プレビューモード

この日を境に"関西は一変"――雨の大阪球場【書籍セレクション】

創価学会の教学運動の興隆をえがいた『民衆こそ王者 池田大作とその時代』20巻から一部を抜粋してご紹介します。

******

 ――のちに「大阪の戦い」と呼ばれるようになる、半年間に及ぶ弘教の日々。なかでも〝起爆剤〞になったのが4月8日の「雨の総会」だった。

 堺に住んでいた金田朝夫は、朝起きるなり、激しい雨足を確かめて「中止にちがいない」と高をくくった。念のため、日ごろお世話になっている班長宅へ向かった。〈が、門の外で待っていた班長は、私を見るなり「よっしゃ行こう」と自転車に飛び乗った。慌てて、その後を追った〉(金田朝夫の手記)。

 中百舌鳥(なかもず)駅で南海電鉄に乗り、難波駅で降りた。〈……外野席に座った。ぎっしりと詰まった色とりどりの傘が、雨に映えて美しかった。池田先生の張りのある声がグラウンドを圧した〉(同)。

 齋藤静子は1カ月前に信心を始めた。3歳の娘を背負い、大阪球場へ向かった。〈拍手で手を叩くのに夢中で、傘を差すのも忘れていた。……グラウンド中央を目指し、まっすぐに進まれる戸田先生。傘はない〉〈……(総会に参加して)以来、幼子を背負って弘教に、座談会へと歩き続けた。寒空の中、乗せてもらった夫の単車がパンクし、2人で何キロもの道程(みちのり)を押して帰ったことも今は懐かしい〉(齋藤静子の手記)。

 息子の齋藤治郎は「母は96歳まで生きました。負けん気が強くて、信仰については一歩も退かなかった」「母が折伏で好きだった御書といえば、やっぱり開目抄の『我ならびに我が弟子……』やね」と述懐する。

〈……諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし〉(御書234㌻、新117㌻)と続くこの一節もまた、池田が「大阪の戦い」で引いた要文の一つだった。

"必ず勝ちますから、おいでください"という心

「大阪の戦い」といえば、5月に打ち立てた「1万1111世帯」の折伏がよく知られているが、じつは4月8日の「雨の総会」の直前、大阪支部の人々は、すでに5月の勢いを超える結果を出している。

「4月の1日から7日までの1週間で、私たちは4000世帯を超える折伏をしたんです。そのうえで戸田先生を難波の球場に迎えました」

 そう振り返る栗原明子は、鍵となった池田の言葉を覚えている。

 ――戦いにおいて師匠を迎えるということは、必ず勝てる態勢ができあがって初めて、"必ず勝ちますから、おいでください"という心で迎えるべきだ――

「大阪球場の総会で私たちが池田先生から教わったのは、『弟子が勝利の実証を示して、師匠をお迎えする』ということでした」

 1週間で4000世帯。この勢いがひと月続けば、弘教の数は2万世帯に迫る。池田が「大阪の戦い」の半年間のうち、最も激しく折伏を進めたのは、師である戸田を迎えるための、この1週間だった。

 大阪支部といっても、その半数がまだ「信心を始めて、半年未満」の人たちである。のちに公明党の参議院議員を務める峯山昭範は、近畿大学法学部の学生だった。

「当時、『大阪球場をいっぱいにする』なんて誰も考えませんよ。しかも、そのど真ん中に演壇をつくって、戸田先生を迎えるわけです。

 池田先生はとくに総会の前、西成や浪速、船場などの皆さんを懸命に励まされました。つまり、大阪球場に近い地域を相当回られたんです。

 小さな小さな会合にも入って、『わが地域に師匠を呼ぶんだよ』『戸田先生って、こういう方なんだよ』『折伏をがんばって4月8日を迎えよう』と。総会の意義を知った人たちが、納得して動くわけです。私は西成に住んでいましたが、西成の皆さんは沸騰したように盛り上がりました」

 難波の大阪球場に押し寄せた人々は、初めて、目に見えるかたちで「同じ信仰を持った人がこんなにいるのか」と気づいた。

 池田がこの日を境に〈関西は一変した〉(小説『人間革命』第10巻「跳躍」の章)

 とまで綴った4月8日の総会。豪雨の中、集った人々の歩みを追う。

貧乏人と病人を救うのが真の宗教

〈午前九時、開門と同時に、内野席は、瞬く間に、ほぼ埋まった。傘を差した会員が、陸続と詰めかけてくる。
 午前十時には、約四千人を数えた。前夜に出発した九州、四国、中国、北陸などの地方拠点の支部員たちも、午前十一時には、次々と姿を現し始めた〉(同)

 大阪球場の外野席にも何百、何千と〝傘の花々〞が咲いていく。そのなかに、8年前の福井地震で4歳の長男を失った一人の母親がいた。

〈私は、悶々とした日々を送っていた。……雨中、戸田先生は叫ばれた。「貧乏の人、病気に悩む人をなくしたい」と。長男の影を、いまだ胸中にひきずり続けていた私は、その大きな大きな心に感動した。色とりどりの傘が揺れるスタンドを背景として、戸田先生の気高いその言葉が、今も聞こえてくる〉

