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"病気になったからこそがんばってもいいんだよ"に込められた愛と信頼

連載【鎌田實の「ガラスの天井」を破る女性たち】 今月は、「遠位型ミオパチー」の患者会を立ち上げ、バリアフリーアプリ「WheeLog!」を運営している織田友理子さんをゲストに迎えお話を聞きました。
(月刊『潮』2025年2月号より転載)

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あなたの「行けた」が誰かの「行きたい」に

『潮』の読者の皆さんは「みんなでつくるバリアフリーマップWheeLog!( ウィーログ)」というアプリをご存知だろうか。車いすユーザーが走行したルートや、利用したスポットなどのバリアフリー情報をマップ上で共有できるアプリである。アプリ内にはタイムラインもあり、ユーザーは"つぶやき"を投稿することもできる。

 アプリがリリースされたのは2017年5月。すでにダウンロード数は10万を超えている。興味深いのは、そのうちの約7割が車いすユーザーではなく、自分の足で歩ける人ということ。アプリのタイトルにある「みんなでつくる」という言葉が示しているコンセプトが関係しているのだろう。

 アプリを開発したのは、国の指定難病(特定疾患)である遠位型ミオパチーの患者で、2008年に患者会「PADM(パダム)」を発足させた織田友理子さん。

 遠位型ミオパチーとは、心臓から遠い(=遠位)手足の筋肉から、全身が徐々に衰えていく進行性の筋疾患。いまのところ治療法はなく、難病に指定されている。

 織田さんは現在、首から下が自分の意思では動かないため、電動車いすで移動したり、視線で文字を入力できる機器や、音声入力のソフトを使ってパソコンを操作し、仕事をされている。

「バリアフリー」という言葉に象徴されるように、まだまだ日本社会には障害者の方々にとってのバリア(障壁)が多い。20代のころから活動されてきた織田さんは、そうしたバリアに加えて"ガラスの天井"に阻まれた経験もきっとあるに違いない。そこで、直接お会いしていろいろと話を聞いてみることにした。

「WheeLog!」には、素敵なキャッチフレーズがいくつもある。

「世界で一番あたたかい地図」

「あなたの"行けた"が誰かの"行きたい"に」

「車いすでもあきらめない世界」などだ。

 まずは「WheeLog!」に込めた思いについて聞いてみた。

「障害があるとどうしても、あれもできない、これもできない、といった考え方で凝り固まってしまうんです。私はその考え方を崩す瞬間がとても好きです。だから、これまで海外への出張にも積極的に行くようにしてきました。

"できない"ではなく、ここにも行ける、あそこにも行ってみようというワクワク感。

 気持ちが変革されることで、行動変容が起こるような活動にしたいと思って、WheeLog!を立ち上げました」

「できない」の克服はとても大事な経験

 織田さんの話を聞いて思い出したことがある。旅行会社のクラブツーリズムが、年に2度「鎌田實先生と行くドリームフェスティバル」というイベントを催してくれた。身障者とその家族、そしてボランティアと僕が一緒に旅行をするという企画だ。国外では台湾やハワイに行った。秋は被災地の温泉に行き、日常生活の全てで介護が必要な「要介護Ⅴ」の方も温泉に入ることができた。

 ハワイに行ったときには、目が見えない男性が参加してくれた。彼の夢はパイロットになること。その夢を叶えるためのプランが企画された。小型飛行機の運転席に彼を乗せて、操縦体験をしてもらうことにしたのだ。もちろん、もう片方の操縦席にはプロの操縦士が乗っている。プロの指示に従って、彼も操縦桿を握ったのだ。

 僕もその飛行機に乗せてもらった。離陸のときはまったく不安はなかったけれど、目の見えない人が操縦桿を握っているのだから、さすがに着陸のときは少し怖かった。ちゃんと滑走路からはみ出ずに着陸できるのか……。肝を冷やしたことをいまでも鮮明に覚えている。しかし、すべてはうまくいって、彼はパイロットになるという夢を叶えることができた。

