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音楽と哲学の交響 ベートーヴェンとカント ~「ベートーヴェンと『歓喜の歌』展」に寄せて~

現在、創価大学では「ベートーヴェンと『歓喜の歌』展」が開催されています。
本展に深く携わった創価大学文学部教授・伊藤貴雄さんの寄稿を紹介します。

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ベートーヴェンとカント――。片や音楽家、片や哲学者として、ドイツ文化史上に燦然と輝く巨星である。

二人は同時代人だったが、カントのほうが46歳上で、ベートーヴェンを意識することはなかった(カントは1724年、ベートーヴェンは1770年生まれ)。一方、ベートーヴェンはカントの言葉をノートに写すほど傾倒していた。

現在、東京・八王子市の創価大学では、「ベートーヴェンと『歓喜の歌』展」が開催されている(同大の中央教育棟1階にて、12月27日まで)。この展示では、ベートーヴェンとカントとの接点にも光を当てている。ベートーヴェンの直筆書簡のほか、カントの初版本や自筆文書も展示している。

カントの哲学と、ベートーヴェンの音楽との間に、どのような関係があるのか。交響曲第九番の初演200周年であり、カントの生誕300周年に当たる本年、展示を監修した立場からささやかな私見を述べたい。

創価大学で開催中の『ベートーヴェンと「歓喜の歌」』展

啓蒙都市ボン

ベートーヴェンがカントの名を知ったのは若い頃で、10代後半か、遅くとも20代初めだったと推測される。当時、カントは代表作の『純粋理性批判』や『実践理性批判』を発表し、ドイツ全土で話題になっていた。

ベートーヴェンが生まれたボンは先進的な啓蒙都市だった。君主マクシミリアン・フランツが大学を創設し、誰でも講義を聴講できる制度を導入した。1789年、18歳のベートーヴェンはこの制度を活用し、国民劇場の楽団員として働きながら聴講した。それだけでなく、ボンには教授と市民が飲食を共にしながら談論する場があり、そこにベートーヴェンも足繁く通った。幼少期から父親のスパルタ的な音楽教育を受け、家庭の温かさに飢えていた彼にとって、そうした談論の場は心の居場所でもあっただろう。

ボンには多くのすぐれた学者たちが集まっていた。哲学者ファン=デア=シューレンはカント哲学をボンに導入した先駆者だった。神学者デレーザーは宗派の違いを超えた聖書の理解を目指した。文学者シュナイダーはシラー文学や革命思想の普及に努めた。法学者フィッシェニヒはカント哲学を人権思想に応用した。ちなみにフィッシェニヒはベートーヴェンの歌曲をシラーの妻に送るなど、彼の創作の後ろ盾となった。

既存の権威に挑むこれらの教授たちは、ベートーヴェンの人格形成に大きな影響を与えたことだろう。のちに彼がカント哲学をも取り込みながらシラーの「歓喜に寄す」に作曲したのは、このときの学習があったからと言ってよい。

思想というものは、ある人から他の人へと単線的・直接的に影響するものではなく、その間にさまざまな人々が介在しながら伝播する。ベートーヴェンは一人でベートーヴェンになったのではなく、彼を支えた多くの学者や街の人々がいた。

ボンのベートーヴェンの生家

危機を越えて

ベートーヴェンは22歳から拠点をウィーンに移し、ピアニストとして名声を得た。しかし20代後半から難聴に襲われ、音楽家としての未来を脅かされる。その悩みを長く隠していたが、30歳のときついに親友たちに手紙で告白する。

1802年、31歳のベートーヴェンは、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで「遺書」を書いた。しかし、芸術への使命感が彼を生に引き留め、「自分に課せられた仕事を成し遂げるまで、この世を去ることはできない」「不幸な人間は私の生き方を知って、慰めを見出すがよい」(趣意)と記す。そして、ウィーンに戻って音楽活動を再開した。

この姿勢はカントのいう道徳的義務に通じる。カントによれば、不幸のどん底にあっても「生命」を捨てないことや、自分に与えられた才能を磨く「努力」をすることは、道徳的な価値のある行為である。また、ベートーヴェンが難聴を知られることを恐れず活動を再開したことは、カントのいう「正直」の徳に重なる。悩める者たちの希望になろうとする姿勢は、カントのいう「親切」の徳を想起させる。

もちろん、ベートーヴェンがカント哲学を意識して行動したわけではないだろう。絶望を乗り越えようとする姿勢がおのずとカントの主張を体現することになった。その生き方が哲学的観点から注目に値するのである。交響曲第三番「英雄」、第五番(通称「運命」)をはじめ、後世に残る数々の名曲がこの危機のあとに生み出されたことは、誰も否定しようのない驚嘆すべき事実である。

