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私と会ったこともない人の中に本物の信心の人がいる

かつて「あるのかないのかわからない」と言われるほど低迷していた文京支部。
池田先生は数々の役職を兼ねながら、この支部を立て直すために奔走していた。


『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い から一部を抜粋・編集して紹介します。(本書:p.106-110,120-126)

 

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怨嫉が団結を壊す

「文京支部時代、『団結』というものがいかに大切なのかを学びました」と金子都峯子は語る。それは、会合などの「見える場所」での話ばかりではなかった。「具体的には、先生から『家庭内で愚痴を言うのは一番よくない』と教わりました」という。

「どれだけ熱心に学会活動をしても、家に帰って、あの人はどうの、この人はこういう点がよくないだの、批判がましく話してはいけないのです。子どもは親の姿をよく見ています。『人前と家庭とで、話が違う』と思い、疑問を感じてしまう――こういう話を通して、団結の重要性を指導されました」

池田は文京支部の会合で「楽しい信心をするには、第一に、怨嫉をしないこと」(1956年10月25日、文京支部班長会)と戒めている。「怨嫉ほど、つまらないものはない。これは闘争の的(=目的)がなくなると出てくる。……怨嫉すると、百年の功も一言で破れる……そういう弱い根性が出たならば、それを乗り越えていく題目をあげることだ」。

こうした池田の指導を実践した人は数多い。「両親は学会活動で家にいないことが多く、一人っ子の私が留守番役でした」と田中優子は語る。両親は文京支部の一員だった。1952年(昭和27年)、3歳だった優子の病気をきっかけに信心を始めた。母の高橋歌子は自分の性格について〈何かにつけて消極的で、先輩に引っぱっていただかなければ、一人で何も出来ない弱い私でした〉と書き残している。

「でも母は、自宅で一緒に食事する時は、いつも『座談会ではこういう人がいて、こういう体験をしてね』とか、『池田先生はこういう指導をされたのよ』とか、じつに楽しそうに話してくれました。愚痴を聞いた記憶がありません」。優子はいつしか「大きくなったら私も学会活動というものをしてみたい」と思うようになった。

1962年(昭和37年)1月、父が病気で亡くなった。一人娘の優子は中学1年生だった。会長就任から2年目の池田は時間をこじあけ、母の歌子から細かく家庭の状況を聞き、「御本尊を主人と思って信心していきなさい」と励ました。「先生は、母が働いていた実家のクリーニング店に、わざわざご自分のワイシャツを出されたこともありました」(田中優子)。

母一人、娘一人になって8年が過ぎた。東京の練馬で学会活動に励んでいた。池田から『人間革命』の第4巻が届いた。表紙をめくると、池田の自筆で

〈本当によく頑張って
 来られた。嬉しい。
 優子ちゃんも 立派に育つ。
 すべてに 最后(さいご)の幸福の
 大勝利になることのみを祈っている〉

と書いてあった。〈何度も何度も読みかえしました。先生はこれ程までに私達母娘を見守っていらして下さったのか……目頭が熱くなり泣いてしまいました〉(高橋歌子の手記)。

「母は71歳で亡くなりました。末期の大腸ガンでしたが、痛みはなく、食事も普通にしていました」(田中優子)。亡くなる前々日も、石神井会館での会合に参加している。「訃報を聞いた人たちは一様に信じられない様子でした。それくらい元気だったのです。仏法者として見事な最期だったと思います」。

歌子の訃報に接した池田は、追悼の和歌を詠んだ。

〈忘れまじ 広宣流布の女王たる
 文京家族の 母たる君をば〉

―中略―

「私と会ったこともない人の中に、本物の信心の人がいる」

池田が〈(文京支部の)基礎は完全に出来上がった〉と日記に書いたのは、1954年(昭和29年)の7月1日である。この日、夜空に光る火星を眺めながら〈今夜ほど、死後の生命を考え抜いたことはない、否、考え苦しんだ夜はない。(長男の)博正、妻の実家に泊まりに行く。妻と遅くまで静かに語る〉とも記している。

その前月、池田の体調はこれまでになくひどかった。

〈病、弥々ひどくなる様子〉(6月3日)

〈身体の具合、全く悪し。死を感じてくる。悲観――苦悩――呼吸するのさえ苦しい。……疲れてならぬ。早目に就寝〉(6月6日)

〈膚(はだ)寒き一日であった。生活費逼迫する……滝を昇らんとする鯉。踏まれて、なお咲く草花。逆境に勝ち、大成した人々。青年期には、こんなにも心の葛藤があるものか。……不思議に、死を予感してならぬ。これ死魔というべきか。信心茲(ここ)に七年。最大、最高の試練に向かう。今夜は、とくに苦しく、淋しい。今、一人の友もなく応援なく、力は刻々と衰えていくようだ。涙が、るいるいと流れる。ここで死ぬのはいやだ。弱冠、二十六星霜。生命の奥底も極めず、人類社会に大利益も与えず、師の恩も返さず、これで死んでいくのは、あまりにも残念だ〉(6月8日)

