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潮文庫『ブギの女王・笠置シヅ子』プロローグ試し読み

NHK朝ドラ「ブギウギ」の原案、潮文庫『ブギの女王・笠置シヅ子』(砂古口早苗 著)発売を記念して、プロローグと 第一章の一部を特別公開中!
「元気、出しなはれ!」戦後大スター渾身の一代記。
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プロローグ 

  笠置(かさぎ)シヅ子という人を知っている? と訊くと、すぐに、
「ああ、知ってる、ブギの女王でしょ?」
 と答える人はけっこう多い。そのほとんどは六十歳以上だと思うのだが、最近は若い人も意外とその名前を知っている。しかも知っていると答えた中年以降の人のほとんどが、
「東京ブギウギ、買物ブギー、それから……そうそう、子どもの頃の美空ひばりが自分のモノマネで歌うのを嫌ったらしい」
 と言うのだ。このことを知っている人が想像以上に多くて、私は驚き、少し気分が滅入る。

 まあ、たしかにそういうことになっている。ブギの女王を語るとき、誰もが知っている〝歌謡界の女王〟を避けて通れないことは薄々わかっていた。今や本家本元よりもマネしたほうが有名なのだ。だがそれ以上のこととなると、みんなあまり知らない。かくいう私も、名前は知っているものの、どんな人か実はよく知らなかった。同時代人ではなく、大正生まれの、私の親の世代に当たるからだ。出身地は私と同じ香川県。香川県人なら多くの人が彼女の名前を知っている。だが香川の人以外は、笠置シヅ子は大阪の出身だと思っている人が多い。笠置シヅ子といえば大阪弁、だからだろう。

 私が物心ついた頃のスターはなんといっても美空ひばりだったが、それでも子どもの頃からずっと気になっていたのが「買物ブギー」という歌。私は今、笠置シヅ子の三枚組みCDを毎日のように聴いているが、中でも「買物ブギー」、あれはすごい。昭和の歌謡曲で、あんなにインパクトがあってポップで面白くて、ヘンな歌は他に聴いたことがない。

(中略)

  笠置シヅ子といえば、私には「買物ブギー」ともう一つある。

 二十世紀も終わろうとしていた頃、たまたまレンタルビデオ店で「格安レンタル落ちビデオ、どれでも一本九八〇円」の中に、『エノケン・笠置のお染久松』というのを見つけた。製作されたのはなんと一九四九年、私の生まれた年だ。その十年後の五九年に東映で製作された、美空ひばりと里見浩太郎主演の和製ミュージカルみたいな映画『お染久松 そよ風日傘』を、小学生のときに近所の映画館で観てうっとりした記憶があったから、なんとなく買ってしまった。さして期待もせずに見始めたのだが、オープニング早々からびっくり仰天、目が釘付けになった。なんとも楽しいエノケン・笠置のオペレッタ喜劇映画なのだ。私の頭の中から美空ひばりの『お染久松 そよ風日傘』が、きれいさっぱり吹っ飛んでしまった。

 お転婆で自由奔放、型破りなヒロインお染を演じる笠置シヅ子の圧倒的な存在感に、天下のエノケンもちょっとかすんでいる。そっけなくビブラートするその不思議な歌声、さりげなく出てくるレビューダンサーの素養、身の軽さ、素早く七変化する表情、これぞまさしく喜劇女優といったインパクト抜群の〝顔〟とツッコミセンス。とくに蔵の中でエノケンとデュエットの「恋は目でする口でする」と、エノケンをリードして歌い踊る「道行きブギ」に、これまたぶっ飛んでしまった。大きな口を開けて歌い、笑顔を振りまき、エネルギッシュに踊りまくるから、喜劇王・エノケンも押され気味だ。演技も、ものすごくうまいのか、ものすごく下手なのかわからないくらい、声と同じく自然であけっぴろげで、すべてが〝地〟で演っているように見える。これが笠置シヅ子なのか、すごい……。そう思ったとたん、身震いした。美空ひばりのお染とはぜんぜん違うが、ひばりが笠置のモノマネでデビューした理由がこのとき、なんとなくわかったような気がした。

 たしかに彼女の顔はどう見ても、きれいきれいの美人型ではない。八の字眉毛に大きな口。だが、見ようによってはものすごくチャーミングで、色っぽくもある。うっかり近づくとマズイことになりそうな魔力、強烈な個性。そしてなんといってもその〝声〟だ。これまたどう聞いても、いわゆる美声ではない。こてこての大阪弁、ハスキーなアルトの地声、気丈で陽気なオバチャン的ガラガラ声に近いが、だからといって、けっして〝悪声〟ではない。まるで黒人ジャズの歌を聴いているような、大人の情熱と哀愁を搔き立てられる気がする。そしてなにより彼女の声には、人の心を開かせるような解放感と、不思議な包容力があるのだ。

