• 文芸

鱚のフライと白ビール(井上荒野)

  • ためし読み

スーパーマーケットの前で、ミニスカートの娘がふたり、「いかがですかあ」「お試しくださあい」と声を張り上げている。新発売のビールのようだ。遥子も学生の頃、ああいうバイトをしたことがあった。やっぱりミニスカートをはかされて、今なら、ものを売るのにどうして売り子が足を出さなきゃならないんだと憤るところだけれど、あの頃は、よく褒められる長い足を見せびらかせるのが嬉しかった。そういうばかな娘だったから、前夫のような男に引っかかったのかもしれない。とはいえ、愚かさは若さ、と言うこともできるだろう。フェミニズムなんて外国のおばさん・・・・たちの暇潰しだと思っていた。

遥子はふと思いついて、娘たちが売っているビールを買った。三百五十mlの缶ビールを一ダース。手土産まったくなしというのも、何かを言い立ててしまいそうだったから。新発売のビールくらいがちょうどいい。「あなた好みの女の子が一生懸命売っていたから」とでも言い添えればいい。


バスを降りてから団地内で少し迷って、十七号棟の四〇三号室の呼び鈴を押したときには、六時を五分過ぎていた。ドタドタと駆ける足音が聞こえ、ドアが開いて、出迎えた拓郎は満面の笑みだった。


「よかったあ。来ないかと思った」


「ごめんなさい。出がけにいろいろあって……」


茜からの電話のことを言うべきなのかどうか、迷いながらそう言うと、拓郎は神妙な顔つきになった。


「知ってるよ。茜から僕にも電話があった。本当にごめん。姑息でごめん。でも、無体なことは絶対にしないから。そういうつもりじゃなかったんだ、ただふたりきりで過ごしたかっただけなんだ。本当だよ。なんなら窓もドアも全開でいい」


必死の訴えを、どこまで信じていいものか。でも、自分の心が信じようとしていることが遥子にはわかった。


「これ、お土産。新発売のビール」


意地のようなものもまだあって、ぶっきらぼうに手渡すと、「おっ、白ビールだね。これ飲んでみたかったんだ」と拓郎はまた破顔した。

「じゃあきすは、天ぷらじゃなくてフライだな」

「えっ、料理の予定まで変えなくたって」


「たいした変更じゃないから、大丈夫」


手伝いを固辞されて、遥子はキッチンと一続きの部屋のソファに座らされた。和室にカーペットを敷いて洋室ふうに設えているようだ。食前酒にどうぞと、小さなグラスに入った梅酒が置かれたテーブルは古い木製のトランクで、ソファはこれまた年代がありそうなカンタキルトで覆われている。壁一面の書棚に詰まっている本のどのくらいが、彼が手がけた本なのだろう。書棚がない壁には抽象画のリトグラフの額がふたつ。手作りと思しき背の低い食器棚越しに、キッチンで立ち働く拓郎の背中が見える。ディレッタントとは彼のような男のことを言うのだろう。


拓郎は遥子より三つ上の六十一歳だった。ディレッタントの六十一年、と遥子は考えた。手放したものと残したもの。そこに、五十八年ぶんのそういうものを持つ女が座っている。


「さあできた。こちらへどうぞー」


呼ばれて、遥子はダイニングへ赴いた。丸い木製のテーブルに、インドのブロックプリントの座布団をのせた木製の椅子が二脚。そのひとつに座り、拓郎と向かい合う。テーブルの上には大皿に山盛りの鱚のフライとグリーンサラダ、チーズやパテを添えたクラッカー、それに缶ビールがセットされている。


「来てくれて、本当にありがとう。乾杯」


缶を打ち合わせ、遥子はぐびりとビールを飲んだ。「白ビール」とさっき拓郎は言っていた。遥子は食べることにはたぶん彼と同じくらい熱心だが、酒類には詳しくない。新発売の白ビールは、軽い口当たりで、いい香りで、すいすい飲めそうだった。


「ほら、食べて。食べて。うまいぞう」


急かされながら、鱚のフライを口に運ぶ。揚げたてで、衣のサクッとした歯ごたえのあと、鱚の身がほろっとほどけた。おいしい。欲も得もなく感嘆の声が洩れた。


「うまい! 最高! 合うと思ったんだよね、白ビールに」


拓郎ははしゃいだ声を出し、白ビールをまたぐいと呷った。心底嬉しそうなその顔を見ていたら、遥子の心の強張りは緩んでいくようだった。


今度はフライにちょっとレモンを搾って、また食べて、また飲んだ。たしかに合う。白ビールも鱚も、ふわふわしていて。いや、ふわふわしているのは私の心だろうか。


「笑うところじゃないんだけどなあ」


拓郎が言った。今彼は、釣果の自慢をしているのだ。ちゃんと聞いていたけれど、それとはべつに、遥子は笑ってしまったのだった。つまらない男に引っかかって、離婚して、結社に入って、拓郎に出会って、なめるんじゃないわよと腹を立てて、オレオレ詐欺を初体験して、ミニスカートの娘たちからビールを買って、それで今私はここにいて、拓郎が揚げた熱々の鱚のフライと、それによく合う白ビールを飲んでいる。そう思えたら笑えてきたのだ。


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