どんな障害も、師と弟子の絆は崩せない 1980年・九州 【書籍セレクション】
2024/03/15第一次宗門事件後、先生に対しての報道規制が敷かれる中で聖教新聞に掲載された異例の“予告記事”。
「何があろうと、私は学会員と会う」――聖教新聞には掲載されなかった2週間の激励行を辿る。
ワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 迫害と人生」から一部を抜粋してご紹介します。
(役職は書籍掲載時(2022年10月)のものになります。)
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「福岡、関西、中部へ」――異例の予告記事
長崎での宿泊先である稲佐山観光ホテル。翌日付の聖教新聞に載せる、帰国報道の原稿が届けられた。
池田の報道は制限されていたが、例外として“海外での動向は報じてよい”となっていた。事実、聖教新聞では、「第五次訪中」の模様を大きく、詳細に報道している。
上海から長崎に到着したこの日は、“報道規制”がかかる境界線だった。池田は記者の白井昭たちと相談した。
翌日の聖教新聞一面。帰国報道の末尾に、通常では考えられない一文が載った。
〈なお、池田名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている〉(1980年4月30日付)
異例の“予告記事”である。「何があろうと、私は学会員と会う」という池田の決意が滲んでいる。 宗門の圧力やその後の影響など、万事を考え抜いた末、同志に発した、ぎりぎりの“メッセージ”だった。それ以降の池田の動きは、ほとんど聖教新聞に掲載されていない。しかし、報道されなかった、この日から約2週間のドラマこそが、「どんな障害も、師と弟子の絆は崩せない」ことを証明していくのである。
列車の座席が“臨時本部”に
4月30日。福岡への移動日である。宿泊先には早朝から学会員が集まっていた。出発した池田。駅への途上で、稲佐山の功労者宅を訪れて母親を励ますなど、最後まで会員との対話を重ねている。
婦人部の藤岡艶子。「もしかしたら」と、長崎駅に向かった。 特急「かもめ8号」。見送りに来た学会員が鈴なりになっている。「お元気な池田先生にお目にかかれて……」と藤岡は回想する。池田は、集まった人に中国で買ってきた切手などを、子どもには「知恵の輪」を渡すよう、矢継ぎ早に指示していた。
◇
諫早、肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖、博多まで、すべての停車駅に学会員が集まっていた。池田の福岡行きは、すでに新聞報道されている。駅や公共機関に迷惑をかけてはいけない。かつ絶対に無事故で進めなければならない――役員たちは、各駅のホームが列車の左右どちらなのか、次の駅に何人来ているか、万全の連絡態勢を敷いて、移動に臨んだ。
しかし、ホームまで来たものの、柱の陰や、遠くから見つめる学会員も多かった。
この数年、「池田を『先生』と呼ぶな」「『師弟』を語るな」と強いられ、脅され続けてきた。
「池田先生にはお会いしたい。しかし、また宗門から責められる。先生に迷惑がかかるのではないか」。多くの同志が葛藤を抱えていた。
池田は到着駅ごとに、席を右に移り、左に移り、手を振って学会員に応え、中国の絵葉書やお菓子を贈る。
「あの柱の左側のおばあちゃん、懐かしいな。中国のお土産を差し上げて」等々、個別にも指示が飛ぶ。長崎から福岡へ、約2時間半――池田が座った特急「かもめ8号」四号車「8D」の席の周囲は、“臨時本部”の様相を呈した。
◇
4月30日夕刻。福岡の九州文化会館。午前からの小雨は止み、晴れ間が広がっている。はす向かいにある公園の木陰から、何人かが、池田の到着を見守っていた。
「池田先生」と呼ぶことすら遠慮せざるを得ない雰囲気は、全国の組織を覆っていた。その“よどんだ空気”を打ち破った一人は、福岡の婦人部員だった。
澤田あや子は九州文化会館へ向かった。 「物怖じしない性格だから、あんなことができたんですね」と振り返る。
到着した池田。しばらくして外に出て来て、集まった同志に手を振った。母、姉と一緒に駆け寄る澤田。「池田先生。目標にしていた料理店を、無事に開店できました。ぜひお越しください!」。一気にまくし立てた。
池田は「必ず行くからね」と応じ、早速、翌日には澤田の店で、女子部、鼓笛隊ら21人を招いて昼食会を開いている。
九州婦人部総主事の阿曾沼仁子は、「あの時、九州から壁を破った。それが私たちの誇りです」と語る。
◇
5月1日。午前5時ごろから、会館に続々と学会員が集まってきた。
周辺の整理役員だった佐藤政春。「これでは対応しきれない」と困惑していた。しかし池田は、「学会員を追い返す資格などないよ」と諭した。
「会長辞任から1年、思うように同志に会えないなか、いよいよ始まった激励行でした。学会員を思う師の心を、十分に汲み取れていなかった」と佐藤は省みる。
