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困っている人の所に幹部は真っ先に駆けつけよ

1950年(昭和25年)の師走。勤めていた恩師の事務所が、新宿の百人町に移る。

池田先生がのちに
〈昭和二十五年のあの日
百人町に事務所を移し
再建の雌伏の時を過ごした〉(全集42巻)
と綴られた簡素な事務所で、青年は育ち、聖教新聞が産声をあげる――。

『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い から一部移る粋・編集して紹介します。(本書:p.199-205)

 

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困っている人の所に幹部は真っ先に駆けつけよ

――戸田城聖は、この百人町の事務所で池田たちに教学を教えている。

〈新宿、先生の社にて、青年部会。集合、十四名。「諸法実相抄」の講義。
先生より、法華経第一の巻と、方便品第二との関係をはじめ、数度の質問有り。小生の、不勉強に心痛む。先輩を見習わねばならぬ〉(池田の日記から。1951年2月22日、小雨)

「諸法実相抄」には、〈日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか〉や〈力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし〉などの名高い一節がある。

この1年後に発刊されることになる御書の「発刊の辞」で、戸田が引用したのも「諸法実相抄」だった。

事務所のすぐそばを山手線や総武線がひっきりなしに通る。むき出しの土間をすきま風が吹き抜ける。にぎやかな列車の音を耳にしながら、戸田の講義は続いた。

〈先生の、弟子に対する訓練、次第に深く感ずる。宿命の代表の弟子も吾れなりと、心苦しむ。皆で、この師の遺業を立派に果たしたいものだ。今は、罵詈罵倒されている師、学会。而し、吾等の成長せる、十年後、二十年後を見るべしと、心奥に、岩の如く感情が湧く……〉(池田の日記、同)

翌日は〈夕刻、どしゃぶりの中を、先生宅にゆく。講義なし。永遠の生命について、宿題あり。全く困る、難しくて〉。

その翌日には〈『三国志』全巻、読み終わる。構想大なり。人心の機微よく画(えが)けり。大戦乱に、活躍せし、武将、政治家の一大絵巻の感あり。策あり、恋あり、涙あり、意気あり、力あり、教訓多々なり〉。

2カ月後、この小さな土間の事務所で「聖教新聞」が産声を上げる。戸田と池田を襲った長い〝冬〟が、去ろうとしていた。

後年、楠戸智が建てた建物に入っていた飲食店が、火事を出したことがある。火が収まった後、ある幹部から池田に報告が入った。

〈……お名前と場所を聞き、会合が終わるや、私は妻と一緒に被災者のお見舞いのために、花束をもって、オーバーの襟をたて、寒風の中へ飛び出した。ところが、聞いた場所に、火災のお宅がなかなか見つからないのである〉(池田のエッセー、全集第126巻)

場所の説明が、間違っていた。

〈……さんざん探して、ようやく見つかった。聞けば、その幹部は、まだ火災の現場に行ってもいなかった。

私は心配した。出来上がった組織に、若い幹部が乗っかって、草創の父母が紅涙を流しながら築いた組織の上に安住しはじめたならば、仏法流布の未来は描けない。

私は注意した。

「いちばん困っている人の所に、幹部が、真っ先に駆けつけるのが、学会です。そして、最も悩み、苦しんでいる人を、全力で励ますのが、学会なのです。何をさしおいても、飛んでいくのです。私は、そのようにやってきました。学会のスピードを、おろそかに考えてはいけない。もっともっと本当の学会というものを知らなくてはいけない」

「もう一つ、リーダーの発言は、正確でなくてはいけない。地図一つ説明するのでも、いい加減なことはいけない。正確、正確……これが学会なのです」〉(同)

池田は22歳から23歳にかけて、オーバーもなく、シャツの着替えにも事欠くなかで百人町に通った。その〝木造の戦場〟で思いがけない縁のあった楠戸智を、折に触れて励まし続けた。

95年(平成7年)に智が生涯を終えた時、〈三世まで/忘るることなき/父君の/偉大な光は/世界を照らさむ〉と追悼の和歌を贈っている。

 