 神戸に住む芦田克士が難波駅に着いたのは午前11時過ぎだった。〈三塁側外野席の最上段付近に空席を見つけ、着席した〉〈この総会を境として、私は別人のようになった〉と書き残している。

 とくに戸田城聖の声を耳にした時、〈体がブルッと震え、わが胸は激しく高鳴った〉という。

 講演の冒頭、戸田はこう語った。

 ――私が大阪に月1回、あるいは2回参ります理由は、大阪の会員諸君の中から、病人、および貧乏人を絶対になくしたいという念願のためであります――

 戸田は、初めて大阪を訪れた4年前の夏にも、「貧乏人と病人をなくす」と語っている(1952年8月16日)。それ以降、口癖のように何度も繰り返してきたが、あらためて2万人の前で訴えた。

 草創期の学会員にとって「貧乏人と病人の集まり」という非難中傷は、むしろ誉れだった。

 池田はエッセーで、この戸田の信条について触れている。

〈ある財産家が、なにかの理由で入信した。恰幅もよく、その地元社会では、かなり有名な人であったようだ。純粋な信仰の眼から見れば、なにか不純なものを感ずるところがあった。彼は折伏もよくした。だが、その魂胆が、所詮、自分の配下をつくり、勢力を増すことであることが見えすいてきた。

 ある日、あるとき。事業が苦難であった戸田のもとへ、友人のような姿でやってきた。雑談のなかで、彼はついに本音を吐いたのである。

「戸田先生も、いま大変なようだから、少しぐらいなら応援してもよい。貧乏人と病人の多い学会では、なかなか布教もできまい。私を幹部にすれば、世間の見方も変わってくる」

 戸田は即座に言いきった。

「貧乏人と病人を救うのが、本当の宗教だ。学会は庶民の味方である。学会は、いかにののしられ、嘲笑されようとも、その人たちのために戦う。仏の目から見るならば、最高に崇高なことなのである。君のように、ちょっとばかり資産家だからといって、有名を鼻にかけたり、見栄を張ったりする者の応援もいらぬし、学会の幹部になっては絶対に困る」〉(『池田大作全集』第22巻)

「『大衆に尽くしぬく精神』を、諸君が受け継いでもらいたい」

 また池田は青年部に対し、こうも語っている。

「『法』――仏法そのものは永遠である。また、700年前から、大聖人の仏法はあった。しかし、その大法をもって、『大衆に尽くした』のは、創価学会だけである。(拍手)

 宗門は、いばっていただけで、大衆のために尽くしていない。だから広宣流布もできなかった。

 今の世界広宣流布の姿は、私たちが、来る日も、来る日も、『会員に尽くしてきた』から、できあがったのである。(拍手)

 私も40年、50年、毎日、朝から晩まで、会員に尽くしてきた。その事実は御本尊が知っておられる。自分のことではあるが、後世のために、あえて言っておきたい。

 だからこそ日本一、世界一の学会になったのである。簡単に考えてはならない。

 できあがった基盤の上に、苦労もせず、会員のために生命をすり減らすこともなく、要領よく泳いでいく――今後、指導者が、そのようになったら、おしまいである。

 否、今も、そういう人間はいる。そういう堕落の先輩は、諸君が手厳しく追及すべきである。

 牧口先生は『下から上を動かせ』と言われた。

 いちばん大切なのは『法』であり『学会精神』である。それを守りぬくためには、上の人間を厳しく戒めることが必要な場合がある。

 何も恐れる必要はない。

 組織が偉大であるから、号令ひとつで、何千、何万という人が動く。その重大な責任を、指導者が簡単に考えるようになったら、とんでもないことだ。そうなっては、学会には、もはや魂も生命もなくなる。それでは、邪道になってしまう。

 諸君がいるかぎり、絶対にそうはならないと私は信じる」

「……私は初めての訪中(1974年)に出発する時、羽田空港で内外に、こう宣言した。

『貧乏人と病人と言われた人たちとともに、私はここまでやってきました。権力にもよらず。財力にもよらず』と。

 空港には、多くの見送りの方、中国大使館の方もきてくださっていた。

 この『学会の心』を、諸君は誇りにしていただきたい。

 病人のためにこそ、貧乏人のためにこそ、いちばん苦しんでいる人のためにこそ、宗教はある。諸君、そうではないだろうか。(拍手)

 断じて、大衆を見さげる、いばりくさった人間が大切なのではない。

 私のこの魂――『大衆に尽くしぬく精神』を、諸君が立派に受け継いでもらいたい」(1998年3月のスピーチ、同第89巻)

 第一次宗門事件の際、池田は青年部のリーダーに「信心とは、学会員を守ることだ。宗門に信心はない」と語った。

 第二次宗門事件の際には、次のように訴えた。
「今、事実のうえで、正法を守り、同志を守り、大聖人の御遺命である広宣流布の道を開いているのは、だれか。まぎれもなく学会員である。学会員こそ、真の大聖人の信者である。

