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50代からの挑戦――難曲「ラ・カンパネラ」を弾く海苔漁師(映画「ら・かんぱねら」のモデルに迫る)

50歳を過ぎたころから独学でピアノを練習し始めた1人の海苔漁師。徳永義昭(とくなが・よしあき)さんはプロでも難しいとされるフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」の習得に挑む。
人生を賭けた中年男の挑戦はネットを中心に話題となり、多くのステージで演奏を披露。さらに、徳永さんをモデルにした映画「ら・かんぱねら」も制作されている。そんな1人の壮年の人生に、鎌田實氏が迫る。
(『潮』2024年3月号より転載)

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50歳を過ぎてからリストの難曲に挑戦

 昨年11月に面白い人と出会った。佐賀市で海苔漁師を40年以上続けてきた徳永義昭さんだ。

 海苔漁師の何が面白いのか。なんとこの人、50歳を過ぎた10年ほど前から独学でピアノを練習し、フランツ・リストの難曲「ラ・カンパネラ」を習得。いまではあちらこちらのステージに引っ張りだこになっている。さらには、徳永さんをモデルにした映画も制作されているそうだ。趣味でピアノを始めた海苔漁師が、なぜそこまで注目を集めることになったのだろうか――。

 昨年末、僕は久しぶりに白いお米を食べた。徳永さんが養殖した有明産の新海苔を頂戴し、その桁違いの香りと旨味から、普段は控えているお米をモリモリと食べてしまったのだ。

 徳永さんとは、11月に佐賀市でお会いした。同市で加藤登紀子さんのコンサートが開催され、僕も参加していた終了後の登紀子さんを囲む会に徳永さんが飛び入りで来られて「ラ・カンパネラ」を演奏してくれたのだ。徳永さんは翌日に佐賀市文化会館で開催した僕の「がんばらない健康長寿実践塾」でも、ピアノ演奏を披露してくださった。

 身長はそれほど高くはないものの、がっしりとした体格。いかにも漁師という感じの徳永さんからは、優しく素直な人柄がにじみ出ている。話すときにはいつもにこやかで、大きな声の佐賀弁にはおそらく誰もが愛着を抱くはずだ。大きな背中を丸め、海苔の養殖という力仕事で培われた太い指を器用に操って鍵盤を叩く姿には、見る人を惹き付けるものがあった。

 オンラインで行ったインタビューの冒頭に、僕がいただいた海苔の話をすると、徳永さんは「いやぁ、今年のうちの海苔はよくなかったとですよ。たまたま鎌田先生に食べていただいた一番摘みだけがよかったとです」と、話してくださった。不漁という喜ばしくない話をしているはずなのに、表情からか、口ぶりからか、どことなく底抜けの明るさを感じた。


過酷を極める海苔漁師の生活

 高校を卒業してすぐ、家業の海苔の養殖を手伝い始めた。有明の海苔の漁期は10月から3月。その間に二期作を行う。毎年9月になると、海苔網を張るグラスファイバー製の10メートルほどある支柱を1人で2000本近く海底に打ち込む。10月半ばの漁の解禁日を迎えると、一気に海苔網を張って、牡蠣殻でつくった海苔のタネを網に吊るす。そこからは毎日朝6時から正午までと、夕方6時から深夜零時まで、海上での作業が続く。一期作目は年内に終え、年明けから二期作目が始まる。

「漁期の半年間は厳しかです。忍耐力がいります。海苔が成長し始めたら休みはないので。休めるのはどうしても海に出られない荒天の日だけです。海に行って手入れして、摘んでってひたすら同じ作業の繰り返しですからね。

 休憩は深夜と午後の6時間ずつしかないけん、しかもその間に支度したり、飯食ったりなんで、睡眠は昼間と夜中に3時間ずつの合計6時間です。特に辛いのは冬場ですね。身体が冷たくなっているので、寝ようにもなかなか寝付けんのです。雪が降っても海に行かんばいかんですから。一番辛かったときには、もうお金はいらんけん休みたかと思ってましたね。ただ、辛かばってん、やめるわけにはいかんけん」



