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『親の家が空き家になりました』ためし読み

全国で900万戸にものぼる空き家――
家の管理、相続問題、家族とのやり取り……。
様々な問題がからみあう「空き家問題」を解決できるのか。

「家」をめぐる家族の物語を描いた『親の家が空き家になりました』の冒頭を特別公開!

 

******

プロローグ

 リビングのガラス戸越しに、何かがふわりと舞い降りるのが見えた。

 そおっと近づいて見てみると、小さな黄緑色の鳥がベランダの鉢植えにとまっている。目の周りには白い輪があった。

「うわー、今日はいい日になりそう」

 瞳は思わず呟く。

「何で?」

 朝食後のコーヒーを飲みながら、一郎が不思議そうに聞いた。

「ほら、そこにメジロ。お祝いに来てくれたんかな。今日は何時に待ち合わせる?」

「え?」

「仕事帰りに外食しようって、言ったやん」

「今日は、九州支店から出張で来た人らと打ち合わせや。遅くなるって言うたよ。夕食は、いらないって」

「えー? 聞いてへん」

「言うたよ」

「知らない。今、聞いた」

「外食は休みの日にしよ。その方が落ち着くし」

 コーヒーを飲み干して、一郎は何の屈託もなく、さっさと玄関に向かう。

「いってらっしゃい」

 瞳は思い切り笑顔を作って見送った。

「朝、だんな様を送り出す時は、何があっても笑顔で」という母の教えを、忠実に守っただけだ。ドアを閉めて玄関横の鏡を見ると、恐ろしいほどの仏頂面が映っている。

 今日は瞳の誕生日である。

 昨年までは、一人娘の光(ひかる)が必ずケーキを買ってきた。そんなささやかなお祝いの日は、当たり前のように毎年訪れ、そして終わった。

 半年前に光が結婚して、夫婦二人の生活になった途端、家から色彩が抜け落ちた。味気なくなった。会話があるような、ないような、妙に静かな家になった。

 そのうちに慣れるのかもしれないが、これからの人生、もっと夫婦で楽しんでもいいのではないか、と瞳は思うのだ。

 誕生日の約束を忘れるなんて。いや、この年になったらそんなもんか。こんなことにがっかりしている自分に、瞳はがっかりする。

 瞳も仕事に行く時間である。五年前から週三日、通販商品を受注するコールセンターのオペレーターとして働いていた。

 新しいことに慣れるのに時間がかかり、要領もいい方ではない瞳にとって、初めは戸惑うことが多かった。言葉遣いを注意され、聞き間違いに冷や汗をかきながら、やっと慣れて、今ではやりがいさえ感じている。

 テーブルに置いたスマホが着信を知らせた。

「お母さん、五十歳のお誕生日おめでとう。百年、生きるとして、折り返し点やね」

 光からのLINEだった。

 百年、生きるとして? 何、言ってんだか、と一瞬思ったが、すぐににんまりして、「ありがとう」のスタンプを返した。

 出かける前にベランダを見た。メジロはもういない。幻だったのかもしれない。

 大阪と神戸のほぼ中央に位置するまちに、瞳達は暮らしていた。

 マンションを出て五分ほど歩くと、松や桜の木が植えられた、夙川(しゅくがわ)沿いの道に出る。もう二、三週間ほどしたら、ソメイヨシノが咲き始めるだろう。たくさんの小さな蕾は、咲く準備をしている。

 夙川は、兵庫県の六甲山系を源に香櫨園浜(こうろえんはま)まで続き、大阪湾に注がれている。

 冬の間は、橋の欄干にずらりと並んだユリカモメが、今日は二羽とまっているだけだ。白い羽と赤いくちばしが愛らしい。人に慣れているのか、近づいても飛び立たない。

 駅まで続くこの道が、瞳は好きだった。通勤や通学で駅に向かう人々の軽やかな靴音に、瞳の気持ちは晴れていく。

 