 ゆえに具体的には、その方々こそが、最も身近に、諸天善神の働きをなしている。また、〝如来の使い〞として、諸仏、諸菩薩の働きをもなしている。これほど大切な、尊い方々はいない。

 ゆえに、学会員を大事にする人は、福徳を積む。見くだし、利用し、裏切れば堕地獄である。

 幹部も、広布に働く学会員に奉仕するのが責務である。学会員を心から大切にし、守り合っていくところに、加速度的に、仏天の加護は勢いを増していく。

 学会は、この方程式のとおりに進んできた。ゆえに、『勝利』できた。

 ともかく、一にも二にも『いちばん大事なのは仏子であり、学会員である』――これを一念の根本に置くか否か。その違いは、ほとんど〝タッチの差〞である。しかし、その結果としての振る舞い、福運、境涯には天地の差ができてくる。指導者としての根本的な自覚の問題である」(1992年7月のスピーチ、池田大作全集第81巻)

「慈悲」の政治家に

 芦田克士は、かつて陸軍の中尉だった。予備士官学校を出て満州に赴任した。

「日本が敗れ、父たちは南下してきたソ連兵によって武装解除され、シベリアに連行されました。飢えと寒さでたくさんの日本兵が亡くなりました。女性が乱暴され、子どもが殺されるのを目の前で見ても、手も足も出せない。その無念を話していました」(息子の芦田尚)

 ハバロフスク地方の最南端にあるヴャーゼムスキーまで連れて行かれ、レンガ工場で働かされた。「父は中隊長として、部下全員を死なせることなく帰国することだけを考えていたそうです。ソ連軍の将官に銃口を突きつけられ、両手を頭の後ろに回したまま『イモとカボチャの苗を栽培したい』と死ぬ覚悟で交渉したと聞きました。よく『シベリアではイモとカボチャで命をつないだ』と話していました」。

 一人も無駄死にさせない、と腹を決めていた。芦田克士が6歳のころ、父の清隆が亡くなった。「祖父は初年兵として軍に召集され、それがきっかけで命を落としました。祖母のみなは、残された畑を1人で耕し、3人の子どもを育てました。戦争は、すべてを崩していく。父は苦労を重ねた祖母の姿を見続けて、そういう思いを持っていました」(芦田尚)。

 克士の妻である初喜は、手記に〈終戦後の四年目に、生死不明であった主人が無一物でひょっこり復員してきた……公職追放の元軍人の引き揚げ者には、敗戦の余波は厳しく、就職はしたものの、生活は苦しく誰に訴えるすべもない。生まれた子どもは5カ月目に結核性脳膜炎と診断されて、奈落の底につきおとされたような思いであった〉と書いている。

 克士はシベリアから戻った後も、家族のために神戸港で重労働を続けた。〈無一物の引き揚げ者の身には、生活は苦しく、自暴自棄となり、自殺寸前まで追いやられ悲惨なあけくれでした〉(芦田克士の手記)。

「両親が学会に入ったのは私の脳膜炎がきっかけでした。大阪の戦いの時、私は4歳でしたが、両親が毎日のように大阪に通い、折伏に歩いていたのを覚えています」と尚は語る。

「両親の世代は、1人ひとりを救っていく学会の平和主義を、戸田先生、池田先生から徹底して教えられたのだと思います。とくに父は『戸田先生の師匠の牧口先生は、軍国主義に反対された。だから信じられる』と常々言っていました」

 克士は後年、公明党の神戸市議会議員を5期20年務めることになる。ある日、池田から色紙が届いた。墨痕鮮やかに〈慈悲〉と揮毫されていた。この2文字を胸に、大衆福祉の向上に力を尽くした。

******

当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』20巻から抜粋をしたものです。

創価学会は生命論に始まり生命論に終わる
軍部による弾圧、多くの退転、そして敗戦。戸田城聖は心に決めた。
「学会に教学がなかったから、みな退転したのだ。これから教学をやろう」
御書の発刊、法華経講義、御書の研鑽……
池田大作は戸田の構想を支え、前代未聞の民衆運動の先頭に立ち続ける。
その一つの象徴は「教学の浸透を第一歩とした」関西での激闘だった。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代20 御書――不屈の人間学篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:1100円、発行年月:2024年12月、判型/造本:四六並製/240ページ

商品詳細はコチラ

【目次】
第1章 教学なき敗北を超えて――御書の誕生
第2章 「身で読む」喜びを知る――研鑽の大波
第3章 「関西の戦い」の第一歩――法華経と御書①
第4章 仏とは女性部の「忍辱の心」――法華経と御書②
第5章 幸福を数え、増やす日々――統監の労作業
第6章 この日を境に〝関西は一変〞――雨の大阪球場
第7章 男女はきらうべからず――女性たちの一念
第8章 大変な時ほど、御書を読む――難に立ち向かう