• 社会

核保有にまつわる理想と現実の「不快な隙間」をどう埋めるか

日本は核保有とどう向き合うべきなのか。一般社団法人かたわら代表理事・核廃絶ネゴシエーターの高橋悠太氏が語る日本のいま。

(月刊『潮』2026年4月号より一部転載)

官邸幹部の発言が突きつけたもの

昨年12月、耳を疑うような報道が飛び込んできました。首相官邸の安全保障担当幹部が、オフレコの場であったとはいえ、メディア関係者に「日本も核兵器を保有すべきである」という趣旨の発言をしたというものです。


私はこれまで、広島や長崎の被爆者の方々、100人以上のお話を伺ってきました。「あんな思いを他の誰にもさせてはならない」。その思いで、被爆者の方々は80年間、語り続けてこられました。


その歩みを土足で踏みにじるような発言が、戦争被爆国である日本の政府中枢から漏れ出たことに、私は言いようのない憤りと、深い絶望感を覚えました。


首相官邸幹部の発言の最大の問題は、その「軽率さ」と「無責任さ」にあります。国際社会において、日本の政府関係者が「核保有」に言及することは、単なる国内の議論を超えた破壊力を持ちます。


世界には今、核を持ちたいと願う国、あるいは核開発の疑惑を持たれている国が複数存在します。


そうした国々に対して、日本が核保有を肯定することは、「核の被害を世界で最も深く知る日本でさえ、安全保障のために核が必要だと言っている。ならば、自分たちが持つのも当然だ」という一種の「免罪符」を与えてしまうことになりかねません。


これは、法の支配を訴えてきた日本が、戦後の国際秩序を支えてきたNPT(核兵器不拡散条約)体制を形骸化させる行為です。


グテーレス国連事務総長は、現代を「核の剣が頭上に吊されている時代」と表現しました。また、毎年発表される「世界終末時計」の残り時間が短縮され続けている理由として、核軍拡の進展とともに、「指導者たちが責任ある言葉を使っていないこと」を明確に挙げています。


これまで、この「無責任な言葉」の主体は主に米国やロシア、あるいは北朝鮮といった国々であると想定されてきました。しかし、今回の発言によって、日本もその「無責任な側」に片足を突っ込んでしまった。被爆国日本が、冷戦後最悪の核リスクを緩和するのではなく、「後押し」してしまったという事実は、極めて重いものです。


安易な発言が、国際社会の信頼関係を毀損し、衝突の芽を育ててしまう。そのことに想像力を働かせていくべきでしょう。

核保有にまつわる理想と現実の間で

一方で、こうした核保有を求める声が世論の一部で高まっていることも事実です。その背景には、北東アジアの緊張、特に北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の軍拡に対する不安があるのかもしれません。


ただ、議論自体が「核兵器廃絶(理想的な状態)」か「核抑止(現実の状況)」か、という二項対立に陥っています。私はこの二つは決して切り離された白と黒のものではなく、グラデーションのある地続きのものだと考えています。


例えば、今すぐ日本の安全保障から核の傘を取り払うために、日米同盟を破棄すべきだと言っても、それはすぐに実行できるものではないでしょう。


一方で、「核があれば安心だ」というのも、同様に非現実的な妄信です。核兵器は一度でも使われれば、使った側も使われた側も、そして周囲の国々も、壊滅的な非人道的結末を免れません。この「非人道性」という現実は、どのような安全保障論をもってしても相対化できない「絶対的なファクト(事実)」です。


また「本当に核兵器を使う意思がある」ことを示すため、日本のような核兵器保有国の同盟国に限定的な核使用をする可能性が高いことも報告されています。(長崎大学核兵器廃絶研究センター他、2023年)


私たちが目指すべきは、核抑止に依存しきった今の危うい現状から、一歩ずつ、しかし着実にその依存度を下げていく「移行のプロセス」です。政府が設置した「賢人会議」の提言などでも触れられているように、核兵器以外の手段で安全を担保し、信頼を醸成していく道は必ずあります。それを「理想論だ」と一蹴するのではなく、「移行期間」を設計し、管理していくことこそが、本来の「リアリズム」に基づいた政治の役割であるはずです。


現在の日本の議論に欠けているのは、この「プロセスへの視点」です。私たちが向き合うべきは、理想と現実の間の「不快な隙間」をどう埋めていくかという、粘り強い議論なのです。

  • 国連が主催した第1回「ピース・サークル」の参加者たち。左端が高橋悠太氏(写真は著者提供)

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