1 母との同居

 梅田行きの電車に乗ってすぐに、ポケットのスマホが震えた。

「湯山中央病院」と表示されている。ドキン、と心臓が大きく打った。瞳の父が入院し、そして亡くなった実家近くの病院である。

 瞳はスマホを耳に押し当て、口元を掌で覆うようにして受信ボタンを押した。

 ガタンゴトンという音に、相手の声がかき消されて聞こえにくい。

「佐々木瞳さんですか。お母様の枝川京子さんが救急搬送されて検査を受けています。すぐに来られますか?」

 切れ切れに伝わったのは、母に何かがあって病院に運ばれたということだった。救急車ってことは事故か。体調が急に悪くなったんやろか。汗ばんだ手が震えた。

「母は、母は無事なんですか? あの、あの、母は生きてますよね!」

 自分でも何を言っているのか、分からなくなる。昨日、電話で話した時は元気そうやったのに、どうしたんやろ。

「命に別状はありません。それではお待ちしております」

 落ち着いた相手の声に安堵したものの、瞳は慌てふためいていた。電車が駅に停まるのももどかしく、家へ取って返す。

 職場に事情を話して休みをもらい、車に乗り込んでエンジンをかけた。

「一旦、落ち着こ! 安全運転で!」

 自分に言い聞かせ、西宮北(にしのみやきた)インターへ向かう。高速道路で西へと走る。市街地を過ぎると、緑の山々がどこまでも続いた。

 父が亡くなり、母が一人暮らしになってから、瞳は月二回ほど片道二時間かけて実家に通っていた。

「みんなに、ようしてもろてるし、何の心配もあらへんよ」

 母は瞳が訪れるたびに、そう言って瞳を安心させた。実際、垣根越しに、「枝川さん、おっとって? あら、娘さんが来てはるんやね。また来るわな」

 と、声をかけていく人が何人もいた。

 瞳が小さいころから、家族は近隣の人達と仲が良く、互いに庭の花を愛でたり、一緒に町内会の行事に参加したり、時には縁側に座って、話に花を咲かせたりした。

 特に、東隣の須賀さん一家は家族構成が似ていて年齢も近く、何かと助け合ってきた。互いの子ども達が成長して家を出ると、瞳の両親と須賀さん夫婦は連れ立って、よく日帰りバス旅行に出かけた。

 一時間ほど車を走らせ、県の南西部に位置するまちで、瞳は高速を降りた。

 病院に向かいながら、家族で姫路城や動物園へ出かけた幼い日のことを瞳はぼんやり思い出していた。遠い昔のことだ。母は今年、八十歳になる。

 病院に到着し受付で名前を言うと、年配の看護師長が忙しそうにやってきて、

「加藤先生から説明がありますので」

 と言い、瞳を病室に案内した。

 四人部屋の入り口側のベッドに母がいた。髪の毛が白い枕の上に乱れて広がっている。目を閉じた母は一週間前に会った時より随分、年をとったように見える。

「お母さん! どないしたん、心配したわ。大丈夫?」

「えらいこっちゃなぁ」

 京子は瞳の声に目を開け、おどけたように呟いた。その言葉は、京子自身に向けているようでもあり、瞳を気遣っているようでもあった。

 二階から座布団を三、四枚持って降りようとした時、階段を踏み外した。激しい痛みにしばらく動けずにいたが、和室に置いた携帯電話まで這って行って、救急車を呼んだ、と京子は言う。

