笠置シヅ子と南原繁――「ブギウギ」が結んだ同郷人の魂の交流
2023/09/2910月からスタートしたNHK朝ドラ「ブギウギ」の主人公のモデルとして、今再び注目を集める・笠置シヅ子。彼女は、戦後の激動の時代に「東京ブギウギ」などのヒット曲で一世を風靡し、大衆から愛された大スターでした。また、戦後最初の東大総長であった南原繁は、笠置シヅ子と同郷であるだけでなく、彼女の実父の友人でした。
『潮』10月号での香川県特集では、評伝本 『ブギの女王・笠置シヅ子』の著者・砂古口早苗さんと、南原繁を主人公とした『夏の坂道』の著者・村木嵐さんの対談が実現。ご好評につき、潮プラスで特別に掲載します。
(『潮』2023年10月号より転載。人物撮影=西田茂雄)
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時代と対峙した笠置シヅ子
村木 砂古口さんが書かれた評伝本『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫。以下『ブギの女王』)をとても楽しく読ませていただきました。笠置シヅ子は、今年10月からスタートするNHK朝ドラ「ブギウギ」の主人公のモデルですね。
私が以前に書いた小説『夏の坂道』(潮文庫)の主人公である南原繁(政治学者、戦後最初の東大総長)が笠置シヅ子と同郷であるだけでなく、彼女の実父の友人だったこともあって、とても興味をもっていました。
笠置シヅ子といえば、戦後「東京ブギウギ」「買物ブギー」などのヒット曲で一世を風靡した大スターですが、砂古口さんの評伝を読んで、なぜ彼女が〝ブギの女王〟としてあれほどブレイクしたのか、そしてなぜその後、その存在が日本の歌謡史のなかで忘れ去られてしまったのか、その理由がとてもよく分かりましたし、何よりも笠置の生き方に圧倒されました。
それにしても、砂古口さんはなぜ笠置シヅ子の評伝を書かれたのですか?
砂古口 この本を書く前に朝日新聞 (四国版)の連載で宮武外骨(みやたけがいこつ)という明治・大正期のジャーナリストの評伝を書きました。連載を終えて、当時の支局長から「香川の人で次も書いていいですよ」と言われたんです。
外骨の面白さは時代に対峙して闘っているところでした。県立図書館でいろいろと調べるうちに、笠置シヅ子に目が留まったんです。
私の母親の世代の香川県民で笠置を知らない人はいないはずです。ところが、「東京ブギウギ」をはじめとする一連のヒット曲や、〝ブギの女王〟としての活躍は知っていても、それ以外のことは知らない。外骨が生きた明治・大正は激動の時代でしたが、笠置が生きた大正・昭和も激動だったことは調べ始めてすぐに分かりました。
ただ、自伝は一冊あるものの評伝がない。自伝の現物もなかなか見つからず、神田の古本屋で何カ月も探して、ようやく見つかりました。その後もとにかく資料を集めて、頑張って書いたんですが、調べれば調べるほどに、時代に対峙していた笠置に魅せられました。
村木 なるほど。本当に面白くて、一気に読ませていただきました。
砂古口 ありがとうございます。おそらくそれは笠置自身の波乱万丈の人生によるのでしょうね。
砂古口早苗著『ブギの女王・笠置シヅ子』
南原繁を通して日本国憲法を考えた
砂古口 村木さんが最初におっしゃったとおり、笠置と南原の共通点は同郷であることが一つ。それと同時に、戦後の激動に活躍して、じきに忘れ去られてしまう――その運命のようなものも共通しています。
村木 砂古口さんはそれを「夏の花火」と形容していましたね。まさにドーンと上がってパッと散る。本当にそのとおりです。
砂古口 南原繁は笠置と同じ旧相生村(現・東かがわ市)の出身で、戦後最初の東大総長として、敗戦で茫然自失となった国民に向けて、「青年よ。学徒よ。希望を持て。理想を見失うな」と力強く演説したことが有名ですが、いま南原のことを知っている人は、残念ながら少数だと思います。 村木さんはどうして南原繁について書こうと思ったんですか?
