【特別インタビュー】舞劇「朱鷺」が日本と中国、そしてアジアの未来を拓いていく
2024/12/06これまで多くの人々を魅了してきた舞劇「朱鷺」が2025年も開催。
松山バレエ団の団長である森下洋子さんにお話を伺いました。
(月刊『潮』2025年1月号より転載)
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広島で家族が被爆 祖母の魂の輝き
私は広島市生まれの被爆二世です。私が生まれる3年前、母や祖母は広島市内で被爆しました。祖母は左半身に大火傷を負い、亡くなったと思われ、お経をあげられるほど危険な状態でしたが、生きていることができました。大火傷の跡を隠すこともなく、祖母は幼い私をよく銭湯に連れて行ってくれたものです。
後年、祖母は火傷でくっついてしまった親指以外の指を元に戻す手術を受けたものの、被爆前のように手指は自由に動きませんでした。それでも意に介することなく、「親指が使えれば洗濯ができる」と明るく笑い、家事を気丈にこなす祖母の姿は忘れられません。
広島と長崎への原爆投下は、人類にとって決してあってはならないことです。
大きな苦しみを負ったはずの祖母の口から愚痴を聞いたことは一度もありません。どんなことがあろうが前を向き、今生きていることに感謝しながら希望を持って生き抜いていく。前向きな祖母の姿は、私に大きな影響を与えてくれました。
バレエとは人間の心の輝き、魂の美しさを描く芸術です。バレエを通じて多くの人々に温かい愛、夢、希望をお届けし、少しでも平和の力になりたいとの思いが今強くあります。そこには、祖母が生き方で示してくれた人間の魂の輝きを、幼い頃から感じさせてくれたことも大きく影響していると思います。
このたび秋の叙勲でありがたくも旭日重光章をいただき、その思いをさらに強くしております。
松山バレエ団と中国の民話「白毛女」
私は3歳のときからバレエを始めました。幼少期の私はとても体が弱く、医師から「何でもいいから運動をしてください」と勧められたのです。近所のバレエ教室に通い始めたところ、すぐさまバレエの虜になりました。夢中になって練習に取り組み、小学生時代には広島から東京へ出てバレエ学校で学び始めます。
人生の転機が訪れたのは1970年のことです。松山バレエ団創設者・松山樹子(まつやまみきこ)さんが踊る「白毛女(はくもうじょ)」を文京公会堂(東京都文京区)で鑑賞し、鳥肌が立つほど衝撃を受けました。どうしても松山先生の指導を受けたいと思い、私は71年春に松山バレエ団に入団します。
清水正夫さんと松山樹子さんによって松山バレエ団が創設されたのは、私が生まれた1948年のことです。二人は、中国の民話「白毛女」を映画化した作品に出会って感動します。
「自国と世界を解放するのだ」という中国の皆さまの強い思いに共鳴して、「この作品をバレエ化し、長い歴史の中でたくさんの教えをいただいてきた中国の人たちへの、日本人による心からの贈り物として届けよう」と心に決めました。そして1955年、世界で初めて「白毛女」をバレエ化します。1958年には周恩来総理のお招きで松山バレエ団第1回訪中公演「白毛女」が行われました。
日中国交正常化が実現したのは1972年9月ですから、58年といえばまだ日本と中国との間に国交が結ばれていない時代でしたので、厳しい世論もありました。
そんな中、当日の公演には周恩来総理が駆けつけてくださり、「白毛女」をご覧になってとてもお喜びくださったそうです。以来「白毛女」を通じて、松山バレエ団は中国の皆さまとの友情を育んできました。
新「白鳥の湖」2021年公演(松山バレエ団提供)
周恩来総理との心温まる出会い
松山バレエ団入団直後の1971年、私は第4回訪中公演に参加して初めて「白毛女」を踊りました。
主人公の喜児(シーアル)は、絶望や悲しみを乗り越えて毅然と生き抜く女性です。借金の担保として地主の奴隷にされかけた喜児は、雪山の奥深くまで逃げて生き抜きます。横暴な人間たちに苦しめられる農民たちと手を携え、喜児は新たな時代を切り拓こうと夢見ました。
「白毛女」は思想・信条やイデオロギーの違いを乗り越えて万人の胸を打つ、普遍的で素晴らしい物語です。
私が初めて中国公演に臨んだ71年の中国は、文化大革命の真っ最中でした。その中でも、周恩来総理は「必ず観に行くから」と約束し、「白毛女」公演に駆けつけてくださいました。