「三段跳びしてもうた。ふふふ。痛いだけで骨は折れてないから大丈夫や」

 京子の穏やかな表情と明るさに、瞳は救われる思いがした。

 隣家の須賀さんも驚いたに違いない。

 加藤医師はカルテを見ながら、打撲だけのようだが念のために詳しい検査をする、と言い、

「お年を考えると、これからはもっと気をつけた方がいいですね」

 瞳の顔に視線を当てた。眼差しは優しかったが、瞳の胸はチクリと痛む。

 医師に深く頭を下げて見送っている瞳に京子が言った。

「あの先生、昔からよう知っとうけど、いっつもひと言多いねん。気にしなや。家から新しい靴下、持ってきてくれへんか? あと、何か着替えもな」

 痛むのは足腰だけのようで、口は元気である。

 実家に向かおうと病室を出たところで、息を切らせた須賀さんのおばさんに出会った。庭仕事で焼けた肌が、健康そうにつやつや輝いている。

「昨日から有馬温泉に行ってて、さっき帰ったんよ」

 父が亡くなってからも、京子は須賀さん夫婦に誘われると、一緒に出かけていた。今回は遠慮したのだろうと、瞳は思った。

「息子達が誘うてくれてな、家族みんなで行ってきたんや。帰ったら、京子さんが救急車で運ばれたって、お向かいさんが言うやろ。びっくりしたわ。けど、大したことなくて良かったな。はい、これ、お土産」

 炭酸せんべいの包みを瞳に渡し、丸っこい体を左右に揺らせながら病室に入る。すぐに京子と須賀さんの会話が聞こえてきた。須賀さんの笑い声が廊下まで響く。その声は、家族で過ごした一泊旅行の楽しさを、余すことなく伝えていた。

 実家に到着し、駐車スペースに車を入れる。庭の雑草が随分、伸びたような気がした。

「大変やったなぁ」

 息子夫婦を見送りに出てきた須賀さんのおじさんが、気の毒そうに声をかけた。

 瞳は、いつも世話になって感謝していることを丁寧に伝えた。

 何回か会ったことのある、須賀さんのお嫁さんが瞳をちらりと見て、

「おじいちゃん達が仲良くさせてもらってますけど、私達、お隣さんまでは目が届きませんで。すみませんね」

 と、真顔で言った。やがて、夫婦は車に乗り込み、走り去った。

 父が亡くなってから、十年も経つのだ。一年ごとに、いや一日ごとに状況は変わってゆく。京子やその周辺だけが変わらないわけがないではないか。瞳は、その事実を突きつけられたような気がした。

 家に入ると、廊下の冷たさが靴下を通して足に伝わってきた。階段下にお客用の座布団が散らばったままになっている。瞳はそれを重ねて置いて、和室の襖を開けた。

 瞳の目に飛び込んできたのは、雛人形だった。縁側から差し込む午後の柔らかい光の中で、凜とした佇まいを見せている。

 金の屛風を背にした男雛、女雛は切れ長の目にわずかな微笑みを浮かべていた。銚子や三方を持って行儀良く並ぶ三人官女。五人囃子は今にも音楽を奏でそうだ。

 もう何年も見ていなかった、懐かしい七段飾りである。

 母は何を思って雛人形を飾る気になったのだろう。

 六段目には、簞笥に鏡台、お針箱が、きちんと並んでいる。子どものころ、小さな道具を使って、姉や友達とままごと遊びをした。瞳は、美しい雛人形よりも、こまごまとした道具の方に心惹かれる子どもだった。

 小さな鏡台の引き出しの取っ手が取れて泣いた時は、姉が直してくれた。ボンドの跡が、かすかに残っている。

 どちらが右大臣で、どちらが左大臣かは、兄が詳しく教えてくれたのだった。

 座布団を降ろして、母は誰かを呼ぶつもりだったのか。

 母は、何やかんやと理由をつけておしゃべり会を催すのが好きだ。桃の節句は過ぎたけど、母のことだから、雛人形が飾られている間は何回でもお茶会をしたかったのかもしれない。