村木 過去に明治憲法を起草した井上毅の小説(『やまと錦』光文社刊)を書いた時に、いつか日本国憲法のことを書きたいと思ったんです。明治憲法はもともと戦争をするために作られた憲法ではない。その点ではいまの日本国憲法に似ているけれど、結果的に戦争に突き進んでしまった。それがなぜだったのかを考えるためにも日本国憲法について書きたいと思って、戦前から戦中にかけて軍国主義と対峙し、戦後、日本国憲法や教育基本法の制定にも深く関わった南原繁を取り上げることにしました。
とはいえ、難解きわまる『南原繁著作集』を見るたびに「これは絶対に無理!」と思っていたんですが、編集者から南原繁を書いてみないかと声をかけられて、「これは最初で最後のチャンスだな」と覚悟を決めました。
砂古口 膨大な資料だったんじゃないですか。 物書きは資料とも闘うんですよね。
村木 そうですね。自分の人生のなかで一番勉強したと思います。
村木嵐著『夏の坂道』
戦前・戦中・戦後は地続き
砂古口 学者を主人公にした小説は果たして面白くなるものかと、正直、最初は半信半疑で読み進めましたが、『夏の坂道』は面白かった。もうハラハラドキドキの展開。
村木 ありがとうございます。砂古口さんが『ブギの女王』で、戦前・戦中・戦後は地続きだと書かれていましたけど、地続きだからこそ『夏の坂道』も小説になったんじゃないかと思いますね。
私はかつて司馬遼太郎先生の家事手伝いをして、先生の没後は、夫人の福田みどりさんの個人秘書を務めました。奥様は昭和4年の生まれで、そのお母様は大正デモクラシーの時代に女学生なんです。なので、戦中の暗く重苦しい時代に育った奥様は母親からよく「あなたたちは可哀そうね」と笑って言われたそうです。
大正期には街が綺麗になってガス灯が設置されて、華やかな時代だった。戦前はすべて暗黒、戦後は一転して明るく平和な時代、みたいな見方はすごく一面的だと思うんです。
笠置シヅ子も戦後突然スターになったわけでなく、戦前のジャズ全盛期の活躍があり、戦中に〝敵性歌手〟として不遇の時代を過ごした時期があって、ようやく戦後の『東京ブギウギ』の爆発的ヒットがある。まさに地続きです。
砂古口 南原も同じですよね。
村木 ええ。南原も戦前から政治学者として、平和国家としての日本のあり方を模索していました。だから『ブギの女王』を読めて本当に良かった。『夏の坂道』を書いたのは、この本に出合うためだったと思っているくらいです。
砂古口さんの本を読んで、戦後がどういう時代だったのかが、ようやく分かった気がします。
砂古口 私も実は、以前は戦前・戦中・戦後は断絶していて、価値観も全部違うと思っていました。私は青春時代に安保世代の人たちから薫陶を受けたので、思想的に、戦前・戦中と戦後が地続きであるとは考えていませんでした。
村木 私も左翼が強い京都の育ちなので、その感覚はよく分かります。
砂古口 南原と笠置って、実は親子ほどの年齢差があるんですよね(南原は1889年生まれ、笠置は1914年生まれ)。この2人の異なる世代の交流をみても、時代の断絶があるとは思えないんです。
村木 南原が亡くなった時、笠置は非常に落ち込みますよね。心の父というか、それほど仲が良かったというのは砂古口さんの本を読むまで知りませんでした。
砂古口 戦後に2人が出会ったのはまさに運命的です。政治的、社会的な背景以上に、立場や年齢を越えた人間と人間の心の繋がりがもたらしたものだと思います。
花だけでなく根もある人
村木 砂古口さんの本で知ったことですが、母親が裁縫をしていたことも、二人の共通点です。 笠置が東京で大スターになったあと、南原が彼女をわざわざ東大の総長室に招いて、直接出生の秘密を明かすのも、親近感があったからでしょうか。
砂古口 戦後、笠置は人のためになるならどこにでも出向いて行きます。そこも南原に似ている。大スターですが、頼まれたら嫌とは言えない人。まさに時代のすべてを背負っていた人です。 花だけじゃなくて根もある人なんです。
村木 笠置の学生時代の先生が、ブギを聞いた時の感想を述べていますね。癒やされるというよりも頑張らなくちゃいけない、と。その他にも、この本には「名言」がたくさん溢れています。砂古口さんの本を通して、笠置からはいろいろなことを教わりました。
砂古口 そんなふうに思ってくれて嬉しいです。うちの子どもたちは「この人誰?」 って感じでしたから(笑)。香川でも、最近の人は笠置の存在を知らないんです。
村木 それはもったいない! 朝ドラで笠置のことがもっと知られるようになるといいですね。
世の中に出るべくして出た人
村木 戦後、南原の総長演説をマスコミがこぞって取り上げ、国民を勇気づけましたが、同じように、笠置のブギがなかったら、あの時代の人々がどれだけ意気消沈していたか分かりませんよね。戦争が終わったといっても空襲がないだけで、閉塞感があったわけですから。そんな時代に、笠置の存在は人々をおおいに元気づけたはずです。
砂古口 笠置の魅力の一つは、残っている写真のほとんどが破天荒な笑顔ということです。笑顔の効果が絶大なんです。
