• 社会

「特攻隊」の史実を知ることで、新たにする平和への誓い

戦後生まれが人口の87%を占めるようになり、戦争の記憶を若い世代はどうとらえているのか。知覧ちらん特攻平和会館で勤務する羽場はば恵理子さんは、特攻隊の歴史を伝えている。8月15日の終戦の日にあわせて、記事を再掲する。 (月刊『潮』2024年8月号より転載)

  • 知覧特攻平和会館外観

鹿児島で歴史を残す知覧特攻平和会館

太平洋戦争末期、日本陸軍の知覧飛行場(鹿児島県南九州市知覧町)は特別攻撃隊の基地として使われました。アメリカ軍が沖縄の慶良間列島に上陸した1945年3月26日以降、陸軍は飛行機ごと艦船に体当たり攻撃を加える特攻作戦を展開しています。沖縄戦で亡くなった1036人の特攻隊員のうち、439人が知覧飛行場から出撃しました。


敗戦した日本は戦後に厳しい食糧難に陥ったため、知覧飛行場は田んぼや畑に作り変えられていきました。現在は住宅地や耕作地になっていますが、広大な敷地が飛行場跡であることを伝えています。


特攻隊の歴史を後世に伝えるため、75年4月に知覧特攻遺品館が開館します。その後、特攻隊員の遺書や遺影など遺品の寄贈が相次いだこともあり、87年2月には知覧特攻平和会館が開館しました。


館内には、鹿児島の沖合から引き揚げられた零戦(海軍零式艦上戦闘機)の実物や、250kgの爆薬を搭載してアメリカ軍の揚陸部隊に体当たり攻撃した海軍水上特攻「震洋」(小型の特攻ボート)も展示してあります。


97年2月からは、陸軍四式戦闘機「疾風」の一般公開も始まりました。これらを目にした来館者は「ここに生身の人間が乗りこんで出撃していったのか」と大きなショックを受けることと思います。

書簡に記録された特攻隊員の実像

埼玉県出身である私は、知覧や特攻隊にもともと縁があるわけではありませんでしたが、中学生の頃から歴史が好きだったこともあり、博物館で働ける「学芸員」になりたいという夢がありました。


しかし正規の学芸員の枠は非常に少ないため、日本女子大学と大学院で近代日本史と日本海軍の歴史を学んだ後は、東京都の自治体で1年間、市史編さん室に勤めました。そのような中、大学の恩師より「知覧特攻平和会館が学芸員を募集している」との情報を教えていただき、このチャンスを逃すまいと採用試験を受けて、2020年4月より、鹿児島に引っ越して学芸員として働き始めました。


平和会館には、陸軍沖縄特攻作戦で戦死した特攻隊員の書簡がたくさん保管されています。特攻隊員が生まれ育った出身地も家族構成も千差万別です。彼らの手紙や日記をひもといていると、一人ひとりの人間像が見えてきます。


故郷に妹を残して出征したあと、手紙のやり取りを通じて妹が足に怪我をしたことを知った特攻隊員は、手紙の中で何度も「足の具合は大丈夫か」と心配していました。また、ある隊員は弟に向けて「疎開先ではよくやっているか」「勉強に励めよ」としたためるなど、優しさが滲む手紙の数々に胸が熱くなります。


特攻隊員になったということは、ひとたび出撃を命令された瞬間、その先の命はないことを意味します。片道切符の戦闘機で出撃する運命が待ち受けていながら、特攻隊員は家族や大切な人への思いやりを最期まで忘れませんでした。


特攻隊員が小学生時代にもらった賞状や卒業証書を見ると、幼い頃に一生懸命勉強をがんばっていた様子が想像できます。また日記も多く収蔵されており、「今日は失敗して教官に怒られてしまった」という失敗談を記した文章を読むと、現代を生きる学生や若者も「自分たちと同じだな」と共感を覚えるのではないでしょうか。

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