 瞳は、必要なものを見つくろってバッグに詰めながら、退院した母が廊下をそろそろと歩き、浴室に入る姿を想像した。足をすべらせて転ぶ姿が鮮明に目に浮かんだ。

 お母さんは足腰が丈夫で、滅多に風邪もひかへんかったし、「一人が気楽でいい」なんて、いつも笑ってたけど、もう、そうは言ってられへん。

 瞳は荷物を持って母のところへ駆け込むと、意気込んで言った。

「お母さん、うちで一緒に暮らそう!」

 京子は、一瞬、ぽかんとし、大して嬉しくもなさそうに目をそらせた。

「あんな狭い家に押しかけたら申し訳ないわ」

 あんな狭い家で悪かったね、と思いながら瞳はたたみかける。

「光の部屋が空いてるわ」

「一郎さんは、迷惑とちゃうやろか」

 瞳は、はっとした。夫のことをうっかり忘れていたのである。娘の表情を見て、京子はため息をついた。

「ほんまに、いっつも肝心なところが抜けてるんやから、瞳は」

「絶対、大丈夫。大丈夫や!」

 きっと賛成してくれる。こんな時は必ず力になってくれる人だと信じている。

 いや、だけど。何考えているか、イマイチ分からないところもあるしなぁ。瞳の頭の中で、様々な思惑が渦を巻いていた。

 一郎が帰ってきたのは、十一時過ぎだった。

「お義母さんが? 大変やないか」

 瞳が事情を話すと、真剣な目で容体を詳しく聞いてくる。

「年寄りは打撲かて命取りや。油断したらあかんで。大事にせんとな。もちろん、うちに来てもらおう」

 心配そうに眉をひそめる様子に、瞳は心底、驚いた。ここまで思ってくれるなんて。

 ああ、やっぱり、この人と結婚して良かった、とつくづく思う。

 一郎は、テーブルに細長い紙包みを置いた。誕生日のワインも忘れていないのだ。

「ありがとう、乾杯しよ!」

 瞳は心を弾ませて、ワイングラスを出した。包みを開けると芋焼酎の瓶が現れた。

「九州支店からのお土産や」

「焼酎……。ま、とにかく乾杯しよ」

 どちらにしても、瞳は嬉しくてたまらない。「ありがとう」と繰り返しながら、グラスを合わせた。
 こうして、瞳の誕生日は過ぎていった。二〇一八年三月のことである。

 翌日、瞳は姉の陽子に電話で状況を伝えた。

「ごめん、今から予約のお客さんが来はんねん。お母さん、大変やったなぁ。まあ、よろしく頼むわ。来週にでも、電話するし」

 電話は慌ただしく切られた。

 二歳違いの姉は子どものころ、母の鏡台がお気に入りだった。化粧品の匂いを嗅いだり、椿油をそっと指に付けたりしているのを、瞳はよく見かけた。

 美容専門学校を卒業後、化粧品会社に就職し、百貨店の美容部員になる夢を叶えた。

 結婚して二人の娘の母となってからも学び続け、エステティシャンの資格を取ったのである。

 そして、「美しさは幸せに通じる」を信条に、七年前、大阪北部にある自宅の一室を改装して美容サロンを開業した。丁寧なスキンケアと親しみやすさが地域で人気となり、毎日、大忙しのようだ。

 兄の真司には、夜九時過ぎに東京の自宅に電話をかけた。妻の小夜子が出た。瞳をねぎらい、京子を心配する言葉も忘れない。

「最近、毎晩、帰りが夜中なのよ。すごく忙しいみたい。お休みの日に、そちらに電話するよう、必ず伝えますからね」

 予想通りの受け答えである。さて、どちらが先に電話をしてくるか。瞳は兄の方に賭けた。兄は責任感が強い。自分のやるべきことを速やかに行うだろう。何らかの助言をくれるに違いない。

 真司は子どものころから成績優秀で、東京の有名大学を卒業した。大手電機メーカーに就職して出世している。瞳の目にはそう映る。一人息子の誠は、アメリカに留学中だと聞いていたが、帰ってきたかどうかは知らない。

