今般のコロナ禍とは時代も状況も違いますが、経済への影響も長引くことは間違いありません。

石井 物価とは論点が異なりますが、日本のコロナの影響というと、深刻なのは少子化です。昨年の出生数は約79万9000人と想定よりも10年も早い減少ペースです。自然の力は確かに凄まじいものがあります。しかし、だからこそ人類の政治・社会の力が今こそ試されているようにも思うのです。

 

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東京大学大学院経済学研究科教授
渡辺努(わたなべ・つとむ)

1959年千葉県生まれ。東京大学経済学部卒業。ハーバード大学博士。日本銀行勤務を経て、現職。専門はマクロ経済学。著書に『世界インフレの謎』など。

公明党幹事長/衆議院議員
石井啓一(いしい・けいいち)
1958年東京都生まれ。東京大学工学部土木工学科卒業。建設省(現・国土交通省)を経て衆議院議員。現在、10期目。公明党政務調査会長、国土交通大臣などを歴任。