池田は訪ねて来た会員たちと次々に“予定外の記念撮影”を。その数は、福岡でわかっているだけでも50回近い。
wangstdo/Freepik
「信心の炎を消してはならない」
福岡県本部長会(5月1日)には、宗門に最も苦しめられた大分の代表も駆けつけた。
別府――第一次宗門事件の始まりの地ともいわれる。荒木明男が寺の異変を感じたのは、1976年(昭和51年)の年末だった。学会の会館より、寺のほうが大きかった。必然的に、寺で会合を開くことに。住職は「講義」と称して青年部を集め、「学会は謗法だ。傲慢だ」と吹き込んでいた。「分断」の始まりだった。
「本当はあの時のことは、思い出すだけで苦しい。話したくないんです」。地区担当員だった大川アヤ子は声を詰まらせる。
地区部長が脱会。学会批判のパンフレットを配って歩いた。市の行事である「温泉まつり」に出演した鼓笛隊を「謗法だ」と貶(けな)された。 「減っていく部員さんの名簿を開くのが辛くて……。 地区の同志の方々と共に、『人間革命の歌』を歌って、歯を食いしばって乗り越えました」。
〈君も立て 我も立つ 広布の天地に 一人立て
正義と勇気の 旗高く 旗高く 創価桜の 道ひらけ〉
――同年7月に発表された「人間革命の歌」(作詞・作曲 山本伸一〈=池田の筆名〉)。
「衣の権威」が荒れ狂うなか、同志の心を明るく照らす歌だった。
◇
本部長会の折、大分の友は池田と、ロビーで記念撮影をしている。
「先生!どうか、大分に来てください」。涙ながらに訴えた。黙ってうなずく池田。1年半後、念願の「大分指導」が実現する。
この福岡県本部長会で池田が語った、
「広宣流布の旗」を決しておろしてはならない
「折伏の旗」をおろしてはならない
「一生成仏の信心の炎」を消してはならない
との訴えは、九州創価学会の原点となっている。
九州平和会館を囲んだ人の波
この日、「入場券を持っていたのに参加できなかった」人がいる。総九州長の山本武である。当時、大分創価学会の書記長だった。5月1日、山本は大分にいた。「“地元の坊主が、学会員の地方議員に脱会をそそのかした”との急報が入ったんです」。激怒した山本は、寺に乗り込んで大論争。「そのせいで参加できなかった」と悔しがる。
夜更けまで、「信教は自由だ。しかし、聖職者にとって信徒は『目的』ではないか。その信徒を自分の『道具』にするな!」と抗議し、一睡もせずに福岡へ向かった。
5月2日朝。山本は、九州平和会館で出発の時間を待つ、池田のもとに飛び込んだ。管理者室。池田は縁側で一人、窓の外を眺めていた。
振り向いて、開口一番「疲れただろう」とにっこり笑った。「私も以前、立川で(僧たちと)6時間、話したんだ」。
僧俗和合に心血を注いできた池田だった。「6時間・・・・」。僧の傲慢に対する怒りを、師匠に伝えようと意気込んでいた山本。立ったまま二の句が継げなくなった。「血気にはやる弟子の思いをすべて汲んで、励ましていただいたのだと思います」。
◇
福岡空港へ向かう時間が迫る。九州平和会館で池田は、会いに来た大勢の学会員と、何回にも分けて記念撮影をしていた。出発の寸前まで激励を続けた。
同会館の管理人を務めていた丸岡善治らは、「先生にも召し上がっていただこう」と、日本蕎麦を準備していた。しかし道が混雑して、その蕎麦が届かない。
「仕方なく、会館警備の牙城会が夜食で食べる、カップ麺を皆で食べるしかないか……あの時は冷や汗をかいた」と丸岡は苦笑い。出発直前に日本蕎麦が到着。池田は、岡持で蕎麦を運んだ川内雅子らの真心に感謝して箸をとった。
まもなく空港に向かった池田。上空を飛ぶ機影を丸岡や山本たちが見送ったのは、正午前である。
飛行機は、大阪国際空港を目指して飛んだ。“変化の風”が、列島の西から吹き上がりつつあった。
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当記事はワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 迫害と人生」から抜粋をしたものです。
続きが気になった方はこちらもご覧ください。
「一歩も退いてはいけません」
四面楚歌の言論問題、そして第三代会長辞任……
最大の逆境をはね返した“一人立つ”人々の物語。
「『民衆こそ王者』に学ぶ 迫害と人生」「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:880円、発行年月:2022年10月、判型/造本:文庫並製/280ページ
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【目次】
第1章 「言論問題」の暴風を越えて
第2章 二年の休載――「第一次宗門事件」
第3章 報道されなかった“獅子のドラマ”
第4章 師に捧ぐ――十二巻の完結
第5章 真実の同志とともに――昭和五十四年、立川
第6章 今、再び創立する時――昭和五十四年、神奈川
第7章 ニューヨーク、「迫害と人生」、「紅の歌」