傲慢を叱り、嘆きを包む人

池田は、恩師である戸田城聖の人間性が〈世間的な寛容とか襟度などという概念を、はるかに超えたところ〉からほとばしるものだったと綴っている。

〈彼(戸田城聖)は、接する老若男女に対して、なんの分け隔てもしなかった。誰人であろうと、まさしく一個の人間として、遇していたのである。そこには、虚偽も、欺瞞も、虚飾も、入る隙は全くなかった。

彼は、前科何犯であると告白する人の罪は、決して責めなかった。しかし、命をすり減らしての真剣な指導に、虚栄や追従、お世辞や傲慢さで応える者を見る時は、それを許さず、突如、烈火のごとく怒りだす。そして、全精魂をもって、その虚栄と傲慢を叩き出すのであった。不真面目な、ずるい妥協は、絶対にしなかった。

こうした時の彼の豹変を、人びとは、理解に苦しむことが多かったようである。それは、誰よりも鋭敏に、虚偽をかぎ分ける彼の心の働きを、人びとが容易に気づかなかったからではあるまいか。

〝こんなことに、なぜ、あんなに怒るのであろうか〟と疑問をもった人びとも、後日、叱られた人の身の上に起きた現象を知って、初めて、戸田の怒りは当然であったと納得することが多かった。そして、彼の怒りが、慈愛から発したものであったことを知って、驚くのが常であった〉(小説『人間革命』第3巻「群像」の章)

日蓮は、仏の生命を〈無作(むさ)の三身〉(「御義口伝」など)と呼んだ。無作――何も飾り立てない、本来ありのままの姿でありながら、最高の自分の力が出せる――そうした生命観を「桜梅桃李」――〈桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの特質を改めることなく、そのままの姿で、無作三身の仏であると開き、見ていくのである〉とも説いている(御義口伝、御書784頁、新1090頁、通解)。

〈彼(戸田城聖)の振る舞いのさまざまな様相は、まさに仏法に説く「無作」というよりほかになかった。そこには、世間的な通念では律しきれぬものを含んでいたのである。

多くの人びとにとって、ある時は、最も近寄りがたい戸田城聖であり、ある時は、この世の誰よりも、一切を包容してくれる戸田城聖であった。それは、戸田の心が、その時その時で、目まぐるしく変転したからではない。戸田に接する人びとの心の状態に、戸田は鋭敏に反応したのだ。

傲慢な心を見るや、戸田の口からは激しい叱責が発せられたし、絶望と悲嘆に暮れる人を見れば、慈愛の言葉で温かくつつんだ。いわば、戸田は鏡であった。

しかし人びとは、そのことには、少しも気づかなかった。そして、気づかぬばかりか、逆に、彼の〝豹変〟に、呆気にとられていたのである。

彼と面識をもった多くの人びとは、その強烈な第一印象を、いつまでも忘れることがなかった。その折、彼らの心に映じた戸田城聖の像は、人生のさまざまな浮沈の時にも、常に色あせることなく、彼の没後、年月を経ても、ますます鮮明さを増して、脳裏に浮かんでくるのであった〉(前掲「群像」の章)

池田は、最も厳しく、最も温かな師である戸田と運命を共にした。そして、戸田から学んだことのすべてを、東京の墨田、江東、江戸川を中心とした第一部隊の仲間に惜しみなく注ぎ込んだ。

「池田部隊長に部員を会わせよう、部隊長の出る会合に出せばなんとかなる」(並木辰夫の回想)という日々が始まった。


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当記事は潮ワイド文庫「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」から抜粋をしたものです。


「何があっても二十年、地道に」
池田大作は日蓮仏法を世界に弘めた。折に触れて語り続けた一言がある。
「全部、戸田先生から教わったことなんだよ」――



「『民衆こそ王者』に学ぶ 「冬」から「春」へ――若き日の誓い」「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:880円、発行年月:2024年5月、判型/造本:文庫並製/272ページ

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【目次】
第1章 「青年の譜」――本当の言葉を求めて
第2章 後輩を自分より偉くする――第一部隊①
第3章 文京支部長代理として
第4章 「山口闘争」の二十二日
第5章 「冬」に「春」を見る力――第一部隊②
第6章 見えぬ一念が全てを決める――第一部隊③
第7章 秀山荘の三年間――第一部隊④

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