加藤周一が見た「言論出版問題」の本質 【書籍セレクション】
2024/03/15国内で吹き荒れる、マスコミによる学会攻撃、政党による学会・公明党への攻撃。
戦後日本を代表する国際的知識人・加藤周一は、はるかベルリンの地から問題の本質を見抜いていた――。
2024年は「嵐の4.24」から45年となる。
ワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 迫害と人生」から一部を抜粋してご紹介します。
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ベルリンから届いた論文
“言論問題の嵐”が吹き荒れた1970年(昭和45年)。一閃、矢のような論文が月刊誌「潮」編集部のもとに届いた。加藤周一が書いた「丁丑公論私記」(ていちゅうこうろんしき)である(「潮」1970年8月号に掲載。『加藤周一自選集4』岩波書店に収録)。
加藤は同論文で、各界から公明党に浴びせられた攻撃に対し、正面から反論した。論壇は驚き、「この一文が(言論問題の)論議の気流を変えるに至った」とも言われる。
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『日本文学史序説』をはじめ、「彼の仕事のすべてが、戦後日本を映し出す鏡」(大岡昇平)と評される加藤。2000年 (平成12年)には日米独仏中韓の6カ国出身の学者が集まり、「世界における日本研究と加藤周一」と題したシンポジウムが開催され、さまざまな角度から加藤の業績に光が当てられた。08年(同20年)に亡くなった彼は、日本を代表する国際的知識人だった。
「言論問題」当時は、西ドイツでベルリン自由大学の教授を務めていた。
「七〇年安保」に象徴される激動の年。加藤が書いた長文の時評は、実はこの「丁丑公論私記」だけである。
当代随一の論客。醒めた眼で祖国を見つめていた。
1970年はまた、自民党が前年に続いて「靖国神社法案」を提出し、中国の周恩来が「軍国主義日本の復活」を警告した年でもある。この年に、なぜ、池田を巻き込む「言論問題」が起こされたのか。
加藤はペンを執った。
「公明党への攻撃は、見当違いも甚だしい」
「丁丑」という見慣れない言葉は、「明治10年」(1877年)の干支である。この年、西郷隆盛が「西南の役」で戦死。明治維新最大の功労者は、一夜にして「古今無類の忠臣」から「古今無類の賊臣」へ貶(おとし)められた。
福沢諭吉は、たやすく豹変した新聞の論調に怒った。そして「丁丑公論」と題する一文を書き、その迎合ぶりを痛烈に弾劾したのである。
加藤周一は、この福沢の論説をもとに、「言論問題」の構造を読み解こうとした。
「池田大作とその時代」を理解するために、欠かせない論文である。以下、その要旨を紹介する。
“日本の新聞雑誌は、「言論の自由」を守るためと称して、一斉に公明党を攻撃した。さらに、普段は芸能人のプライベートを熱心に報じている週刊誌まで、まるで「公明党に私的な怨みがあるのか」と思えるほど攻撃した”
“たしかに「言論の自由」は守らねばならない。そして、おそらく公明党に非はあっただろう。しかし、「だから公明党を攻撃しなければならない」という彼らの主張は、見当違いも甚だしい”
――ここから加藤は、火を吐くような論を展開する。
“日本の「言論の自由」の侵害は、まさに報道機関の中枢にこそ多い。
NHKは、政府・与党への鋭い批判を避けているではないか!
民放は、広告のスポンサーが番組に圧力をかけているではないか!
大新聞は、政府や外国の大使館から注意されれば、鋭い記事を書く記者を社外に追い出すではないか!
さらに、学校の教科書には政府が圧力を加えているではないか!
これまで、そういうことが起こった時、普段は芸能人を追い回している週刊誌が、徹底的に批判し続けたか? 数カ月にわたって世論が騒いだか? 否、決してそんな動きはなかった。
「政府・与党・大企業の非」には黙り込み、「一野党の非」を責めてやまない。そんなジャーナリズムにとって、「言論の自由」など、「言い逃れのための道具」に過ぎないではないか”
wangstdo/Freepik
「抵抗する精神」を守り抜け!
さらに加藤は、“権力に抵抗する精神を守らねばならない”と訴えた。
“民主主義のためには、権力に抵抗する精神が必要である。今、公明党が四面楚歌に陥り、与党の「専制」に抵抗する力を失えば、得をするのは、ほかならぬ与党・政府である”
そして、“今の日本の政治状況を福沢諭吉が見れば、軍国主義復活の怖れが大きい、と論じたかもしれない”と論文を結んだ。
巨大な悪と戦ってこそ、真の言論の自由――「丁丑公論私記」は、この急所を明らかにした。半世紀を経た今もなお、加藤が張った論陣は普遍性を有している。
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「丁丑公論私記」の3年後、加藤は創価大学を訪れ、池田と初めて出会った。さらに新宿、ニューヨークと合計で3回対談。テーマは『万葉集』から国際政治にまで及んだ。創価大学では大乗仏教の可能性について講演した。
また、公明党職員の政策勉強会に参加して、活発に議論を交わしたこともある。親交の深い学会員にも、「あなた方の宗教的感覚を政策に反映させれば、もっと大きな支持が得られると思う」「国会議員は通勤に立派な車を使わず、電車やバスを使ったほうが、クリーンな党としての姿勢がはっきりするのではないか」等々、思うところを伝えた。自らの信条と合わない場合は、率直に異議を唱えた。
加藤の母校である東京大学に学ぶ学生部員たちが、戦争体験を聞き取りに自宅を訪れた時は、数人の学生を相手に、「戦時に平和運動を貫く難しさ」を熱心に語った。
そして獄死した学会の初代会長・牧口常三郎にも言及。「あのような生き方は、できるものではない」「三代の会長の理想を受け継ぎ、学会の活動を頑張ってください」と学生部員を励ました。
池田とその後継が取り組む民衆運動に、期待を寄せる一人だった。
◇
「言論問題」から10年近く経ち、加藤はスイスのジュネーブ大学に赴任した。日本を発つ間際、ある学会員の知人に「今回は、旅先で『続・丁丑公論私記』を書くようなことはないだろう」と語っている。
「しかし」と加藤が続けた言葉に、その学会員は胸打たれた。
「もし、再び書かなければならない状況になれば」
加藤の眼光が鋭くなった。
「その時は、必ず書く」
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当記事はワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 迫害と人生」から抜粋をしたものです。
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「一歩も退いてはいけません」
四面楚歌の言論問題、そして第三代会長辞任……
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【目次】
第1章 「言論問題」の暴風を越えて
第2章 二年の休載――「第一次宗門事件」
第3章 報道されなかった“獅子のドラマ”
第4章 師に捧ぐ――十二巻の完結
第5章 真実の同志とともに――昭和五十四年、立川
第6章 今、再び創立する時――昭和五十四年、神奈川
第7章 ニューヨーク、「迫害と人生」、「紅の歌」