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僕の中で先生はこれまで以上に燦然と輝いています

2025年、芸能生活63周年を迎えるあおい輝彦さん。

トップアイドルから俳優に転じ、数々の名演で観客を魅了したが、俳優として大きな転機となったのが、若き山本伸一を全魂込めて演じた映画『続・人間革命』だった。

そこで結ばれた池田大作先生との絆と忘れられない思い出を伺った。
(月刊『パンプキン』2024年12月号より転載。取材・文=増沢京子 撮影=山本一維)

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「君の青春をこの映画にぶつけてください」

グレーヘアに映える細身の黒のスーツ。きびきびした動作、快活な笑顔で颯爽と現れたあおい輝彦さん。深い余韻を残す声が印象的だ。

『続・人間革命』で19歳の山本伸一を演じることになったとき、あおいさんは27歳だった。

それまで何度か会ったことのある舛田利雄監督から、「とにかくオーディションに来てほしい」と誘われた。

「でもそのとき僕は東京と関西で舞台に入っていて、スケジュール的に出演は不可能な状態だったんです」とあおいさんは振り返る。

当時、映画産業は斜陽ぎみで、テレビが主流になっていた。トップアイドルでいわゆる“テレビっ子“だったあおいさんは「冬の旅」や「赤ひげ」など名ドラマに出演し、テレビっ子としてのプライドがあった。

その上、当時はあまり質のよい映画がなく、「どうせやるなら、映画でしか表現できないようなスケールの大きいものをやりたい」と考えていたが、台本を読み、感動を覚えた。見事、オーディションを通過したあおいさんに、舛田監督は「君が出ない場面から先に撮って、待っているから」と背水の陣で撮影に臨んでくれた。あおいさんも「橋本忍さんの脚本、日本映画界を代表する素晴らしいスタッフ陣、映画でしか表現できない壮大なスケールにワクワクしました!」。

ところがいざクランクイン近くなって、「ちょっと待てよ、今までいろんな偉人を演じてきたけど、現存される偉人を演じるなんて恐れ多い」と悩んでしまう。

そんなとき、監督や主要キャストと信濃町の聖教新聞社で初めて池田先生に会うことになった。包み込むような包容力に、心が軽くなった。「あんなに偉大な方なのに、人を緊張させないんです。僕の不安を察してくださったのか、"あおいさん、なにも僕を演じようとしなくていいんだよ。君の青春をこの映画にぶつけてください。それが山本伸一を演じることになるんです"と言われて、とにかくほっとしました。よし、じゃあ僕の青春をぶつけるつもりでやらせていただこうと勇気がわきました」

先生は「陰の苦労」がわかる方

今でも忘れられないシーンがある。座談会で戸田城聖と出会い創価学会に入会したものの、まだ仏法を信じきれず揺れている伸一は、夏期講習会に参加して戸田城聖の十界論講義を聞く。そこで戸田が「仏とは生命なのだ」と獄中での悟達を語るところで、伸一はハッと覚醒し、会場を出た後にひとり疾走する。

「僕は満天の星の下をひた走るんですが、監督が“今撮っているのは日本一のカメラマンだ。だからどこで止まろうが、歩き出そうが全部撮るから、気にせずに君がやりたいようにやれ“と言われ、こんな撮影があるんだと震えました」

ただただ頭の中に戸田の言葉が鳴り響き、延々と星空の下を走り、松の木のところで止まると、目の前に夜明けの富士山が見える。

じつは"走るシーン"と"富士山のシーン"は車で1時間ほど距離が離れたところで撮影された。普通なら別々の日に撮るところを、大事なシーンなので台本どおりに“順撮り“された。

「まさに魂の奥から絞り出すような演技で、カットがかかった瞬間、僕は過呼吸になって倒れてしまいました。映画の鍵になるシーンですが、リハーサルなし、一発OKでした」

あおいさんの心に深く刻まれた池田先生との思い出がある。クランクイン後、山本伸一が住んでいた「青葉荘」のセットを先生が訪問した。先生はセットの一角にある本棚にササッと向かい「懐かしいな」と動かなくなった。「これらの本を今よく集められましたね。さぞ大変だったでしょう!」とわざわざ小道具さんを呼んで感慨深げに声をかけた。

それは小道具のスタッフが雑誌「第三文明」に連載された会長の「読書ノート」などをもとに、3か月も各地を駆けずり回って集めたものだった。「本当に陰の苦労がわかる方なんですね。小道具さんは感激して泣いていました。その後、セットから出ていくときにフッと僕の肩を抱いて“私の母があおいさんのスチール写真を見て、あなたの若いころの面影があると言っていたよ“とおっしゃってくださって。

先生を育てたお母さまがそうおっしゃっていたということは、これほどのお墨付きはありません。僕は自信をもって伸一を演じられる。暗に“このままでいいんだよ“と言ってくださったんですね」

50年近く続いた心と心の交流

撮影終了後も、あおいさんと池田先生の心の交流は続いた。コンサートの際はいつも先生と奥様が連名で花を送ってくださった。「僕が先生のお誕生日にお花を贈ると、その花をお宅に飾った写真を撮って必ず送ってくださるんです。最後にお会いしたのが、先生の80歳のお誕生日のときで、お花を渡して“先生、本当にお久しぶりです。山本伸一です“と言ったら、先生はびっくりしてちょっと笑われました。その日の夜です。〝僕とあおいさんは一心同体です。家族のようなものです〞というメッセージが届いて。胸がいっぱいになりました」

あおいさんは2009年から、民音コンサートで山本伸一作詞の「滝の詩」を披露している。「一幕の幕が下りるときにアカペラで歌い始めます。いつも2階席の一番前で先生が聞いてくださっているという気持ちで歌っているんです」と微笑む。

昨年、先生が逝去され、寂しさや悲しみは募るが、「先生が残したあまりにも偉大な業績やお言葉、そういうことは決して色あせない。僕の中にはこれまで同様、いやこれまで以上に先生が燦然と輝いています」というあおいさん。「先生は“戦争ほど悲惨なものはない“ということを実際に経験され、そこから平和を希求され、自分が道半ばで倒れようとも平和に向かって意志を継いでいきなさいと教えられていたと思います。先生の思いをつなげていかなければと思っています」

じつはあおいさんは先生に「この星に くもらせがたき ものふたつ 我師(わがし)の心 不二(ふじ)の山」という詩を贈っている。「映画の中で、四面楚歌の戸田先生に伸一が“古の 奇しき縁に 仕へしを 人は変れど われは変らじ“と一首を贈るシーンがありますよね。今でも胸が熱くなるシーンで、自然に先生への詩が出てきたんです。

富士山は大好きでよく行くんですが、富士山を特集する番組に出たことがあって、その番組を見て先生がすぐ電話をくださったことがありました。いつも見守ってくださっていたんですね。富士山は世界中の人に声高に平和を叫ぶのではなく、微笑みをもって静かにそこに存在するだけでみんなが平和で幸せな気持ちになるような穏やかさをもっています。だから先生とダブって見えるんです」

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俳優
あおい輝彦(あおい・てるひこ)
1948年、東京都生まれ。62年"ジャニーズ"の創立メンバーとしてデビュー。解散後、俳優として映画・テレビ・舞台で幅広く活躍。映画『二百三高地』『犬神家の一族』、テレビ「冬の旅」「赤ひげ」、名作アニメ「あしたのジョー」の矢吹丈の声優、88年から12年間続けた「水戸黄門」の“助さん“役でも好評を博す。

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