 京子は打撲以外に問題がなかったので、三日後に退院することになった。

 退院した日、瞳は実家に泊まった。

 瞳が不器用な手つきで雛人形を箱に収めていると、

「ぎょうさんおってくれたから、賑やかやったわ」

 京子がお礼でも言うように、人形に話しかけ、微笑んだ。

 京子は自分の荷物をまとめながら言った。

「瞳は家中を走り回ってたなぁ、この家に引っ越してきた時」

 また、その話か、と瞳は思う。父からも母からも、親戚からも散々聞かされた。三歳だった瞳は、はしゃぎ過ぎて縁側から転げ落ち、膝を三針縫う怪我をしたのである。

「東京の狭い社宅から広い家に変わったんやから、無理もないわな」

「あんまり、覚えてへんわ。お兄ちゃんが、しょんぼりしてたのは覚えてるけど」

「あの子は小学校になかなか馴染めなかったんや。可哀想に、カルチャーショックやな」

 通貨処理機や情報処理機の開発を手がける会社の東京本社勤めだった父が、姫路支社に転勤になったのをきっかけに、父は姫路市に近い故郷のまちに家を建てて、家族で移り住んだのである。

 このまちには、父の両親や親戚も多く住んでいた。詳しい事情を瞳は知らなかったが、父の母親である瞳の祖母が一緒に暮らしたこともあった。

 庭に面した日当たりの良い部屋で、祖母が一日を過ごしていたのは、瞳が中学生の時である。学校から帰ると、おやつを食べながら祖母とおしゃべりをするのが日課だった。

「私、おばあちゃんの部屋に入り浸ってたね」

「あの時は助かったわ。瞳が相手をしてくれて。おばあちゃんには一番、良い部屋を占領されてしもたけどね」

 母がそんな言い方をするのを初めて聞いた。

「ほんまに、しんどかったわ。真司はもう東京の大学に行ってたし、陽子は高校の部活が忙しいて。お父さんは出張ばっかりで家におらへん」

「お母さんがそんなに辛かったなんて、知らんかったわ」

「あかん、あかん、愚痴っぽいのはあかんな。良いことはぎょうさんあったんやから、な」

 年代物の茶簞笥に置かれた写真立てに話しかける。父の親戚の誰かから譲り受けた茶簞笥である。写真の父が笑っていた。その後に、こう続くはずだった。

「どんな経験も無駄にはならへん。何かしら意味があるんや」と。

 しばらく待ったが、その言葉はなかった。

 からからと玄関の開く音が響き、須賀さんの声が聞こえた。

「ゴミがあったら物置の所に出しといて。水曜日にうちのと一緒に出しとくし」

「ありがとう、助かるわ」

「こっちこそ。雛祭り会、何回もやってもろて、みんなも喜んではったわ」

「あと、お菓子屋のおばあちゃんを呼ぼうと思ったんやけど、ええ座布団を出したろ、なんて余計なこと考えてたらコケてしもた」

 ひとしきり話をして須賀さんが帰ると、

「何やかやと世話をしてくれる人がいるのは、幸せなことやな。けど、自分が人のお世話をできる方が、もっと幸せなんと違うやろか。私はもう、誰かの役に立つことはないのかもしれへん。仕方ないんかな」

 京子は腰をさすりながら、呟く。いつもの母らしくない。

 お母さんがいるだけで嬉しい人はたくさんいるよ。言おうとしたが、瞳は口に出せなかった。言わなくても分かってるはずだし、それに、何か照れくさい。

 翌日は快晴だった。

 瞳は家の一階をひと部屋ずつ見回り、雨戸を閉めた。二階の雨戸は大分前から閉めっ放しである。実家には、これからも来ることがあるだろう。それなのに、名残惜しいような、もう二度と来られないような不思議な感覚に襲われた。

 京子はというと、我が家を振り返ることもせず、小柄な体をさっさと車に滑り込ませた。

「遠足みたいやな。アメちゃんあげよか?」

 昨日とは打って変わって晴れやかな表情で黒飴をしゃぶっている。何かが吹っ切れたように見えた。

 キャベツ畑の脇の農道を走る。その先に水を張っていない田んぼが広がっていた。

 瞳の職場からは、母が落ち着くまで休職してもいい、と言われていた。早く返事をしなくてはならない。

 住み慣れない土地で母に留守番をさせるのは心配だ。また、同じことが起きるかもしれない。仕事は辞めよう。

 けど、住宅ローンはまだ終わっていないし、月々のパート代がなくなるのは厳しいな。特に資格もない私が、やっと見つけた仕事やし。いや、きっと何とかなるわ。何とかしてみせる。

