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地に依って倒れた者は地に依って起つ以外ない

池田大作第3代会長の青春の日々と激闘のドラマを1冊に。

空襲で焦土と化した街での苦学、肺病。
戦後の混乱期に人生を決定づける恩師との出会い、「民衆救済に生きる」と決めた青年は、苦悩の人々と共に歩んでいく――。


『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い から一部を抜粋・編集して紹介します。(本書:p.38-46)

 

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若き日の池田の言葉によって立ち上がった世代は、青年に限らなかった。誰も経験したことのない戦後の混乱の真っただ中で、創価学会は誰を励まし、誰の人生を変えてきたのか。その原風景を探るために、一人の女性の手記を紹介しておきたい。

 

38度線を越えて

佐藤末子は1920年(大正9年)、福島県の船引町(現・田村市)で生まれた。21歳で結婚した。嫁ぎ先の三春町は、「日本三大桜」の一つ、樹齢千年を超える「三春滝桜」で知られる小さな町である。夫の誠は通信担当の軍属として満州(現在の中国東北部)に出征した。40年(昭和15年)、末子も満州の首都・新京に渡った。

戦況が悪くなり、突然、夜中に疎開命令が出た。ソ連軍の攻撃である。末子は暴徒に襲われないよう坊主頭にした。そこからの地獄を、末子は詳しく書き残している。
〈着のみ着のまま主人と別れ別れに成り、主人は関東軍のほうへ、私と二人の子供は平壌へ下り、そこで終戦となりました〉

5歳と2歳の子を抱え、末子は鉄道司令官の清掃員として働いた。「ソ連兵は日本の婦女子をさらっていく」という話が広がっていた。〈帰宅して子供の顔を見ると、一日無事に過ごせたことが何より幸いだったと思い、その日その日が戦いでした〉。

翌年9月、日本に帰国できると聞いた。1週間分の焼米(保存食)を持ち、2歳の長女を背負い5歳の長男の手を引き、朝から晩まで歩き続けた。力尽きた人が次々と倒れていった。

川が多かった。ずぶ濡れになって渡った。8日目、朝鮮半島を横断する38度線まで来た。昼間は越えられない。〈登り8キロ、下り8キロの険しい山道で、真っ暗だが国境ゆえに明かりをつけることができず、頭に白いものをかぶりそれを目標に歩く……声を出すこともできず、子どもは靴ずれと雨に濡れて泣き、背中の子どもは動くこともなく、死んだのか生きているのかわからない状態で山を下りました〉。

飲まず食わずで丸一日歩き続け、港から帰国船に乗った。2歳の長女は痩せ細り、高熱が続いていた。〈何の手当もできず、医者がいても薬がない。死人がどんどん甲板から薦(こも)に包まれ海に落とされる。(長崎の)佐世保が近づくにつれて山々が見えると懐かしさでいっぱいになりました〉。

佐世保港に着いた。伝染病検査で下船まで1週間ほど待たされた。祖国の大地を目の前にしながら、長女のツヤ子は船の上で息絶えた。

夫の誠は無事帰国していた。しかし末子の苦闘は続いた。それまでの無理がたたってしまい、国立郡山病院に2年以上入院した。肺結核に加え、脊椎カリエスや多くの臓器不全に苦しんだ。「ここでは手の施しようがない」と医師から告げられ退院。横浜に移り住み、東京都内の病院を回った。

〈どこの病院に行っても治療方法がないといって入院させてくれませんでした。生き地獄とはこの事かと思い、くる日もくる日も薬と注射で生きている毎日でした。ある日近所の奥さんが訪ねて来られ、信心すれば病気はなおり、生活は楽になり、どんな悩みも解決すると聞かされました。この世の中にそんな事があるかしらと信じられませんでした〉

末子が学会を知ったのは1951年(昭和26年)の夏のことだった。当時、長男も肺結核で学校を休んでいた。本当に自分も息子も治るのだろうか。末子はこれまで何度も死を決意し、死にきれなかった。夫の誠は猛反対したが説得し、信心を始めた。

「地に依って倒れた者は、地に依って起つ以外ない」
〈毎日毎日病魔と戦いながら唱題に励み、時には呼吸困難となり、一日一日が魔との戦いでした〉。末子は横になったまま祈り続けた。1カ月後、座って勤行ができるようになった。台所に立てるようになり、数カ月後、初めて座談会に出席した。

翌年、川崎の南加瀬に引っ越した。夫との口論が絶えず、夫婦仲が裂けそうになった時、鶴見市場駅に近い佐々木庄作(鶴見支部第二代支部長)の家まで指導を受けに行った。

その場に24歳の池田がいた。

家庭のこと。自分の病気のこと。そして、もう一度子どもを産みたいこと。末子の悩みを聞いた池田は、「奥さん、地に依って倒れた者は、地に手をついて立つ以外にないでしょう」と語り、悩みを土台にして立ち上がり、何があっても信心根本で生き抜くよう励ました。