 そんな笠置シヅ子が、戦後一躍大スターにのし上がる。敗戦後のドサクサの頃、まるで稲妻のように登場したのだ。なぜ彼女はブギの女王になったのか。十五年もの長い戦争の果てに敗北し、家族や家を失い、食うや食わずの人々が、一人の小柄な女性の歌うブギに熱狂した占領下の日本とは、いったいどういう時代だったのか。ブギの女王という歌姫の謎と、彼女を生み出した時代への謎が、私の好奇心を激しく搔き立てた。

(中略)

 スターは時代を象徴する。世紀のスター誕生の陰で忘れられていった占領下のスーパースター・ブギの女王がどれほど輝きを放ったスターであったか、そして笠置シヅ子が昭和を生き抜いた魅力的な女性だったことを、戦後復興期という時代の謎とともに解き明かしたい。ブギの女王が脚光を浴びた時代、それはもしかしたら昭和の芸能史、社会史、戦後史でもあり、敗戦後の日本人がどう生きてきたかまで教えてくれそうな気がするのだ。

 

第一章「ようしゃべるおなごやな」
―讃岐生まれで大阪育ち―

ふるさと公演

 香川県東かがわ市は香川県の東端に位置し、徳島県鳴門市に隣接する。二〇二三年現在の人口は二万六千人余り。二〇〇三年に大川郡引田町、白鳥町、大内町の三町が合併して東かがわ市になった。産業は漁業・農業・縫製で、とくにハマチ養殖と手袋の生産地として全国に知られている。瀬戸内海に面する穏やかな町だが、近年は過疎化と少子高齢化が進み、とくに笠置の出身地の旧引田町は県の過疎地域に指定されている。

 私は今、セピア色をした一枚の写真を手にしている。「東かがわ市歴史民俗資料館」が所蔵するもので、笠置シヅ子を囲んで合計九人が写っている。前列に座っている六人は笠置と松平晃、奥山彩子ら歌手たちで、全員ステージ衣装だ。後列には二人の男性の真ん中に若く美しい和服の女性がいる。これは一九四九年四月、当時の引田町にあった朝日座での「笠置シヅ子引田公演」のときの記念写真とみられる。私はこの公演の詳しい話を知りたいと思い、「引田まち並み保存会」会長で医師の山田和弘(一九三二~)さんを訪ねた。

 

 山田さん宅で、山田さんが連絡を取ってくれた水野朝子(一九二一~)さんにお会いした。この朝子さんが六十年前の写真の、笠置の真後ろにいる和服の女性である。朝子さんの証言から多くのことがわかった。まず写真の日付は四月十五日(公演当日)で、写した場所は引田町で現在も営業を続けている池田写真館の座敷だった。今も面影が残る朝子さんの左側が夫の水野清之助さんで、二〇〇一年に九十一歳で亡くなったそうだ。朝子さんは当時二十八歳、長男が生まれたばかりだった。戦前、江田島で海軍兵学校の教官だった山形出身の清之助さんと結婚後、戦後に朝子さんの郷里の引田に戻った。このとき清之助さんが知り合った同じ地区の一人に、笠置の養父・亀井音吉がいた。音吉は戦時中、大阪で妻・うめを亡くし、息子・八郎が戦死してから東京の笠置のもとにいたが、笠置の住まいが空襲で焼け、戦後は音吉・うめ夫婦の郷里である引田に帰っていた。その矢先、笠置が〝ブギの女王〟となって一躍大スターになったのである。音吉の自慢は、やがて町中の自慢となっていく。

 音吉の友人仲間に、町のサロン的な場だった〝散髪屋の中島さん〟や〝化粧品屋の三好さん〟らがいた。そこにまだ若い清之助さんも加わって、自然発生的に「笠置シヅ子引田公演計画」が持ち上がった。むろん、彼らはプロの興行師ではなく素人である。公演場所は当時、萬生寺の前にあった朝日座で、計画に賛同した引田小学校校長が学校のピアノを使用させてくれるなど、〝ブギの女王のふるさと凱旋公演〟話はどんどん進んだ。おそらくあれよあれよという間に町中に広がり、もはや計画は実現に向かって一直線。当時の笠置人気のすごさもあって、前売り券はたちまち完売となった。

 実は前述の写真と同じ場所・同じアングルのものがもう一枚あって、笠置を囲んで五人の年配男性が写っている。笠置はステージ衣装ではなくスーツ姿で微笑んでいて、五人の男性は全員羽織着用の和服姿でかしこまっている。背景のシチュエーションが全く同じなので、おそらく公演の前後に撮ったものだろう。前列中央で笠置の右横に座っているのが音吉だ。この中に友人の中島さんや三好さんなどが写っているに違いない。せっかくの機会だからと、公演計画の中心メンバーで撮ったと思われるが、彼らのどこかぎこちない〝素人にわか興行師〟の素朴な表情がとてもいい。

 二枚の記念写真は半世紀以上を経て、町にとっても貴重なものとなって保存されている。山田さんがしみじみと語った言葉が印象的だった。

「これがまちづくりの本当の良さだと思うんですよ。いわゆる〝偉いさん〟ではなく、この土地に住んでいる普通のお年寄りがみんなで計画して、楽しんで一つのことを実現した。ここに、笠置さんも共感してくれたのだと思います。彼女の人柄が表れていますね」