 瞳は黙って運転を続けた。京子も次第に口数が少なくなった。

 高速道路は空いていた。瞳の暮らす海辺のまちが近づいてくる。

 少し古びた七階建てのマンションの三階が、瞳達の住まいである。3LDKの広さは、自分達にはちょうど良いと思っている。

 光が使っていた部屋は玄関脇の洋室で、ベッドと机だけが置いてあった。京子は荷物を置くと、机を軽く撫でた。光が小学校に上がる時、孫のために夫と買った机である。

「ここらは物価が高いんやろ。うちは近所の人が、玄関に畑の大根やら人参やら置いといてくれたから、野菜なんか買(こ)うたことないわ。食費は、月一万円もかからんかったかな」

 突然、京子がお金のことを言い出したので、瞳は何と答えたものかと視線を泳がせた。近くに格安のスーパーがあるし、案外、節約上手やねん。瞳の言葉より早く、京子は、「はい、これ」 と、銀行のキャッシュカードを突き出した。

「このへんにもM銀行のATMはあるやろ。偶数月の十五日に年金が入るから、私の食費、なんぼでも下ろしてきたらええ。暗証番号は、みんな良し」

 今の前置きを聞いたら、一万円以上は下ろされへん。暗証番号は……何やて?

「しばらくお世話になります。よろしくお願いします」

 瞳の夫、一郎に京子はそう挨拶した。いつもと言葉遣いが違う。一郎は、それほどしゃべる方ではないが、人当たりは良い。一言、歓迎の意を表すと、京子は安心したように目を細めた。

 しばらくの間、京子は心なしか元気がなかった。環境が変わって調子が出ないのかもしれないが、それだけではないようだ。

 四か月経ち、季節が変わっても、真司と陽子から連絡がないのである。

 朝早く目覚め、所在なさそうにしている母を、瞳は散歩に誘った。夙川に出る途中に、低い木の柵で囲まれた小さな家がある。庭は手入れが行き届き、いつも季節の花で彩られていた。瞳はここを通るのが好きだ。母の気持ちも晴れるに違いない。

 ところが、庭は雑草だらけになり、黒ずんだ雨戸が閉まっている。いつの間にか、空き家になってしまったのだろうか。しんとした気持ちになって、黙って通り過ぎた。

 他人事ではなかった。

 夜、三人で西瓜を食べていると、須賀さんのお嫁さんから電話があり、実家の雑草が伸び、虫が飛んできて困ると言うのである。

「すみません。すぐ、草刈りに帰ります」

 瞳は頭を下げながら京子に視線を送る。

 一郎が、

「日曜に行ってくるわ。物置に入ってる道具を使うで」

 と、西瓜の種を吐き出しながら言った。

「ありがとう。助かるわぁ、ごめんね」

 京子は即座に答え、手を合わせる。

「あら、一人で行ってくれるん? 日当、いくら取る気?」

 瞳が鼻に皺を寄せて夫に言った。

「僕はなぁ、母さんが亡くなってからずっと、父さんと暮らしてきたやろ。そやから今、お義母さんのあったかい雰囲気が心地ええねん。来てもろて、ほんまに良かったって思ってる。おしゃべりの相手はでけへんけど、体を使(つこ)て役に立てるなら嬉しいんや」

 一郎は、珍しく真面目な顔で語る。京子はうっすら頰を染め、瞳は何も言い返せない。

 日曜日、一郎は朝早くから出かけていき、夕方、段ボール箱を抱えて帰ってきた。トマトにナス、オクラも入っている。

「息子さんの奥さんが、庭で採れたからどうぞ、って。来月から同居するんやて」

 須賀さんのお嫁さんから野菜と情報をゲットするなんて、なかなかのものだ。瞳は夫をちょっと見直した。京子は満面の笑みで一郎を迎え、「ありがとう、暑かったやろ。今日は御馳走するから、たんと召し上がれ」