この一言が「生涯の指針」になった。〈苦しい時も楽しい時もこの指針を支えに生きた〉と末子は書き残している。

©freepik
池田の『若き日の日記』には次のような記述がある。師である戸田の事業難を支えていた渦中である。


〈前途が、暗黒であることを感ずる。先生の胸中、父母の心配を思うと、胸が痛む。
地に依って倒れた者は、地に依って起つ以外ない。この現状を、再起させれば、最大の活躍の証明となる。先生に心から歓んで戴けることだ。阿修羅の如く、奮い起とう〉(1950年8月30日)

大地で倒れた者は、その大地から立ち上がるしかない――日蓮は、亡くなる8カ月前、重病に伏せっていた南条時光という門下に一通の手紙を書いている(「法華証明抄」)。

そこには〈地にたおれたる人は、かえりて地よりおく〉という一節がある(御書1586ページ、新1931ページ)。当時、日蓮は弟子に代筆を頼むほど体が弱っていたが、若くして病に倒れた門下のために自ら筆をとった。それがこの「法華証明抄」だった。

同抄には〈人の命には限りがあるから少しも驚いてはいけない。また、鬼神どもよ。この人(南条時光)を悩ますとは、剣を逆さまに飲むのか。自ら、大火を抱くのか。三世十方の仏の大怨敵となるのか〉(現代語訳)等々、火を吐くような激励が書き連ねられている。病気に直面した時などに、多くの学会員がこれらの御書を教え合い、学び合ってきた。

若き池田もまた、戸田から教わった日蓮の言葉を、自らの体験を通して一つずつ現場に注ぎ込んでいった。26歳のある日の日記。

〈蒸し暑い一日であった。身体の調子、全く悪し。肺病、胃病、糖尿病もか。健康になりたい。次第に、身体の衰えゆく事を痛感する。……強盛なる信心を確立せねばならぬことを、反省する。宿命との戦い。自分との戦い。これこそ、一生の信心にふさわしい尊い価値だ。
夜、鶴見に講義。講義のたび毎に思う、勉強せねばならぬと〉(1954年5月19日)

その翌月の日記。
〈夕刻、鶴見の講義。於鶴見市場S宅。少々、身体を休めたためか、力強い、良い講義が出来て嬉しい。終わって個人指導する。京浜急行・鶴見市場駅まで二、三の同志が送ってくれる。感謝の念が心から起こる。
……人の心ほど尊く、美しいものはない。だが一面は、人の心ほど醜いものもないであろう。
十九世紀、二十世紀と、機械文明がいくら進歩しても、人の心のこの原理には、変化はない。――十界三千、本有常住が、生命の本質であるから〉(同6月16日)

佐藤末子は、こうした日々のなかで池田が励ました一人だった。

末子はやがて体調を回復し、故郷の福島まで遠出できるようになった。〈病院通いしていた私がうれしくてどこへでも折伏しに行き、本当に楽しい折伏がどんどんできました〉。

2年後、妊娠2カ月であることがわかった。「産めば、あなたが死んでしまう」。助産師からも、保健所からも止められた。夫と話し合い、唱題を重ね、出産を決めた。産まれた赤ん坊は女の子だった。

「母は満州の話や、私を産んでくれた時の体験談を、包み隠さず、いろんな会合で語っていました」――末子の娘、大内正子。「『この信心で幸福になったのよ』『池田先生とともに生き抜いてきたのよ』と、耳にたこができるくらい聞かされた」と笑って振り返る。

「私が小学3年生の時、母のカリエスが治り、ギプスが外れました。それまでは、地区担(現在の地区女性部長)として学会活動でどこに行くにも歩いていました。『やっと自転車に乗れる』と喜んだ顔が忘れられません」

佐藤末子は54歳で亡くなった。娘の正子が20歳の時だった。「私を産んでから20年も寿命を延ばしたのです。最後の最後まで、鶴見市場で池田先生から受けた指導を口にしていました。父も信心をまっとうしました」。

末子は亡くなる前年、ちょうど女子部で活動し始めた正子に手紙を送った。遺言のようなその一枚の便箋を、正子は今も大切に持っている。

〈人から云われてやる斗(たたか)いは負ける。自発的に何でも責任を持って進む事です。
解らぬ事は先輩に聞きながら、事故なく……どんな事が有っても勝たねばの一念で頑張って下さい。
私も残る日を一生懸命頑張ります。福運積むのは今ですから頑張って下さいよ。菓子とくだものを入れましたから、皆さんと一緒に食べる様に〉

絶望の淵で信仰を抱きしめ、自分の道を自分で切り開いた女性が、娘に残した言葉だった。


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当記事はワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」から抜粋をしたものです。


「何があっても二十年、地道に」
池田大作は日蓮仏法を世界に弘めた。折に触れて語り続けた一言がある。
「全部、戸田先生から教わったことなんだよ」――

 

「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:880円(税込)、発行年月:2024年5月、判型/造本:文庫並製/272ページ

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【目次】
第1章 「青年の譜」――本当の言葉を求めて
第2章 後輩を自分より偉くする――第一部隊①
第3章 文京支部長代理として
第4章 「山口闘争」の二十二日
第5章 「冬」に「春」を見る力――第一部隊②
第6章 見えぬ一念が全てを決める――第一部隊③
第7章 秀山荘の三年間――第一部隊④

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