小学生だった荻野文弘。「わが家は武蔵野地区の拠点だったのですが、早めに到着された先生が1階で少し横になり、時間になるとパッと起き上がって勢いよく2階の拠点に上がられる姿を、何度か見ました。肺病や熱があったなんて知らなかった。会合の参加者も、誰も想像していなかったと思います」。

縦横無尽ともいえる活躍の陰で、自分との闘いが続いていた。

〈身体の具合悪し。宿業の深きを悩む。恐ろしいことだ、宿命とは――。肉体年齢は五十代を過ぎている感じ。あと幾歳生きることか。感傷的になる日がある〉(同12月20日)

〈(戸田)先生より、泰山も裂けんが如く、叱咤さる。厳父の怒り、先生の激烈なる大音声に、身のすくむ思いなり。嗚呼、われ過(あやま)てり。先生の仰せどおりなり。人生の落伍者にならぬためへの厳愛。敗戦の将軍とならざるための訓戒。ここ数日、自己の罪業、宿命を見つめ、泣き、憤り、思索して、先生のご期待に応えんと決意する〉(同27日)

〈権力なく、財力なし。背景なく、地位もない。所詮は人間の裸になった力。全生命よりほとばしる信心の力。十年後、否、二百年後をめざしての英知。われ、無量の思いあり〉(同31日)

〈人生の青春。人生の桜花。今、散りゆくは、いと淋し。題目をあげきることに尽きる。仏法の厳しさ、自己の一念の厳しさ、実証のため、自ら奮起あるのみ〉(1955年3月16日)

〈身体の具合悪し。顔色、悪しと、妻よりいわれる〉(同17日)

〈身体の具合悪し。今生で一番苦しい一日であった。十二時、死ぬが如く、床に入る〉(同5月3日)

〈身体の具合、少々取り戻す。皆の、逞しき、元気な姿が、うらやましい。妻も、無理を通し、疲れているらしい〉〈一、唱題。二、睡眠。三、養生。重々、注意。実行。忍耐。"仏法ハ道理ナリ"〉(同6日)

〈(池田先生は)常に戸田先生のご一身を心配されながら、相模原、横須賀方面、更には散在する地方拠点へおもむき、座談会に、講義にと奔走されたのであった。当時、うかつにも私は、先生が病魔と戦いながら指揮をとられていたことにはまったく気づかなかった。後に『若き日の日記』を読んで、そのことを知ったのである〉(田中都伎子の手記)

その『若き日の日記』には、さまざまな会合の前後で、次のような言葉も記されている。

〈第十回 創価学会定期総会(日大講堂)……午後八時、全部清掃を終える。黙々と掃除に励む、名もなき男女青年の姿に、頭が下がる。それにひきかえ、指揮をとる立場の自分が、申しわけないように感ずる。生涯、陰で苦労せる人々の心情を、絶対忘れぬことを心に誓う〉〈自分には、滝の如き激しい気性がある。これが、善にゆくか、悪となるかが信心である。心して、次の前進をしてゆこう。十二時近く帰宅〉(1954年5月3日)

〈京王地区の総合座談会に、出席。力の限り、指導し、激励して帰る。指導して、意気揚々と帰る自分より、これ程まで結集させた、中堅幹部の人々に深く思いを致すべきである〉(1955年10月2日)

〈夜、東横地区の指導。尊き、庶民の集い。信心の世界が、最高に愉しく、美しい。指導に行くことは、結局、自身が指導を受けに行くようなものだ〉(1957年6月1日)

田中都伎子は亡くなる数年前、文京の青年部に、「陰で苦労せる人々」を尊ぶ池田の象徴的な言葉を伝えている。それは文京支部長代理を終え、第三代会長になった池田が、田中をはじめ最高幹部たちに語った内容だった。

「君たちの何倍も真剣に戦ってくれている人がいるんだからね」
「私と口をきいたこともないし、会ったこともない、そういう人の中に、本当に学会を守って、がんばってくれている人がいるんだ。そういう人の信心が、私は本物だと思っている」

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当記事はワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」から抜粋をしたものです。

「何があっても二十年、地道に」
池田大作は日蓮仏法を世界に弘めた。折に触れて語り続けた一言がある。
「全部、戸田先生から教わったことなんだよ」――



「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:880円(税込)、発行年月:2024年5月、判型/造本:文庫並製/272ページ

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【目次】
第1章 「青年の譜」――本当の言葉を求めて
第2章 後輩を自分より偉くする――第一部隊①
第3章 文京支部長代理として
第4章 「山口闘争」の二十二日
第5章 「冬」に「春」を見る力――第一部隊②
第6章 見えぬ一念が全てを決める――第一部隊③
第7章 秀山荘の三年間――第一部隊④

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