 と言い、天ぷらを揚げた。夫婦二人暮らしになって以降、瞳は揚げ物を作っていなかった。一郎が大いに舌鼓を打ったことは言うまでもない。

 京子は少しずつ、自分らしさを取り戻していった。誰にでも気さくに声を掛けるので、マンション内で言葉を交わす人はたちまち増えた。数か月後には、マンション内でできた友人に頼まれて一階の集会室で手芸を教えるまでになった。

 案ずるまでもなかった。楽し気に日々を過ごす母に、瞳は感心した。大したもんや。

 ある朝、ソファでくつろいでいた京子が、

「へーえ、そうなんか。ほう」

 と、テレビに向かって頷いている。

「お金持ちだけがモメるわけではないのです」

 テレビの声に、洗濯ものを抱えてベランダに出ようとしていた瞳は足を止めた。

「ウチは大したお金もないから遺産相続なんて関係ないわ。そう思っているアナタ、これを見てください」

 司会者が円グラフのパネルを指す。

「遺産分割事件、つまり相続でトラブルが起きる家の遺産金額の内訳を見ると、一千万円以下が全体の三〇パーセントを占めるのです」

「ほう」

 ゲストのタレントが、京子と同じ反応を示した。

「五千万円以下となると、七五パーセントを超すんですね。そうならないためには、どうすればいいんですか?」

 テレビでよく見る弁護士が映し出され、

「遺言書を書いておくと安心です。遺言書には『自筆証書遺言』と『公正証書遺言』があります。公正証書は、公証人が作成して公証人役場に保管されますので、メリットは多いと思います。

 一方、自筆証書は自分一人で作成でき、費用もかかりませんが、全部、手書きで書く必要があります。また、紛失したり、内容が不完全で無効になる場合もあるんです」

 と、説明した。司会者が続ける。

「来年の二〇一九年には民法の改正で、自筆証書も財産目録については通帳のコピーや、パソコンでの作成も可能になるんですよね。二〇二〇年には、法務局の遺言書保管所で保管してくれるようにもなりますね、先生」

「そうですね。このほかにも、相続の制度がいろいろ変わります。まず、内容を知っておくことが大事です」

「そら、そうやな」

「この話題はシリーズでお伝えします」

「毎週、観るわ」

 京子はテレビと会話していた。

 二〇一九年五月、元号が「令和」へ改められた。京子は新しい生活にすっかり慣れ、時には、瞳と心斎橋へ買い物に行き、京子が娘時代に好きだった宝塚歌劇へも行った。

「人生の最後にこんなに楽しい思いをするとは思わなんだ。ほんまにありがとう。机の引き出しに遺言書を入れとうからな。私が死んだら、それを持って家庭裁判所へ行くんやで。開けたらあかんで」

 使いでも頼むように、京子はさらりと言う。

「何言うてんの。まだまだ、長生きせな」

「気安く長生き言わんといて。明日は分からん。あんたも年取ったら分かるわ」

「そんな大事なこと、お兄ちゃんやお姉ちゃんにも、言うといてほしいわ」

 京子は返事をしなかった。

 翌二〇二〇年、新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延し、四月には全国に「緊急事態宣言」が発出された。国民は、「人との接触を極力、削減」することを求められたのである。

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50代の主婦・佐々木瞳は兵庫県のマンションで夫と二人で暮らしていたが、2018年に母の京子と同居することに。コロナ禍中に母が急死すると、空き家になった実家や相続、家族の問題に直面する。実家の整理や売却に向けての準備を進める中、中学の同級生で自称“空き家ウォッチャー”の和江とともに空き家が活用されている事例などに触れていくが――。

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作家
葉山由季(はやま・ゆき)
東京都生まれ。跡見学園短期大学卒業。1977年より兵庫県に在住。93年「ほくろ」で北日本文学賞選奨。同年「二階」で大阪女性文芸賞受賞。95年の阪神・淡路大震災をきっかけに、新聞・雑誌に被災地での体験を投稿するようになり、翌年よりライターとして活動。著書に『大阪のお母さん 浪花千栄子の生涯』(小社刊)。

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