「論破文化」と歴史修正主義に共通する落とし穴。(下)
2023/06/30(『潮』2023年7月号より転載。全2回中の2回目)
記事のポイント
- 昨今の日本のネットメディアを考える上で大きなポイントは、ネットユーザーの高齢化。特に男性が多い点に着目する必要がある。
- 論破したがる人と歴史修正主義者はともに、科学的な事実や研究と個人の見解や俗説とを「等価」として扱い議論したがる。
- 議論への関心が高まっていることはポジティブに受け止めた上で、議論する意味を俯瞰して考えることも大切ではないだろうか。
歴史修正主義が台頭した理由
90年代は私が研究対象としている歴史修正主義が台頭してきた時代でもある。「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦は売春婦」など、歴史学の先行研究の蓄積をまるで無視した極端な言説がなぜ一部で人気を博したのか。要因はさまざまあるが、歴史修正主義は90年代に新たに生まれたわけではない。言語化はされていなかったものの、歴史修正主義的な主張は戦後まもない頃から存在していた。
例えば、1965年に日韓の国交が正常化した頃の日本の保守派政治家の発言を見てみると、〝韓国は日本のおかげで近代化した〟〝植民地支配は国際法に照らして正当だった〟など、妄言に近い言説が当たり前のようになされていたのだ。そうした状況であったからこそ、戦後の日韓の国交正常化は迅速には進まず、両国の関係改善は暗礁に乗り上げてきた。
日韓国交正常化はそうした右翼的な政治家らを、アメリカと戦中派がある種、抑え込むことで実現した。戦争を体験して二度とこのような惨禍を繰り返してはいけないと思っていた人々が政界でも社会でも力を持っていた。その世代の政治家が政界から引退していくのが、2005年前後の小泉純一郎元首相時代の頃だろう。
自民党の派閥の話をすれば、90年代初頭まではハト派の宏池会系が実権を握っていた。その後、権力は安倍晋三元首相をはじめとしたタカ派の清和会に移り、現在は岸田文雄首相が総理になって、30年ぶりに宏池会が復権した。
そうした派閥の変遷、また戦中派が退場し、戦後世代の政治家が台頭していくなかで右派のなかに元々あった歴史修正主義的な主張が90年代以降に表に出てきた。
それが世代的に戦中派とまともに接したことがない人々に受け入れられ、それはあたかも目新しい新説のように見えるのだが、実は一部の人々のなかに脈々と存在し続けた考え方なのだ。
90年代以降の日本の社会状況を指して〝右傾化〟しているとも言われるが、実態はそうではなく左派が弱体化しているので右傾化しているように見えるのだ。これは日本のイデオロギーの経年変化を選挙の結果から調査した実証研究からも明らかになっている。その研究によれば、社会党が倒れ、共産党が弱体化したがゆえに右派が勢力を拡大した。その傾向に拍車をかけたのは2009年の民主党政権の誕生とその後の失敗だ。
自民党からの政権交代は民主党政権と93年に誕生した細川連立政権の過去2回だが、いずれも政権交代後の自民党議員の発言は保守色を強めている。2012年からの第二次安倍政権が象徴的だが、その流れで自民党が再び政権を獲得したので、90年代と2010年代とで右傾化したように見える構図だ。
余談だが、先の調査は最も保守的とされる自民党と最も革新的とされる共産党の政策の違いの距離を測る。興味深いのは近年、両党が真ん中に寄る形で徐々に政策の違いが縮まってきているのだ。そこで空席となった左右両極をれいわ新選組やNHK党、参政党などの急進的な政党が担ってきているとも見える。
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背景にある「偽の等価性」
論破文化に話を戻そう。今流行りの「論破」というのは論理の緻密性よりも相手を言い負かす、黙らせることに重きを置いているため、全体的に議論としてあまり高度なものにはなり得ない。歴史修正主義者の主張にも連なる点だが、彼らは科学的な事実や先行研究と個人の見解や俗説などを同じもの、つまり「等価」として扱い、議論に載せてしまう。
研究者が歯牙にもかけないような言説が、まるで対抗する言説のように格上げされ、ディベートの土俵に上げられる。ベストセラーとなったリー・マッキンタイアの『ポスト・トゥルース』にもそれは「偽の等価性」という言葉で表されているが、論破文化の背景には、この「偽の等価性」が存在している。
相手を論破したがる人というのは、往々にして専門知識、情報量などを含めた権力の高低差、つまり「権力勾配」を消して、ゼロから議論することを好む。歴史修正主義がまさにその典型例だ。例えば、旧日本軍による従軍「慰安婦」を巡る問題はこれまでに膨大な研究が行われ、国際的な検証が済んだ資料もまた膨大に存在している。
ところが、歴史修正主義者は、そうした資料や研究を踏まえず、ともすればなかったことにして、個人的に知り得た断片的な事実や知識だけで、韓国の主張は嘘だと言い張る。
先述のミソジニーについても同様だ。彼らはこの世には男性差別が存在すると主張し、女性差別はもはや解消されているにもかかわらず、女性はいまだに権利を主張すると言って腹を立てている。
