古今の本を教材に日本と世界の今を論じる読書会を収めた書籍『常夜の読書会』が8月5日に全国の書店で発売となる。読書会には、国際政治学者・岩間陽子氏、社会学者・開沼博氏、文筆家・佐々木俊尚氏、臨床心理士・東畑開人氏、評論家・與那覇潤氏が集った。各分野で活躍される知識人が、単一の専門分野にとどまらず、複数の異なる学問領域を横断する語らいとなっている。本書の刊行を記念して、一部を無料公開!
【今回の教材】オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
参加者/與那覇潤(教材担当)、岩間陽子、開沼博、佐々木俊尚、東畑開人
言論人に自戒を促し続ける古典
與那覇 今回はスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが書いた古典『大衆の反逆』を教材に、現在の世界の問題を議論したいと思います。同書に関心を持つきっかけは、2020年に佐藤優氏が総合誌の連載で取り上げたことでした。当時はコロナ禍の最中で、「専門家」の権威が信奉されていましたが、実はその専門家自身が、大衆的な情緒に便乗して物を言ってはいないかと、オルテガの論に基づき警鐘を鳴らしたのです。
この点では、岩波文庫版の宇野重規氏の解説も興味深いものです。本書は「エリートの視点から大衆社会を批判した書物」と要約されがちですが、実はオルテガの言う「大衆」は身分や階級を指すのではなく、社会に向けて発言する際の心持ちや姿勢の問題なんですね。だから専門家やエリート、言論人であっても、悪い意味で大衆と化すことが起き得ます。
佐々木 今回再読して、100年前に書かれたと思えないくらい現代の諸問題と重なりました。専門家批判で言えば、原発事故やコロナ禍、ウクライナ問題における専門家と社会の関係が重なる。
1970年代まではさまざまな分野の専門家が社会のあらゆる事象について語り、そうした「百科全書」的な議論が論壇誌などを通じて世論として形成されていました。しかし、80年代に入ると、専門家は自らの専門のみを語るように分化し、あまり社会全体について語らなくなりました。
要因の一つはテレビのニュースショー化です。それに伴い世論形成の中心が論壇誌からテレビに移りました。象徴的だったのは久米宏氏の「ニュースステーション」です。それまでのニュースは報道局が制作していましたが、「ニュースステーション」は番組制作局がつくったという点で画期的で人気を博しました。専門記者ではなくタレントや芸人があらゆるニュースにコメントするという慣習はその頃に生まれたのです。
かつては政治学者の誰それが何について語ってもなんとなく受け入れるような社会の土壌がありましたが、いまは専門外のことに触れてSNSで炎上するなんてことは日常茶飯事です。専門家が世論の中心から退避していくような雰囲気は今も続いていますね。
大衆と専門家 どちらを信頼するか
佐々木 『大衆の反逆』には、近代初期における百科全書時代へのノスタルジーというか、専門家が分化することへの批判があります。私は共感できるものの、二十一世紀において万般に通じた専門家が出てくるかと言えばそれは現実的ではない。
では、現代社会における専門家の役割とは何なのか。あるいは、社会は専門家をどう生かすことができるのか。私はかねて、横断的に専門家の知見を学ぶことが重要だと言ってきました。医療や安全保障など一つの分野の専門家たちの発言を横断的に見ると、必ずその分野の共通認識が存在します。その共通認識をまず押さえることが専門家と一般社会の橋渡しになるのではないかと考えています。
開沼 専門家と一般社会のコミュニケーションの問題は今日にも通じる難しい問題です。原発事故をめぐって福島でずっと言われてきたのは「専門性を振り回すな」、つまり専門知識の名の下に庶民感情を踏みにじるなという定型句でした。そう言えば専門家に勝ったような気になれる魔法の言葉です。
佐々木 現代は両者を接合する明確な答えが見えない状態が続いているので、人によっては、「偉そうに知識を振り回して!」と怒る人も出てくる。
與那覇 『大衆の反逆』の主要部分は1926年が初出で、ドイツで言えばワイマール共和政の時代。帝政期の権威主義が失墜した半面、権力を手にした大衆がどこに向かうかわからない危うさもあった。この観点は、開沼さんがよく引用するマックス・ウェーバーの「仕事としての政治」「仕事としての学問」にも通じますね。
開沼 ウェーバーはカリスマに頼るなと、大衆を戒めたわけですが、その問題は100年前も今も変わらないはずです。ウェーバーのその2編は1910年代に行った講演録です。オルテガもウェーバーも第一次世界大戦やロシア革命などによって不安定だった当時のヨーロッパの世相を踏まえて読まないと、なかなか見えてこない。
本書には"社会はどんどん悪くなる"と没落論を言いたがる傾向への批判もありますね。この没落論は現代のメディアも用いがちです。例えば日本の犯罪率等は常に改善しているのに「社会はどんどん悪くなる」と言って「悪くしているのは誰なのか」との問いを投げかける。
そうして煽られた大衆の感情の矛先は政治家や専門家に向かう。しかし大衆には「ならば政治家や専門家を乗り越えて、自分たちが社会を担う」という気概はない。その構造が変わらなければ、大衆とエリートの関係をめぐる問題は100年前も今も出口には至り得ないのに。