周恩来総理に初めてご挨拶させていただいたときは、緊張でガチガチに硬くなりました。握手していただいたときの周総理の手の感触は、昨日のことのようによく覚えております。それほど大きな手ではありませんでしたが、ものすごく柔らかい感触で、周総理の深い優しさと柔軟さが伝わってくる思いでした。このとき周総理からプレゼントしていただいた「白毛女」の衣装は、終生の宝物です。
72年に中国公演が実現したときには、私たちが泊まっていたホテル(北京飯店)で周恩来総理と偶然お会いしたことがあります。夫(清水哲太郎)の姿を見つけた周総理は「哲ちゃん」と気さくに声をかけてくださいました。
私はこれまで、周総理以上にまわりの人々に細かく心を尽くす方を見たことがありません。凜としたご姿勢と心温かく優しいお人柄の素晴らしい名宰相でいらっしゃいました。
周総理は文化と芸術を心から愛していらっしゃいました。だからこそ日中国交正常化のはるか前から松山バレエ団と交友を結び、何度も何度も「白毛女」中国公演のために尽力されてきたのです。
文化・芸術の使命は、人々に希望と夢とロマンの滋養を提供し、世界を平和へと一歩ずつ近づけることです。たとえ国と国との間に緊張や摩擦があったとしても、文化と芸術には人々の心を結びつける力があります。私も周恩来総理の深い信念を学び、文化・芸術の力を信じ、これまで合計17回にわたって中国での公演に参加してきました。
「くるみ割り人形」2022年公演(松山バレエ団提供)
魂を揺さぶる舞劇「朱鷺」の感動
かつて中国や朝鮮半島、日本で生息していたトキは、20世紀に入ってから個体数が激減して絶滅危惧種になってしまいます。日本と中国は生き残ったトキの保護に国ぐるみで取り組み、1999年には中国から日本に雌雄つがいのトキが贈呈されました。
2014年、日中友好の象徴であるトキをモチーフとした日中共同の舞劇「朱鷺」の初公演が日本で実現します。民音(民主音楽協会)主催の上海歌舞団の公演を、私も東京で拝見しました。
この作品では、古代から現代にいたる悠かな時の流れの中で深まる愛と絆が、とても繊細に描かれます。上海歌舞団のアーティストの皆さまの鍛え抜かれた身体、そして研ぎ澄まされた美意識による一糸乱れぬ群舞に深く胸を打たれました。
躍動感あふれるダンスには命を慈しむ思いが表現され、平和で豊かな時代への祈りが込められています。これから「朱鷺」が上演されるたび、世界中の人々の魂を深く揺さぶることでしょう。
「朱鷺」は人間精神の美しい調和を讃えながらも、同時に人の弱さや愚かさも素直に示しています。また大自然の厳しくも美しい秩序を伝えつつ、私たち人間が品格を鍛え、磨くことの大切さを描いているように感じました。
トキたちが力あらん限り情熱を出し尽くし、未来の希望の塊をつかもうと歯を食いしばり、爪先立ちして手を伸ばす。その尊い姿を描く「朱鷺」の上演は、日本と中国、そしてアジアの人たちの心をつなぎ、より美しく平和な未来を拓く力となるでしょう。
「朱鷺」公演①©MIN-ON
終戦80年の節目 生涯現役の芸術
1974年にブルガリアのヴァルナ国際バレエコンクールで金賞を受賞して以来、世界中の舞台で踊らせていただくようになりました。私が広島出身だと言うと、海外の人たちは一様に驚きます。原爆投下という悲劇が起きた広島で自分が生まれたことの意味は、年を重ねるごとに強くなってきました。
大変残念なことに、今も世界中で戦争や紛争が続いています。そんな中、バレエを通じて温かい愛と夢、希望、ロマンをお届けし、少しでも平和への力になれれば望外の喜びです。
2025年には終戦80年の節目を迎えます。今もなお、被爆の影響によって苦しんでいる方がいらっしゃることを私たちは忘れてはなりません。文化・芸術の力は、悲惨な戦争によって苦しむ人々への励ましにきっとなるはずです。
私の背中には白い羽は生えておりません。けれども、バレエを通じて平和と美の使者になれるように努めていきたい。そんな願いを胸に抱きながら、毎日新鮮に稽古をしていけたらと思います。
「朱鷺」公演②©MIN-ON
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松山バレエ団理事長・団長、プリマバレリーナ
森下洋子(もりした・ようこ)
1948年広島市生まれ。3歳よりバレエを始める。12歳で単身上京。1971年、松山バレエ団のメンバーとなる。1974年ヴァルナ国際バレエコンクールにて金賞受賞。1997年、女性最年少の文化功労者として顕彰される 。2001年松山バレエ団の団長に就任。日本芸術院会員。2024年旭日重光章受章。