例えば女性専用車両があるのだから男性専用車両をつくることが男女平等であるかのように主張する人がいるが、それは性被害から女性を守るために女性専用車両が誕生した経緯を踏まえれば、あまりにも的外れだ。ジェンダー問題の背後にある女性差別や男女格差の歴史や経緯をゼロにして議論しようとする。まさに権力勾配を消そうとする「偽の等価性」だ。
「二項対立」を設定したがる
もう一つ、論破したがる人が好む図式は「二項対立」だろう。これもやはり90年代にブームとなったディベートから来ていると考えられる。ディベートは複数の論点から話し合う対話や討論と異なり、二項対立図式を取るコミュニケーションだ。90年代の歴史修正主義者も「歴史をディベートする」を掲げた運動を展開していた。
先述した「偽の等価性」のもとでのディベートは専門家には不利なのだ。そうした場では、ともすれば専門知識よりも一般人の感覚を重視した持論や感情に訴えかけるほうが共感を得られやすい。
実際、今メディアで話題の論客の中には、とにかく話を「〇〇か、それとも××か」というような二項対立にもっていきたがる人も見受けられる。様々な視点や立場から意見が出ているテーマであっても、二項対立によって議論のフレームを単純化していく。十分な議論ができる手法とは思えないが、短くキャッチーな切り取りができるため、今のネットやメディアと相性が良いのだろう。
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権威をやっつけたい権威主義者
突き詰めれば、権力勾配を無視して論破したがる人たちというのは〝権威をやっつけたい権威主義者〟なのだろう。そうした人たちにとっては、大学や学者のアカデミズムは「権威」として目の敵にされがちだ。しかし、「権威」は闇雲に倒すべきものではない。ここでいう権威は専門知と言い換えてもいいが、例えば、医療行為のほとんどを私たち素人が信頼して受け入れられるのは、その背後に長年積み上げられてきた医学の権威があるからだ。麻酔への信頼がなければ、私たちは親知らずを抜くことも怖くてできないだろう。
医学が権威を持ち、社会システムに組み込まれることで世の中に安心感を与えもする。
医学への信頼の話で言うと、コロナ禍中の反ワクチンを巡る陰謀論が想起される。しかし、デマや陰謀論が拡散されるときというのは、公的なニュースが人々の情報ニーズを満たせないときだ。世界中が不安だったコロナ禍はもちろん、東日本大震災の時も然りだが、このことはもはや定説化しており、こればかりはどうすることもできない。ただし、100年前のスペイン風邪のパンデミックとコロナ禍とでは、明らかな違いもある。それは情報の流通スピードだ。言うまでもなく、情報のスピードが速ければ速いほど、デマや陰謀論が拡散されるスピードも速まる。
その一方で、情報のスピードの速さによるメリットも感じた。コロナの治療法の確立や、ワクチン開発があのスピードでできたこともまた、情報スピードが格段に速まったからだ。当時、新型コロナに関する治療法やワクチンの論文が矢継ぎ早に出てくるスピードに驚いたことを、今も覚えている。
相対化できない価値とは何か
世の中で交わされる様々な議論については、分かりやすかったり、話し方が明朗などいわゆる「話し上手」と、きちんと筋や理屈が通っているかなどの「論理力」とを分けて見ていくことも大切ではないか。メディアで人気の識者でも話術には長けているものの論理レベルは極めて稚拙というケースは多い。それは政界で論客と持て囃される人であっても同様だ。
一般的に言われる論破とは、せいぜい「相手が黙った!」などのリアクションで判断しているだけで、別に論理の水準で優劣がついているわけではない。
その上で、論破文化への好き嫌いはどうあれ、議論することへの関心が世間で高まっていることは、ポジティブに受け止めてよいように思う。大切なのは〝相手を言い負かし論破するのが議論ではない〟と理解することだ。世の中にとって本当に必要な議論とは、ゆっくり、ちょうど良い落としどころを皆で探すことだ。
そうした意味では『潮』などの月刊誌で時々掲載される複数の論客による座談会は面白いカルチャーだと思う。もちろん、次々と新しい対談動画がネットでアップされる時代にあっては、月刊誌の活字対談というのはなかなか難しい面もあるだろうが、あまりに情報過多な現代においては、メディアはもう少し減速化しても良い気がするし、活字メディアの良さは〝遅い〟ことにある。
最後に言いたいことは、世の中には相対化してはいけない価値やテーマがあるということだ。先の女性専用車両の例でいえば、社会が目指すべきは性被害をなくして女性が女性専用車両を利用せずに済む社会を築くことであり、そこで「男性専用車両もつくることが男女平等」のような主張が入ってくると、話がおかしな方向にいってしまう。
当然だが世の中は複雑で、全てのテーマが単純にゼロから議論できるわけではない。日本社会でようやく「議論」することに関心が向いているのであれば、議論することの意味をもう少し俯瞰して考えることも大切ではないだろうか。
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創価大学文学部准教授
倉橋耕平(くらはし・こうへい)
1982年愛知県生まれ。関西大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専攻は社会学・メディア文化論・ジェンダー論。立命館大学非常勤講師などを経て現職。著書に『歴史修正主義とサブカルチャー』など。