後年のことだが、ベートーヴェンはある手紙で「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と記した(1815年9月、エルデッディ伯爵夫人宛)。ロランの『ベートーヴェンの生涯』によって広く知られるようになった言葉だが、これ以外にも彼は30代から40代にかけて同趣旨の言葉を繰り返し手紙等に記している。

ハイリゲンシュタットに立つベートーヴェン像

カントの宇宙論を読む

ベートーヴェンが本格的にカントの著作に取り組んだのはこのあとである。記録として残されているのは、早いもので1816年、彼が45歳のときの日記である。カントはその12年前、1804年に80歳で世を去っていた。

当時ベートーヴェンは聴力が著しく衰え、創作上でもスランプ期にあったが、そのぶん旺盛な読書記録を残した。日記にはカントの『天界の一般自然史と理論』から6つの文章が抜粋されている。これはカントが30代で書いた天文学の著作である。ベートーヴェンの抜粋は大きく3つのテーマに分けることができる。

まず、第1と第2の抜粋は、宇宙の秩序と美しさを通じて全知の存在を示唆する内容である。星々が規則的に運行し、衝突することなく秩序を保つ姿は、全知の設計者なしには考えられないという。カント自身はのちにこの説を批判して撤回したが、ベートーヴェンは、全知の存在という理念に深く共感したものと推測される。

第3~5の抜粋は、太陽からの距離に応じた生命体の進化に関する議論を含む。カントによれば、太陽から遠い惑星ほど、その住人は光や熱が乏しい環境に適応しようと複雑で文化的な存在になる。地球は太陽系の中間に位置するので、人間も中間的存在であり、向上することも堕落することもできる。ベートーヴェンは、善にも悪にもなりうる人間というメッセージに注目したと思われる。

第6の抜粋は、引力と斥力という力学的概念に焦点を当てている。これは、密度の異なる物質同士が引き合い、反発し合いながら渦巻き状の宇宙構造を形成するという、いわゆる「星雲説」を指す。宇宙全体を統一的に説明する試みである。宇宙を構成するものには人間も含まれる。日記によると、当時ベートーヴェンはある女性(名前は不詳)との関係で悩んでいたようである。

ベートーヴェンはカント宇宙論を通じて、宇宙の秩序と美を支える偉大な存在を感じるとともに、人間の精神的進化の可能性や、善悪の選択という倫理的課題にも思いをめぐらせていた。このあと日記ではシラー戯曲からの引用が続くが、そこにはベートーヴェンがカントに基づいてシラーを解釈していた形跡が見られる。

カント肖像画(ベッカー画)

カントの道徳論に触れる

さらにベートーヴェンは1820年、聴力悪化のため使用していた筆談帳に「われらの内なる道徳法則とわれらの上なる星輝く空。カント!!!」という一節を書きとめた。49歳のときである。この一節はカントの『実践理性批判』に由来するが、ベートーヴェンは直接原典を読んだのではなく、天文学者リットロウの論文を通じて知った。

リットロウはウィーン大学の天文台長で、論文ではカント宇宙論を天文学的視点から解釈していた。そこではカントの文章をこう要約している。「人間を自分以上のものに高めさせ、永遠に間断なく高まりつづける感嘆へと導く二つのものがある。われらの内なる道徳法則とわれらの上なる星輝く空である」。

じつはリットロウはカントの原典にはない比較級(永遠に間断なく高まりつづける)や複数形(われらの)を使って、自由に要約している。そのおかげでカント宇宙論のダイナミックな特徴が強調されているともいえる。先述のようにベートーヴェンは『天界の一般自然史と理論』を通してカントの星雲説を熟知していた。その知識がリットロウを通じていまやカントの道徳論とも接続することになった。

また、ベートーヴェンはこれと同じ時期に、「星空の下での夕べの歌」という歌曲を作っている。歌詞はカント主義者だった詩人レーベンによるもので、その内容は『実践理性批判』の主張をうかがわせる。すなわち、目先の利益に惑わされず道徳法則に従うべし(定言命法)とか、正しい生き方には神の報い(最高善)を希望してよいといったカント学説の反映が見られるのである。

ベートーヴェンが『実践理性批判』の原典にまで手を伸ばしたかは明らかでないが、仮にそうでなかったとしても、リットロウやレーベンを通じて間接的に『実践理性批判』の主張に触れており、それが作曲活動とも関連していたことがわかる。

カントの言葉を記したベートーヴェンの会話帳〈出典:Digitalisierte Sammlungen der Staatsbibliothek zu Berlin

