プレビューモード

【寄稿】世界平和の象徴になった沖縄の核ミサイル発射基地跡(三山秀昭)


三山秀昭氏


「本土防衛の捨て石」にされた沖縄

 沖縄・那覇から高速道路を1時間、恩納村に入る。沖縄を代表するリゾート地だ。コバルトブルーのビーチから1キロほど山道を上ると「創価学会沖縄研修道場」がある。広大な敷地内の施設の一つ、高さ9メートル、長さ100メートルの異様な建物が横たわる。六角形の穴が8つ整然と並ぶ。かつての米軍の中距離核ミサイル「メースB」の発射基地跡だ。

 ただ、若者の多くは沖縄に核兵器が配備されていた事実自体を知らない。沖縄返還の経緯を知る者でもこの発射基地跡の存在を知る人は少ない。ましてその意義を国際的視点で理解している人は専門家でも限られる。

 その意義に触れる前に沖縄の戦史に触れたい。1945310日、首都・東京の大空襲、一夜で10万人が犠牲になった。しかし、軍首脳部は徹底抗戦を唱えた。このため米軍は沖縄に上陸、激しい地上戦闘の地となった。首里城地下の軍司令部が陥落しても大本営は南部への「転進」を命令、わずか3カ月で20万人が犠牲になった。「沖縄が本土防衛の捨て石にされた」と指摘される所以である。歴史に「if」はないが、私がかねて「東京大空襲で日本が降伏を決断していれば沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった」と政府・軍中枢の不決断の責任を問うのはこのためだ。

 敗戦で日本は7年間、連合国軍総司令部(GHQ)による統治となる。しかし、沖縄だけは米軍統治が1972年の沖縄返還まで27年間にも及んだ。その間、米軍は基地建設のための「接収」を進め、朝鮮戦争(195053年)を受けて54年から核弾頭の配備を始める。さらにはベトナム戦争(196075年)が激化し、60年から「メースB」「ナイキ・ハーキュリーズ」「ホーク」などの核ミサイルが恩納村、読谷村、勝連町(現うるま市)、金武町に配備される。

 メースBは広島原爆の70倍もの破壊力を持ち、沖縄は計1300発の核弾頭を貯蔵するアジア最大の核の要塞と化す。米軍は堂々と一般道を使って大型トレーラーで核ミサイルを運び込んだ。その無神経ぶりに小坂善太郎外相は「もっと密やかに行えないか」と極秘に米側に申し入れたほどだ。

 佐藤栄作首相とニクソン米大統領による首脳会談(196911月)で沖縄の「核抜き本土並み72年返還」が合意された(重大な有事の際は核再持ち込み可能の密約あり)。これに伴い、沖縄の核は70年末までにすべて撤去された。沖縄返還後も米軍基地のほとんどはそのまま残るが、核ミサイル基地跡地は自衛隊基地や町村有地、民有地として返還された。このうち恩納村のメースB基地跡地は沖縄海洋博(1975年)への思惑で東北地方の建設会社が買い取った。しかし、ビジネスは不発、跡地は荒れ果てたまま放置された。それを76年に創価学会が研修施設用地として取得し、翌年には「沖縄研修道場」を開所、当初は宿泊して仏法を学ぶ施設として活用されていた。ただ、敷地中央部にあるメースB発射口跡は朽ち果て、地元では解体する方向に固まりつつあった。

 ところが池田大作名誉会長(創価学会インタナショナル会長)が83年に現地を訪れ、「ここは永遠に残そう。人類はかつて戦争という愚かなことをしたのだという一つの証として」と提案、保存することになった。こうして「核の発射基地跡」は整備され「世界平和の碑」の名称で生まれ変わって現在に至る。いまは1つの発射口跡で沖縄戦の歴史の紹介やメースBの模型が展示され、「核兵器廃絶を目指して」などの企画展が一般公開されている。

メースB発射基地跡の歴史的意義

 このたび、創価学会沖縄事務局の特別な許可を得て、地下の核ミサイル発射指令室を見る機会を得た。分厚い鉄扉を開け、厚さ1.5メートルのコンクリート壁に囲まれた細長い地下通路を進むと「バンカー」という、かまぼこ型の発射指令室があった。途中、内部に入るための暗号確認の通信装置跡も見られた。指令室はコンクリート壁が剝がれ、アスベストが垂れ下がり、床には雨水が数十センチ溜まっていた。壁面には発射指令ボードの痕跡が残っていた。

 当時、ミサイルは地下から地表へ斜めにセットされ、射程は2400キロメートル、ソ連の一部と中国に向けられていた。米中、日中国交正常化(1972年)前のことである。キューバ危機(1962年10月)の際、核ミサイル発射の準備態勢(デフコン)が5段階の3から2に上がったという米兵の証言がある。ただ「誤った発射命令に疑問を感じた米兵が寸前で止めた」という情報が後年伝えられたが事実は確認されていない。

 世界で米軍が厳戒態勢に入ったことは事実だが、キューバ危機はソ連がキューバから核ミサイルを撤去する代替としてアメリカがトルコに配備していた核ミサイルを撤去して決着したのが史実だ。極秘交渉では「アメリカがキューバを攻撃すれば、ソ連が西ベルリンを攻撃し、米ソ核戦争になる」(マクナマラ米国防長官)という過程があった。「キューバ危機はベルリン危機」というのが外交専門家のコンセンサスであり、この局面では中国を標的とする恩納村のメースBは直接の関係がなかった。

 さて、恩納村の核ミサイル発射基地跡の意義を再確認したい。私は米国ワイオミング州のウォーレン戦略空軍基地で大陸間弾道弾(ICBM)の発射サイロを見たことがある。国防総省(ペンタゴン)の特別許可を得て発射訓練を見たのだが、実は核ミサイル発射基地跡が現存しているのは世界でも稀だ。

 かつて核兵器が開発、配備され、それが撤去された国としては南アフリカ共和国しか例がない。南アは豊富な天然ウランを産出、1970~80年代に核開発に成功し、6発の核兵器を保有、配備していた。国際社会の経済制裁と東西冷戦の終焉を受けて90年にデクラーク大統領がすべてを廃棄した。大統領には93年ノーベル平和賞が授与された。ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシはソ連時代に核が配備され、ソ連崩壊後にロシアに移管された。いずれも発射基地跡が保存されているなど聞いたことがない。

 恩納村のメースB発射基地跡が保存されているのも、それが平和学習に利用されているのも、国際的視点や歴史的意義を踏まえると極めて貴重な意義を有することを強調したい。

 創価学会沖縄事務局の桑江功局長によれば、一般公開されているものの「世界平和の碑」の企画展などに訪れる人は年間5000人程度、その6割が創価学会員。特別許可を得て核ミサイル発射口まで見学する人は1割程度だ。大学教授らが訪れることはあるが、全国的には専門家でもその存在を知る人は少ない。桑江局長は「5月から修復工事に入り、来年1月にリニューアルする。事前連絡いただければ、でき得る限りご案内したい」と話す。

 沖縄返還は2年前の「50周年」が過ぎ、歳月の経過で半世紀前の事実でさえ「歴史」となりかけている。終戦から来年で80年、沖縄に「核」が存在したことを歴史に追いやらないためにも、関心ある人は恩納村のメースB発射基地跡に足を運んではどうだろうか。

文=三山秀昭(広島大学特別招聘教授・広島テレビ放送株式会社顧問)

こちらの記事も読まれています