若い頃は酒盛りその後はパチンコに

 4月に網や支柱を片付けると、そこからは来漁期に向けての準備を始める。ただし、その間は午前中に3~4時間の仕事だけで済む。秋から春にかけて辛い仕事を終えた分、春から秋にかけては余裕のある生活になるのだ。

 徳永さんが漁師を始めたのは1970年代の終わりころ。当時の漁師仲間の先輩は、昔気質の人たちばかりだった。春から秋にかけては、午前で仕事を済ませて昼間から酒宴が始まる。駆け出しの若い漁師が先輩の誘いを断るわけにはいかなかった。昼から散々飲んで、夕方になれば飲み屋街に繰り出してどんちゃん騒ぎ。同世代の友人や異性と遊びたいと思うことも多々あったが、20代から30代にかけては先輩たちとの酒盛りに明け暮れた。

 しかし、昔気質の先輩たちが漁師を引退し始めると、徐々に酒を飲む仲間がいなくなった。そこで徳永さんがのめり込んだのがパチンコだった。

「漁期が終わると妻からパチンコの軍資金として30万円のお小遣いをもらえるんです。一番通っていた時期には、朝9時から夕方6時まで毎日行ってました。負けるときは負けましたけど、トータルで見ればいつも勝っていて、漁期が始まるときの残高は次の春に繰り越すんです。たまに大勝ちしたときには、妻にブランドもののバッグや財布を買って帰るときもあったとです」

 僕はパチンコには詳しくないけれど、トータルで勝つというのは簡単なことではないらしい。しかし、「盛者必衰」とはよく言ったもので、50歳を過ぎたころに大負けを喫してしまう。

 その年の春、徳永さんの手元には40万円の繰越金があった。そこに新たな軍資金30万円がチャージされる。ところが、初月から負けがかさみ、なんと5月が終わるころには軍資金が底をついてしまった。2カ月で70万円の負け。かつてない負け方に、もはや自宅の居間でボーッとテレビを見ているしかなくなった。

「俺の様子を見かねて、自分もパチンコ好きだった年金暮らしの親父が、何度かお小遣いをくれたんです。数万円をくれて『これで明日パチンコ行け』っちゅうて。でも、すっかり負け癖がついてしもうたんか、行けども行けども負けるんです」


失意の底で出合った「ラ・カンパネラ」

 とうとう徳永さんは禁じ手を指してしまう。妻・千恵子さんの財布からこっそりとお金を持ち出してしまったのだ。もちろん、勝って返すつもりのお金である。ところがやはり負け続けて、今度こそと思ってまたしても妻の財布を開けたときだった。

「札入れのところに、お札と同じくらいの紙が入れてあって、そこに妻の字で〝盗るな〟って書いてあったんです……。一緒に生活していて、口では何も言わなかったんですけども、妻はすべてお見通しだったんです。一枚も二枚も上手の妻の思いに触れて、いよいよ俺も観念したとです」

 ちょうど同じ時期に2つの出来事が重なった。妻の千恵子さんは、長らく自宅でピアノ講師の仕事をしてきた。2年に1度開催される生徒らのピアノの発表会に、パチンコで忙しい徳永さんはそれまで一度も参加したことがなかった。しかし、パチンコがなくなってしまった徳永さんには余るほどの時間がある。初めて演奏会に足を運び、いつも自宅に習いに来る子どもたちの演奏を聞いて心を動かされた。演奏会の終了後、思わず、子どもたちに「おじさんも今日から練習して、2年後にはみんなにピアノの演奏を披露するからね」と約束をしてしまった。

 ところが、軽はずみの約束はなかなか実行に移されない。まったく練習などする気配がない徳永さんだったが、もう1つの出来事が決定打となった。いつものように居間でボーッとテレビを見ていると、フジコ・ヘミングさんのピアノ演奏が始まった。楽曲は「ラ・カンパネラ」――。日本が世界に誇る偉才の演奏は、いつもの居間をコンサートホールに変えてしまった。