 障害者にとって「できない」の克服は、人生のなかでとても大事な経験だ。彼のことをそばで見ていて、そう強く感じた。織田さんは僕の話を聞いて、こんなふうに言っていた。

「そういう経験は、たった一度の思い出だけど、生きていくうえで前向きになれますよね。支えられると思います。あるのとないのとでは全然違うはずです」

 冒頭でも触れたように、織田さんは視線入力の機器や音声入力のソフトを使っている。僕は過去に筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者のケアにかかわったときに、それらのツールについて見聞きしたのだけど、それはもう10年以上前のことだ。最近のツールは進歩しているのだろうか。

「ひと昔前に比べれば、私も驚くくらいに使いやすくなりましたよ。価格も下がってますしね。

 私は、4、5年前から手が動きづらくなってきたので、視線入力と音声入力を使うようになりました。ただ、私の疾患の場合は補助金がそれほど多くないんです。

 ALSは心肺機能も低下するので、人工呼吸器をつけると発話ができなくなります。だから意思伝達装置として補助金を受けられるんですが、遠位型ミオパチーの場合は呼吸機能ってそこまで衰えないんです。だからいまも話せるんですけど、それがゆえに意思伝達装置としては認められないんです」

ハワイのユニバーサルビーチにて(織田さん提供)

決して見放された疾患ではないから

 織田さんが自らの体の異変に気付いたのは、公認会計士を目指していた大学2年時の20歳のときだった。足がもつれたり、階段の上り下りがきつくなったり、重いものが持てなくなったりした。ただ、そのときはまだ運動不足が原因だと思って、努めて運動をするようにしていたという。

 それでも、体はどんどん動きにくくなる。そこで22歳の大学4年生のときに地元の病院を受診すると、東京医科歯科大学病院(現・東京科学大学病院)を紹介された。偶然ながらも、僕が卒業した大学の病院だ。大学病院に1カ月入院をして検査した結果、遠位型ミオパチーの診断が出た。診断が出たときにはどんなことを感じたのだろうか。

「じつは、検査入院の前にパソコンで調べておそらく遠位型ミオパチーだろうなと予想していました。

 診断結果を告げられたときに、先生がしてくださった話をとても覚えています。いまのところ国の指定難病の研究対象には入っていないものの、世界にはこの病気の研究を推進する研究者がいるし、自分たちもその研究に携わっている。決して見放された疾患ではないから――と。そう言ってくれる先生から診断を受けられて、本当にありがたかったです。

 あと、私の場合は診断が出るのがとても早かったんです。遠位型ミオパチーの人って、診断が出るのにすごく時間がかかるんです。私はたまたま地元の市立病院がすぐに、神経内科のレベルが高い東京医科歯科大学病院を紹介してくださったので、1カ月弱で診断がついたんです」

 織田さんが言うように、東京医科歯科大の神経内科のレベルは高い。神経系の難病は患者数が少ないので、なかなか優秀な研究者が集まらない。優秀な研究者が集まる大学病院にすぐにつながることができた織田さんは、強運の持ち主だ。

2003年、大学の卒業式。(左から)夫・洋一さん、織田さん、洋一さんの母(織田さん提供)

「がんばらない」と「がんばってもいい」

 取材冒頭、織田さんは次のように話してくれた。

「患者としては、いいお医者さんと出会えるかどうかで、病気との向き合い方、生き方が大きく変わると思っています。寄り添ってくれるお医者さんとの出会いはすごく大事なんです。だから、今日は鎌田先生にお会いできるのをとても楽しみにしてきました」

 僕の著作『がんばらない』(集英社)なども、事前に読んでくださったようだ。

「記者の方からよく聞かれるのは、いつ障害を受け入れられるようになったかということなんです。私の場合は、どこかのタイミングで受け入れられたという感じではなくて、いまも受け止めるのがきついときもある。

 生きていくうえでの困難さに立ち向かう場面はいまも多いんですけど、その一方で社会に対抗するんじゃなくて自分らしく生きていくことも大切なのかもしれません。鎌田先生の『がんばらない』を読んでそんなふうに思いました」

 織田さんのご著書『LOVE&SDGs 車いすでもあきらめない世界をつくる』(鳳書院)には、「がんばっていいんだよ」という見出しがある。織田さんは遠位型ミオパチーの診断を受けたあとも、公認会計士になるための勉強を続けた。周囲からは「無理しなくて勉強を続けなくてもいいよ」「やめたほうがいい」といった声を掛けられたそうだ。

