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毎日、御書を開こう。晴れの日も、雨の日も開こう。【書籍セレクション】

創価学会の教学運動の興隆をえがいた『民衆こそ王者 池田大作とその時代』20巻から一部を抜粋してご紹介します。

 

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この一冊を作るために

 池田とともに戸田のもとで働いていた吉田顕之助は、「御書発刊で本当に苦労されたのは戸田先生と池田先生だった」と語り残している。

「インディアペーパーの手配一つにしても、大変でした。何しろ特殊な紙で、普通の人では決して集めることはできなかった。長年の出版経験のある戸田先生だからできたのです。

 戸田先生が直接、動かれる場合もあったでしょうが、そうでない時、戸田先生の代理として手を打てる人は池田先生以外、誰もいませんでした。戸田先生のもとで、編集長として苦労を共にされ、恩師の心を知悉(ちしつ)している池田先生だからこそできたことです。

 インディアペーパーへの印刷は特殊印刷で難しく、印刷所の決定も苦労されたと思います。その交渉も戸田先生や池田先生が直接されたようです」(「大白蓮華」2004年12月号)

 池田は小説『人間革命』で、御書の「編集」「印刷」「紙の手配」「校正」「装丁」に至るまで、その苦闘を細かく記している。とくに「インディアペーパー」と「ヤンピー(※編集部注:表紙に使用する羊皮)」に困らされた。

〈表紙に使用する羊皮が、なかなか、そろわなかった。引き受けたK商事は、四方八方に手を尽くしたが、大量の羊皮がそろわない。期日は迫ってくる。一時は絶望と見えたが、この難関も危いところで切り抜け、間に合うにいたったのである。

 戸田は、K商事の、この時の労を謝し、後に、御書の奥付に「表紙羊皮 K商事株式会社」の名を特に加えさせた〉(『人間革命』第5巻「布石」の章)

毎日、御書を開こう。晴れの日も、雨の日も開こう。

 徹夜が続き、目がくぼんだ校正委員のなかに、牛田寛もいた。戸田が陣頭指揮をとり、原稿は五校までとった。1952年(昭和27年)の4月、無事に印刷機が回った。

『人間革命』のなかで、池田は戸田の心情を次のように描いている。

「今になって不思議に思うことは、私が二十有余年、出版事業の経験を積んできたことだ。この過去の長い経験が、この御書一冊を作るためにあったのかと思い当たり、痛感するんです。私の生きてきた道を、実に不思議に思うばかりです」(同)

 わが出版事業は、この一書のためにあった――戸田は万感の思いを「発刊の辞」に込めた。

〈宗祖大聖人 諸法実相抄にのたまわく「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と。

 創価学会は初代会長牧口常三郎先生之を創設して以来、此の金言を遵奉して純真強盛な信心に基き、行学の二道を励むと共に如説の折伏行に邁進して来たが、剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬は、学会の伝統・名誉ある特徴となつている。

 従つて大聖人の御書を敬い之に親しむこと天日を拝するが如く、又会員一同上下新旧の差別なく之が研究に多大の時間を当てているのである。……〉

 ――毎日、晴れの日も、雨の日も、私たちが必ず太陽(天日)に接して暮らしているように、御書を開こう。

 学会の役職が高いとか低いとか(上下)の差別など一切なく、御書を開こう。

 きのう信心を始めたばかりの人も、おじいちゃん、おばあちゃんの代から信心をしている人も(新旧)、何の差別もなく、御書を開こう――〈剣豪の修行〉という象徴的な一言とともに、御書を学ぶ際の基本をとどめた。

「明日、教学の試験だね」

 横浜に住んでいた堀昭子は、この御書をボロボロになると買い換え、背が割れたら自分で製本し直し、使い続けた一人である。

 2021年(令和3年)、89歳の生涯を終えた。残された御書を開くと、全編にわたって書き込みがあり、特に後半に載っている消息文は、何百ページにもわたって、ほぼすべての行に細かなメモがしきつめられている。

 原点は、池田の励ましだった。

 母の高橋八重は、子安にある大口通商店街で美容院を2軒、営んでいた。「スズラン美容院」は繁盛したが、病に悩み、1952年(昭和27年)、創価学会にめぐりあった。

〈母は二十六歳で家の事情で父と離別している。姉は五歳、私は三歳になったばかりで父の顔は全く記憶に残っていない〉(堀昭子の手記)

 姉は声楽家を目指していた。妹の昭子は、美容師として母の八重を手伝った。信心をすすめられることはなかったが、八重が祈る後ろ姿を見て、自分も信心を始めた。〝母の無言の折伏〞だった。

〈美容の仕事が毎日、目の廻るように忙しかったので、夜八時か九時頃家に帰り、遅い夕飯をすませて勤行を終えるともう心身共に疲れはて、「ああ今日も一日が終わった!」という何となく追っかけられた私の日課でした〉(同)

 会合には〈出られないことが当然〉と思っていた。しかし、一人の女子部(当時)の先輩が、いやな顔一つせず、辛抱強く面倒を見てくれた。

 母を捨てた父のこと。母の病のこと。通院で経済的に苦しいこと。自分は何のために生まれてきたのか。女子部の先輩に打ち明けた。先輩は「自分のこと」のように聞いてくれた。

 その先輩に連れられ、信濃町の学会本部に行ったのは54年(同29年)の春だった。

 本部で話を聞いてくれたのが池田だった。

ありのままを、いっきに全部話しますと、先生は、「今は冬の信心だね。冬のあとには、暖かい春が必ず来るに決まっているよ。絶対あなたもお姉さんも幸せになれることは間違いないのです」……〉