「直感的にこの曲を弾こうって決めたんです。これで、子どもたちとの約束ば果たせると思って。『ラ・カンパネラ』が難曲だなんて、俺にはまるで関係なかったとです。それくらいフジコ・ヘミングさんのテレビ越しの演奏に魅了されてしまったんです」

 徳永さんはすぐさま千恵子さんに相談した。返ってきた言葉はそっけないもので「絶対無理けん、やめたほうがよか」とひとこと。ピアノ講師であるがゆえに、「ラ・カンパネラ」の難しさを痛いほど知っていた千恵子さんなりの現実味のあるアドバイスだったのかもしれない。しかし、妻のこの言葉が徳永さんに火をつけた。

「無理なことなんてないと思っていました。何も知らないがゆえに、ピアノなんて鍵盤を押さえたら音が出るけん、練習すれば誰にでもできるって。妻からは『ほかの易しい曲にしなさい』と言われたんだけども、俺はフジコさんが弾いた『ラ・カンパネラ』が弾きたい。『じゃあ、もうお前からは習わんけん、よかよ。俺一人で頑張る』って言うて、そこから独学が始まったとです」

 楽譜は千恵子さんが持っていた。さっそくピアノの前に座ったものの、そもそも楽譜が読めない。ドの位置を基準にして音階の一音一音を人差し指で鍵盤を押さえて確かめ、楽譜にはカタカナで「ドレミファ……」と書き込んでいく。

 あるときにYouTubeで「ラ・カンパネラ」のメロディに合わせて鍵盤が光る動画を見つけ、ほんの少しだけ練習の効率が上がった。それでも練習は毎日6時間から8時間に及び、長いときには10時間ピアノの前に座っていたこともあった。練習の合間には、目標とするフジコ・ヘミングさんの演奏「ラ・カンパネラ」を1日に20回から30回は聞いてモチベーションを維持し、辛いと思ったことは一度もなかった。地道な独学を積み重ねて、練習を始めて3カ月が経とうとしたころに初めて一曲を通しで弾けるようになった。

「何度やっても弾けなかった難しい箇所を、1週間とか2週間とかかけてようやく弾けるようになったときは快感でしたね。その快感が、また次も頑張ろうという気持ちにさせてくれたとです」

 練習を重ね、少しずつ上達していく様子を撮影し、YouTubeに「ラ・カンパネラおやじの挑戦」と投稿した。動画が話題を呼び、次第に人前で演奏する機会が出てきた。発表会にも出演し、妻の生徒たちとの約束も果たした。

「生徒らに聞いたとです。『おじさんの演奏どうやった?』って。そしたら子どもたちは『普通』って。どんな褒めちぎった言葉よりも嬉しかったとですよ」



あなたの人間性が音に伝わっている

 そんな徳永さんに思いがけない話が舞い込む。2019年にテレビの企画で、フジコ・ヘミングさん本人の前で「ラ・カンパネラ」を演奏する機会に恵まれたのだ。ピアノの練習を始めて7年。緊張しつつも懸命に奏でた徳永さんの演奏を聞いたフジコさんは「ブラボー」と称賛の言葉を贈ったうえで次のように語った。

「考えられない。あなたが1人でそこまでなさったっていうのは。すごいですよ。あなたの人間性が音に伝わってるからね。それは何もやらなくても自然にいい音が出ている。それが何よりで。全然習わなかった方が、ここまで弾けるとは夢にも思わなかった」

「カンパネラ」はイタリア語で「小さな鐘」を意味する。かつてフジコさんは、「ラ・カンパネラ」についてこんな言葉を残している。「ぶっ壊れそうな鐘があってもいいじゃない。機械じゃないんだから」と。何も僕は、徳永さんの演奏する「ラ・カンパネラ」が壊れそうだと言いたいわけではない。弾き手の数だけ多様な「ラ・カンパネラ」があっていいし、徳永さんの演奏には徳永さんにしか出せない味がある。昨年11月に初めて徳永さんの演奏を聞いた僕はそんなことを感じた。