 しかし諦めきれずに公認会計士の先輩に相談したところ、こんな言葉をかけてもらったという。

「病気になったからこそ挑戦したほうがいい」と。がんばっていいんだ――。そのときの感情を、このエピソードを綴った部分の見出しにしているのだ。「がんばっていいんだよ」という言葉は、幅広く活躍する織田さんを象徴するフレーズだと思う。

 僕の「がんばらない」と織田さんの「がんばってもいいんだよ」。字面だけを見ると正反対に思える。だけど、どちらの言葉も奥底にあるのは、"誰よりもがんばっている人"に対する"愛と信頼"ではないかという気がしている。

2019年ご家族3人で「24時間テレビ」に出演(織田さん提供)

産むなら早めに産んだほうがいい

 大変な状況のなかで織田さんが前を向き続けられたのはなぜだろう。個人的には、夫と18歳の息子の存在がとても大きいのではないかと思っている。

 織田さんが夫・洋一さんと付き合い始めたのは大学2年のとき。織田さんが病気の診断を受けるとき、彼女の家族と洋一さんも医師の話を一緒に聞いたそうだ。大学を卒業して数年が経ったころ、2人はまもなく転勤になる主治医から尋ねられる。「君たち、結婚はまだなの?」――。

「まだ24、5歳でしたからね。まさかって感じで返事をしたら、先生が彼に『ちょっと席を外して』って言うんです。そして私に『早く結婚しないと子どもが産めないよ』と言うんです」

 遠位型ミオパチーは進行性の病気なので、産むなら早めに産んだほうがいい。転勤になってしまう主治医は、それまで伴走してきた織田さんのことを思って現実的な助言をしたのだろう。

 織田さんから突き付けられた現実は、洋一さんの心にグサッと刺さった。当時の彼は春から大学院生。自分の将来のこともまったく分からないけれど、先のことを考えても仕方がないと思い、一歩踏み出すことにした。洋一さんの両親も彼の意見を尊重し、応援したという。洋一さんも両親も、すごい人たちだ。

 2人は2005年9月に結婚し、翌06年8月に無事に息子が生まれた。その息子はいま18歳で、春には大学生になるという。

「息子の存在は大きかったですね。未来を考えられるようになったので。彼はこの先、どんな未来を生きるのか。この子とこの子の友だちは、どんなふうに命をつないでいくんだろうか。そんなことを考えられるようになったからこそ、自分本位にならなくて済んだんだと思います。

 この子が立派に大人になるまで、元気でいなくちゃって思えましたし、若い世代に目を向けることで、100年先のことまで考えながら活動することができています」

 僕が「いい子に育った?」と聞くと、織田さんは、ひとこと「どうでしょう」とだけ答えてくれた。でも、その嬉しそうな表情からは、きっといい子に育ったに違いないと僕は確信した。息子は、理学療法士を目指しているそうだ。

 次回も織田さんについて取り上げようと思う。彼女が直面した"ガラスの天井"と、現在取り組んでいる活動に、さらに光を当てていきたい。

 

カマタの想い
 対談後に握手をしようとした。彼女の手は全く動かない。そっと彼女の手に触れると、その手はとても冷たかった。彼女は遠位型ミオパチーと多発性硬化症という2つの進行性難病を抱えている。病気によって筋力は奪われるが、彼女には筋力以上の絶大なパワーがあった。

 病気を抱えながら外国に留学し、車いすで子育ても行う。「今までこうやってきたから、このままでまぁいいだろう」という、日本的な「慣例主義」の壁を彼女は見事に打ち破ってきたのだ。

 織田友理子という一人の女性は、これから世界が注目する日本人になっていくと僕は期待している。

 

【ゲスト】NPO法人ウィーログ代表理事およびNPO法人PADM代表
織田友理子(おだ・ゆりこ)
1980年千葉県生まれ。創価大学経済学部卒。22歳で「遠位型ミオパチー」の診断を受ける。その後患者会PADMを発足。2017年にバリアフリーマップアプリ「WheeLog!」をリリース。「Public of The Year 2024」 をはじめ国内外で多くのアワードを受賞している。著書に『LOVE&SDGs』など。

医師、作家
鎌田 實(かまた・みのる)
1948年東京都生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。74年に長野県の諏訪中央病院に赴任。88年、同病院の院長に就任。2005年より名誉院長。著書に『シン・がんばらない』(小社刊)など多数。

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