〈私の目をじっと見つめて、御書の一節を引いて、こんこんと激励して下さいました。そのときの光景は今でも私の脳裏に焼きついて離れないほどの強烈な印象でした〉(同)

「法華経は冬の信心なんですよ」と言いながら、池田が引いた一節は、日蓮が「妙一尼」という女性門下に送った手紙だった。

〈法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔より聞かず見ず、冬の秋と返れることを。いまだ聞かず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候〉(御書1253㌻、新1696㌻)

 昭子は後年まで、「あの時に、心の重い雲がサーッと去った。暖かい太陽の光が、生命に降り注いだような気がした」と語った。〈二十歳を出たばかりの私の心を、こんなにもしっかりと支えてくれた人が今までいたであろうか〉とも綴っている(堀昭子の手記)。



 美容院の仕事を夕方5時に終えると、平塚、茅ヶ崎、辻堂、横須賀などへ学会活動で通うようになった。

〈ある時の座談会場は市の払い下げの古いバスの家だったり、ある会場は横浜のお船の家の時もありました〉(同)

 やがて昭子は姉とともに「華陽会」(女子部のリーダーを育成するグループ)に入り、戸田城聖の薫陶を受けるようになる。イプセンの『人形の家』やハーディの『テス』などを題材に、女性の生き方を学んだ。

 北海道や九州、山口県の地方折伏にも参加した。池田が冤罪に陥れられた「大阪事件」の際は、「すぐ本部に来てほしい」と連絡があった。

 東京から大阪へ、青年部の代表が急遽、向かい始めていた。

〈本部に着くと、応接間に、池田先生の奥様と、四、五人の壮年の方がいらっしゃいました〉(同)

 緊迫した相談の最中だった。昭子は壮年の幹部から「今から大阪に行けますか」と問われた。

「行けます」と答えた。池田の妻の香峯子から、風呂敷包みを一つ託された。幼い子のいる香峯子は、すぐには動けなかった。

 1957年(昭和32年)の7月3日、池田は無実の選挙違反容疑で出頭。17日まで勾留され検察の取り調べを受けた。

 罪を認めなければ、お前の師匠である戸田城聖も逮捕する。学会本部にも捜査の手を伸ばす――検事に恫喝され、獄中で苦しみ抜いた。池田は戸田の身と学会を守るため、やってもいない罪をいったん認め、裁判で戦う道を選ぶ(潮ワイド文庫『常勝関西の源流』に詳述)。

 大阪に着いた昭子は、池田に風呂敷包みを差し入れた後も、無事かどうか心配でならなかった。

 ひと目会って、安否を確かめられないだろうか。何人かの青年部員と相談し、〈東警察署の周囲を毎日、三々五々、散らばっていました〉(堀昭子の手記)。

 逮捕から4日目。7月6日のことだった。一台の護送の車が署から出てきた。池田の姿が見えた。昭子たちは思わず「先生!」と叫んだ。〈動き出した車は丁度、信号が赤ランプになったので、ほんの少し話ができました〉(同)。

 昭子が晩年まで覚えていたのは、笑みをたたえた池田から、「明日、教学の試験だね」

 と声をかけられたことである。

 たしかに翌日、任用試験がある。全国49都市60の会場で、受験者数は7500人を超える。

「しっかりがんばるんだよ」

 池田はニコニコと笑顔のままである。着ているシャツは、差し入れたシャツだろうか。信号が青に変わり、車が走り出した。心配していたつもりが、逆に励まされてしまった。昭子たちは泣きながら手を振って見送った。

 身の自由を奪われ、しかも、でっちあげの冤罪に苦しめられている。この逆境においてなお、なぜ「青年が御書をどう学ぶか」に心を砕けるのか。昭子は信じられなかった。〈そのとき私は深く深く感じました。「先生は学会の教学を、こんなにも大切にされ、生命を打ち込んでおられるのだ」と〉(同)。

 翌日の任用試験は、「総勘文抄」(御書558㌻、新705㌻)や「法華取要抄」(御書331㌻、新148㌻)などが試験範囲だった。第1問は〝立正安国論の精神について述べよ〞。戸田城聖が自ら考えた問いだった。創価学会が経験したことのない危機の渦中、大阪、船場、梅田、松島、堺の5つの支部では合わせて1706人が試験に臨んだ。



 戸田が発願した御書は、2020年(令和2年)には278刷を数え、英語、中国語、フランス語をはじめ10を超える言語に翻訳されている。21年(同3年)11月、池田が監修した新しい御書が発刊された(『日蓮大聖人御書全集 新版』)。

 御書を、誰が手にし、どう読んだのか。さらに追う。

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当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』20巻から抜粋をしたものです。

創価学会は生命論に始まり生命論に終わる
軍部による弾圧、多くの退転、そして敗戦。戸田城聖は心に決めた。
「学会に教学がなかったから、みな退転したのだ。これから教学をやろう」
御書の発刊、法華経講義、御書の研鑽……
池田大作は戸田の構想を支え、前代未聞の民衆運動の先頭に立ち続ける。
その一つの象徴は「教学の浸透を第一歩とした」関西での激闘だった。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代20 御書――不屈の人間学篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:1100円、発行年月:2024年12月、判型/造本:四六並製/240ページ

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【目次】
第1章 教学なき敗北を超えて――御書の誕生
第2章 「身で読む」喜びを知る――研鑽の大波
第3章 「関西の戦い」の第一歩――法華経と御書①
第4章 仏とは女性部の「忍辱の心」――法華経と御書②
第5章 幸福を数え、増やす日々――統監の労作業
第6章 この日を境に〝関西は一変〞――雨の大阪球場
第7章 男女はきらうべからず――女性たちの一念
第8章 大変な時ほど、御書を読む――難に立ち向かう