村木 正月向きのめでたい顔ですよね(笑)。敗戦の空気感のなかにあって、「まだまだ日本はやれる」という象徴になったのだと思います。戦後はもちろん大変だったにせよ、良い面もあった気がします。食べるものはなくとも、心は豊かだったというか。
砂古口 笠置の優れたところは自分の立場をよく理解し、社会性と想像力を持ち合わせていた点です。
村木 ええ。すごく頭が良い人だと思います。
砂古口 華やかな有楽町の日劇を一歩出れば、夜の街で働くお姐さんがいて、お腹を空かせた戦争孤児の靴磨きがいる。戦争未亡人の悲惨な生活なんかもすべて知っているんです。笠置自身がシングルマザーでしたが、そんな苦労人の彼女を、夜の女たちは熱狂的に支持しました。
同時代の松竹歌劇の大スターには自分の身の回りのことをすべて周囲に任せていた人もいましたが、笠置は家事が大好きで子育てもする。それは養父母の影響でしょう。小学校を出てすぐに少女歌劇に入ったのも、一種の自立なんです。いまみたいに裕福な家庭の子女が宝塚歌劇団に入るのとはわけが違う。
村木 自分のお子さんにも、平凡に育ったことがどんなに良いことかといった話をしていますよね。
砂古口 南原の母親も同じだと思いますよ。坂道の上には雲があって、希望があって、そこに向かって突き進むんだと。
村木 あらためて、南原も笠置も「出るべくして世に出た人」だと思いますね。まるで戦後の日本にあらかじめ2人の席が用意されていたかのように。でも笠置の場合は時間とともに忘れ去られていく。ネット上にも情報がほとんどありません。
砂古口 笠置が忘れ去られた理由の一つに、アメリカから〝本物〟のジャズが入ってきたことがあります。笠置が服部良一(作曲家)と組んでやっていた音楽は和製ジャズで、それは本物ではなかったという人がいるんです。
だけど、私は和製ジャズには南原のいう日本民族思想が表れていたと思う。それは偏狭なナショナリズムとかではなく、もっと寛容で開かれたものです。戦後人々が浮かれている時に、笠置と南原は「苦しかったことを忘れるな」と言いました。こういうことを言える人が偉いんです。
村木 私もそう思います。
日本全体のことを考えていた
砂古口 サンフランシスコ講和条約締結の際、南原が全面講和を説き続けて、当時の吉田茂首相から「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と言われるのは有名な話ですが、南原が強く訴えたのは「学問の自由」です。戦時中の学問への政治介入や弾圧を、戦後も危惧していました。
村木 日本全体のことを考えていたように思いますね。同時に、笠置は生活者としてきゅうり1本の値段なんかもちゃんと知っている。「同じ女性として私も頑張らないと」と思わせてくれます。
砂古口 南原が笠置に会って出生の秘密を語ったのは1951年2月です。その後、南原は笠置の後援会の会長を引き受ける。当時、そのことは結構話題になって週刊誌なんかに書かれるんです。学者とブギの女王の取り合わせが異色だったからでしょう。実父との思い出もあったから、南原は笠置に言わずにおれなかった。南原は笠置のことを短歌に残しています。
村木 「若くして死にたる友の女郎花がかく世に出でて大いに歌う」という短歌ですね。
砂古口 南原は冷たい学者なんかではなくて、すごく人情に篤い人ですよ。地元では、笠置の実父が女中だった実母に手を付けたという噂があった。でも実際には真剣な恋愛だったと、どうしても本人に伝えたかったのだと思います。
それから、笠置は60年代から80年代にかけて放映された「家族そろって歌合戦」のレギュラー審査員を務めますが、彼女の人柄を表していたのは、必ず初めに負けたほうを褒めるところです。「よう頑張った」「もうちょいやった!」「惜しかったな」「また出てきてちょうだい」――。それは慰めではなくて、負けても頑張れるという彼女なりのメッセージだったはずです。私のなかでは、それが敗戦後の日本と重なるんです。
村木 人間は、すべてを失ってから本領を発揮する。そう考えると、閉塞感が漂ういまこの時に、笠置に注目が集まるのはとても良いことだと思います。朝ドラ「ブギウギ」の放映開始が楽しみです。
砂古口 ちゃんと南原繁が出てくるかチェックしましょうね。(笑)
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ノンフィクション作家
砂古口早苗(さこぐち・さなえ)
1949年香川県生まれ。新聞・雑誌へのルポ、エッセーの寄稿多数。著書に『外骨みたいに生きてみたい』『起て、飢えたる者よ〈インターナショナル〉を訳詞した怪優・佐々木孝丸』など。最新刊は『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)。
作家
村木 嵐(むらき・らん)
1967年京都市生まれ。京都大学卒業。会社勤務等を経て司馬遼太郎家の家事手伝いに。司馬遼太郎氏の没後、夫人である福田みどり氏の個人秘書を務める。2010年『マルガリータ』 で松本清張賞受賞。その他 『夏の坂道』 (潮文庫)など著書多数。最新刊は『まいまいつぶろ』。