 

 水野朝子さんは六十年前を振り返ってこう語る。

「赤ん坊がいましたが、公演当日は夢中で〝お茶子さん〟をしていました。笠置さんの舞台をじっくり観る暇はなく、舞台の袖から覗いたぐらいでした」

 夫が〝実行委員〟の一人になった若い彼女が、なんだかわけのわからないうちにコンサートの裏方に駆りだされていく様子が目に浮かぶようだ。そんな中でも朝子さんは、当時三十四歳のブギの女王・笠置シヅ子をよく見ていた。

「笠置さんは写真で見るよりずっと小柄で、並んでみたら私より小さかったです。あんな小さな身体で、あれだけの声量で歌うのでほんとに感心しました。歌い終わると楽屋へ入るなり、すぐに蒸気が出る器具をのどに当てて、のどをいたわっていました」

 ちなみにちょうどこの頃、笠置は雑誌の対談で自分の体重・身長を「十一貫半、丈は五尺に四分足りません」(『サロン』一九四九年九月号)と述べている。当時はまだ尺貫法が広く使われていたようで(計量法が施行されたのは一九五一年)、現在のメートル法に換算すると体重は四十三・一キログラム、身長は百五十・三センチということになる。

 四月十五日の公演は後日、新聞で報じられた。小さな記事だが笠置の顔写真つきだ。「故郷へ帰った笠置」との見出しで、「近郷近在からつめかけた群衆で駅前の歓迎は同町始まって以来のてんやわんや」(『東京新聞』一九四九年五月五日付)と書かれていて、なかなか興味深い公演だった様子がうかがえる。まだ戦後間もない頃で、娯楽が少なかった時代だ。しかも引田は香川でも徳島に近い東の端の田舎町である。一九五五年の記録で旧引田町の人口は七千三百人余りで、笠置の出身の旧相生村の人口が四千四百人。一九二二(大正十一)年に興行師・井上政吉が創業したという朝日座は高松から徳島まで知れ渡った劇場で、それまで一日の最高入場者数が七百名だったのが、この日の昼夜二回の公演で二千五百名と記事にはあり、記録破りの大入りだった。この日いかに多くの人々が女王の歌うブギを聴こうと、朝日座に詰めかけたかがわかる(ちなみに当時の朝日座は、高松にあった玉藻座を移築した風情ある建物だったようだが、戦後は映画館に模様替えし、一九七〇年に閉鎖。そのときに興行ポスターなどの貴重な資料も焼却されたという)。

 同夜の歓迎会には町長、警察署長、学校長など町内の有力者が出席し、笠置を賛辞した。「この町の代表的長者三人の税金を合計しても笠置さん一人の税金にかなわん、あんたはえらい人じゃ」と、町長がこうブチ上げたのにはわけがある。ちょうど公演の数日前、新聞は東京財務局が発表した昭和二十三年度の著名人の高額納税者を報じ、トップは作家の吉川英治で納税額は二百五十万円、次が笠置シヅ子で二百万円だった。「映画界のトップ上原謙、原節子はともに百三十万円だがはるかに及ばない」(『毎日新聞』一九四九年四月十二日付)と記事にある。この頃、大卒の公務員の初任給は三千円。笠置はこの引田公演の売り上げを町に寄付している。引田の大スターは、日本の占領下時代の大スターだった。

 実は笠置は四月十一日・十二日と、高松東宝で興行をしている。おそらく十四日、歌手やバンド一行を伴って国鉄高徳線で高松から引田にやって来たのだろう。駅に着いたとたん、駅前はブギの女王の大歓迎でごったがえした。十五日は引田で公演して一泊し、また高松に戻って二十三・二十四日に同じ高松東宝で〝アンコール公演〟をした。この時期の笠置は東京で日劇や有楽座などの舞台を毎月のようにこなし、また映画出演やレコーディングなど、超多忙スケジュールだった。その合間を縫うように地方巡業がある。そんな彼女がたった一日だけにせよ、養父の願いと町の人々の〝素人興行〟を受け入れたのである。

 水野朝子さんはこう証言する。

「公演の舞台はどれだけの面積で、何人収容するのかなど、条件はいろいろ笠置さん側から言われたようですが、でも結局、ふるさとの公演ということで通じたのだと思います。みんなが素人だったこともよかった。〝玄人ではしません〟と笠置さんから聞かされましたから。それで気持ちよく引田に来てくれました。とくに相生の人はものすごく喜んでいました。相生から出世した人が来てくれた、ゆうて……」

つづきは書籍でお楽しみください!

 

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作家
砂古口早苗(さこぐち・さなえ)

ノンフィクション作家。1949年、香川県善通寺市生まれ。新聞・雑誌にルポやエッセーの寄稿記事多数。最近は宮武外骨研究者としても活躍。母方の曽祖父が外骨と従兄弟にあたる。著書『外骨みたいに生きてみたい』『起て、飢えたる者よ <インターナショナル>を訳詞した怪優・佐々木孝丸』(ともに現代書館)。