 僕と一緒に演奏を聞いた加藤登紀子さんは、こんなことを言っていた。徳永さんの頭のなかには理想の「ラ・カンパネラ」があって、鍵盤に向き合って次の音を探しながら弾いているように見える。その姿はさながら作曲家のようだ――と。

 番組の収録後、フジコさんから思いがけない誘いがあった。なんと、フジコさんのコンサートの前座をオファーされたのだ。憧れのフジコさんからの打診である。二つ返事で引き受けるかと思いきや、ある事情があってそれができなかった徳永さんの話が面白い。

「コンサートが、確か12月25日だったんです。上皇后・美智子さまも来られるとのことで、フジコさんから『あなた、美智子さまの前で弾きなさい』って言われたとです。ただ、年末って俺、海苔が一番忙しい時期なんです。いま考えたら馬鹿な話なんですが、フジコさんに『すみません。海苔が忙しくて弾きにいけません』って。本当に俺はバカばい……」

 きっとフジコさんは徳永さんのこういう素直さを気に入ったのだろう。結局、その後にフジコさんのほうから何度もオファーが来て、2021年に北九州市で開催されたコンサートでようやく前座を務められた。その後も前座の演奏を任され、挙句の果てには徳永さんに故郷へ錦を飾らせるために、佐賀でのコンサートも企画してくれたそうだ。

「フジコさんのおかげで人生がガラッと変わりました。感謝の気持ちしかありません。だから、フジコさんが暮らされている東京には足を向けて寝れんとです」


じっとピアノの音を聞いていた父親

 テレビに出演してからというもの、さまざまなメディアから取材を受け、冒頭でも述べたとおり徳永さんをモデルにした映画も制作されている。まさに徳永さんの人生はフジコさんが演奏した「ラ・カンパネラ」との出合いでガラッと変わった。

 そんな徳永さんの変化を一番喜んでいるのは、妻の千恵子さんではないだろうか。かつて漁期以外は酒とパチンコに明け暮れていた夫が、いまでは各地でリストの難曲を披露しているのだ。

「夫婦喧嘩をすると、昔は俺が1個言ったことに妻は10個くらいで返してきたんですが、最近は3個くらいしか返ってこんようになりましたね。言われることは言われるんですが、感謝してくれてるのかもしれません。

 俺が練習しているとき、妻は一度もアドバイスをしてこなかったとです。だけど『今日のあそこはよかったね』っちゅうて感想を言ってくれるんです。ダメ出しをされたこともなくて、感想はいつも褒めてくれました。俺がこうやって皆さんの前で『ラ・カンパネラ』を弾けるのは、夫婦の二人三脚というか、もはや妻のおかげだと思っています」

 心残りはパチンコで大負けしたときに小遣いをくれた息子思いの父親に、いまの姿を見せられなかったこと。ピアノの練習を始めて数年後に他界した父親は、何一つ感想を言わなかった。徳永さんが聞くと「俺にはよう分からん」といつも同じことを繰り返すだけだった。しかし、徳永さんが練習を始めると、いつも居間のテレビを消してじっとピアノの音を聞いていたという。50歳を過ぎた息子の成長にじっと耳を澄ませたお父さまの最晩年は、きっと幸せな時間だったはずだ。

 今後も、漁師とピアニストという二足の草鞋を履いて思いもよらない世界に足を踏み入れていくところを、一人の友人として遠目に面白がって見ていようと思う。

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医師、作家
鎌田 實(かまた・みのる)
1948年東京都生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。74年に長野県の諏訪中央病院に赴任。88年、同病院の院長に就任。2005年より名誉院長。チョルノービリ(チェルノブイリ)やイラクの被災地支援にも取り組み、ベラルーシ共和国の放射能汚染地帯に101回にわたり医師団を派遣。著書に『コロナ時代を生きるヒント』(小社刊)など、多数。

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