「第九」の世界

こうしてみると、ベートーヴェンが受容したカントの学説は少なくとも五つ挙げることができる。①宇宙の秩序と美とは全知の存在を示唆する。②地球の人間は中間的存在であり、善にも悪にも向かいうる。③宇宙は引力と斥力との緊張関係からできている。④人間は誘惑に屈することなく無限の道徳的向上を目ざすべきである。⑤道徳法則に従った生き方には神が報いてくれることを希望してよい。

ベートーヴェンがこうしたカント理解を手にしたのは、交響曲第九番の作曲の時期と重なっている。その作曲が本格化するのは1820年代初め、ベートーヴェンが50代を迎えた頃である。そしてこの畢生の大作にも、私たちは上記のカント理解と同様のメッセージを見出すことができる。

第四楽章で合唱が始まる直前のバリトンの歌詞「おお友たちよ、このような調べではない。もっと心地よい、もっと歓喜に満ちた調べを歌おうではないか」は、すべてベートーヴェンの創作である。この歌詞はリットロウが用いた比較級(永遠に間断なく高まりつづける)や複数形(われらの)を想起させる。

合唱ではシラーの「歓喜に寄す」は原詩の一部(4割弱)しか使用されず、しかもその配列や語句にはベートーヴェンによる改変が加えられている。興味深いことにこのアレンジは彼のカント理解の内容と大きく重なり合う。歌詞の一部を引用しよう。

「歓喜よ、神々の美しい火花よ、楽園の娘よ……」

「歓呼の声を合わせよう! 一つでも地上に自分のものといえる魂をもつ者は!」

「善人であれ悪人であれ、みなそのバラの残香をたどりゆく……」

「主のもろもろの太陽が飛びめぐるように、……往け、兄弟よ、汝らの軌道を」

「ひざまずくのか、幾百万の人々よ。……きらめく星空のかなたに創造主を探せ」
(田中亮平・伊藤貴雄 訳)

宇宙を俯瞰する視点から人間の苦悩と歓喜が相対化される。善と悪も相対化される。星々をモデルに普遍的な軌道を歩もうとする人々が英雄として讃えられる。最終的には星空のかなたの創造主のもとであらゆる存在が祝福される。「歓喜」や「星空」といった象徴的な言葉が何度も繰り返され、円環的に無限上昇する感覚が生み出される。

交響曲第九番はオーケストラと合唱とを融合させた音楽芸術だが、同時に、シラー文学とカント星雲説とを結び合わせた言語芸術としての側面も持っているといえる。

シラー肖像画(キューゲルゲン画)

突き抜けるとは

交響曲第九番はベートーヴェンの三十年余りの学習と経験から生まれた大作である。その多様なメッセージの解読は、本稿で到底尽くせるものではない。ここでは、シラー由来の「歓喜」という言葉が、「苦悩」との関係で再解釈され宇宙論的スケールで音楽化される過程で、カント哲学が重要な役割を果たしたことを指摘するにとどめる。

最後に一言。カントは、引力と斥力という対立する力の緊張関係が宇宙を動かしていると説いた。この思想は、ベートーヴェンの「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」という言葉にも解釈のヒントを与えてくれる。この「突き抜けて」はドイツ語で「durch」といい、英語のthroughに当たり、「そこを通って」という意味である。

つまり、ベートーヴェンがいう「突き抜けて」とは、苦悩が消えて無くなるということではない。生きている限り苦悩はある。しかしどんな苦悩もより深い歓喜が鍛え出される不可欠の道程と捉えて前に進むこと。それこそが真に「突き抜ける」という意味であること。交響曲第九番にはそうしたベートーヴェンの哲学が込められていると考える。

 

「ベートーヴェンと『歓喜の歌』展」
詳細はコチラ 

 

追記:本稿のテーマをより深めた書籍を筆者は講談社選書メチエで2025年5月に刊行予定である。

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創価大学文学部教授
伊藤貴雄(いとう・たかお)
1973年、熊本県生まれ。創価大学大学院文学研究科にて博士学位取得(人文学)。ドイツ・マインツ大学ショーペンハウアー研究所客員研究員などを経て、現職。東洋哲学研究所研究員。哲学・思想史専攻。主な著書に『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学』(晃洋書房)、『ヒューマニティーズの復興をめざして』(勁草書房、共著)、『シュリーマンと八王子──「シルクのまち」に魅せられて』(第三文明社)、共訳に『ゲーテ゠シラー往復書簡集』(潮出版社)、『ヘルマン・ヘッセ全集4 車輪の下・物語集Ⅱ』(臨川書店)など。

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