井上荒野さんによる極上の掌編小説集『1+1』(ワン プラス ワン)が4月6日に発売開始。料理と飲み物、そして味わう2人――。2つの「ペアリング」をモチーフにした24編が収録されています。本書の刊行を記念して、全3編を潮プラスに特別公開します。
出汁巻き玉子と、おりがらみの酒
「ハムサラダ、鶏の唐揚げ、豚の味噌焼き、あ、それから肉じゃがも」 注文する声が聞こえて、圭輔は思わず振り返った。見事に肉ばっかりだな、と思ったのだ。 ここは笹塚の小体な料理屋だ。注文したのはカウンター席にいる若い男だった。隣に同じくらいの娘がいる。二十六、七といったところか。
「イカゲソ焼きは?」
娘がそう言ったから、うんうん、そうそう、と圭輔は心中で頷いた。この店に来たら、そういうものを頼まなくちゃ。
「腹にたまらないじゃん、イカゲソなんて」
「えー、そう? じゃあ、出汁巻き玉子とか」
「玉子焼きとか、わざわざ金出して食いたくねーし」
おいおい。彼女が食べたいものも注文してやれよ。ふたりで飲みに来てるんだろう。圭輔は苦い気持ちでそう思う。なぜ苦いのかといえば、自分も以前、あの男みたいな感じだったからだ。あそこまで傍若無人だったとは思いたくないが、味よりも腹一杯になることが重要だと思っていて、食うことにはそれ以上の興味もなくて、この種の店や、この種の店をありがたがる者たちをばかにしていた。
そういうところががまんできなくて、妻の琴美は俺から離れていったのだ。
「鹿島さん、次、何飲みます?」
「おっ、そうだな……」
圭輔はひとりで来ているわけではなかった。部下四人──三十代四十代の、男性ふたりと女性ふたり──と一緒だ。流通メーカーのシステム開発部での月一回の飲み会は、前任の課長の頃からの慣例で、圭輔も習慣的に部下たちに呼びかけているのだが、迷惑がられているんじゃないか、みんな嫌々付き合ってるんじゃないかという気持ちが拭えずにいる。前課長は豪放磊落な、魅力的な男で、圭輔も含めて部下たちから慕われていた。ひきかえ自分はただの冴えない小太りのおっさんだ。
「利き酒セットっていうのがあるんだよ。グラスがみっつ……」
「おっ、いいっすね、それ」
説明しようとしていたのに遮られてしまった。そして、その部下──四十代前半の、渋谷という男──は、利き酒セットを五人ぶん頼んだ。いや、全員が俺に揃えなくても、それぞれ好きなものを飲めばいいじゃないか。圭輔はそう思ったが、それを感じ悪くなく伝える自信がない。
女将が、利き酒セットを運んできた。
「こちらから、石川、新潟、山梨のお酒になります……」
利き酒セットは、三種の酒がみっつのグラスに入っている。合わせて一合くらいだ。女将はそれぞれの酒の説明をしたが、熱心に聞いているのは自分だけのようだと圭輔は思った。今の若いやつらには、酒の蘊蓄は退屈なのかもしれない。
「ひとりで全部飲めるかなあ」
女将が立ち去ると、女性の部下──三十代前半の、比留間という女性──から、やっぱりそんな声が上がった。彼女は酒がそんなに強くないのだ。たぶん好きでもないのだろう。
ゆっくり飲めばいいよ。圭輔はそう言おうと思ったが、いやらしく思われそうでやっぱり言えなかった。代わりに黙って、日本酒をちびちび飲んだ。こういう態度も、部下たちをげんなりさせてるんだろうなあと思いながら。
利き酒の三種はどれも旨かった。この店は料理も、酒のラインナップもセンスがいい。皮肉なもので、琴美と別れて独り暮らしになってから、圭輔の食への興味はようやく開花したのだった。否応なく自炊するようになったら、レシピを見てプラモデルのように作ればそこそこ旨いものが出来上がることがわかって、料理が楽しくなった。この料理をプロが作ったらどんなものなんだろうと、店にも足を運ぶようになり、そのうち、旨いものとはどういうものなのかが、自分なりにわかるようになってきた。ありていに言えば、離婚後、会社にいるとき以外の時間をもてあましていた、というのがいちばんの理由かもしれないが。
離婚してから二十一年が経ち、圭輔は今、定年間近の五十八歳だった。前課長の定例飲み会では、店選びは若手が任されていた──たいていは個室がある和洋のチェーン店だった──が、圭輔が課長になってからは、原則的に自分で店を決めていた。
今日もそうだ。旨いものを出す店を見つけると、会社の若いやつらにもこれを食わせてやりたいなあ、と思うからそうするのだが、はたして自分が旨いと思うものを彼らからも旨いと感じるのか、それも覚束なかった。今、こちらの卓上には、刺身の盛り合わせ、イカゲソ焼き、茄子と南瓜の炊き合わせ、牛肉のたたきなどが並んでいる。
琴美は、こういう店に連れてきたら喜んだろうな。圭輔は思う。目を輝かせて壁の品書きを眺め、利き酒を一口ずつ飲んで嬉しそうに感想を言っただろう。一緒にいる頃、どうして俺は彼女に付き合ってやれなかったんだろう。たまに一緒に外食しても、俺はいつも仏頂面だった。今の俺なら、ふたりで楽しく過ごせただろうに。家での食事だってそうだ。琴美は料理が上手かったんだ。当時の俺にもそれはわかっていたんだ。旨いな、おいしいな、どうやって作ったんだ。そんなことを言ってやればよかった。
「この真ん中のやつ、イケますね」
渋谷が話しかけてくる。真ん中のグラスは新潟の「たかちよ」だ。おりがらみ(おりを残したままの、薄いにごり)の酒で、「グレープフルーツの味なんですよ」と女将が言っていた通り、爽やかな香りと酸味があり、でも甘くはなく、イケる、と圭輔も思っていた。
「ここに置いてる酒は、どれも旨いんだよ」
それなのに、そんな答えになった。適切な答えを考え過ぎてしまったせいだ。間違いではないが、感じが悪く聞こえたのではないか。
案の定、渋谷は黙ってしまい、とりなすようにもうひとりの部下──三十代はじめの寺谷という男──が、「渋谷さんって、日本酒好きですよね」と言った。
「日本酒っていうか、酒ならなんでも好きだよ」
「酒クズってことですか」
「いや、それは違うだろ」
若者たちは笑う(圭輔にとっては、三十代も四十代も若者だ)。何か言え、さっきの返答を挽回するようなことを、一緒に笑えるようなことを言えと圭輔は焦るが、口からは何も出てこない。そのうちそんなふうに焦っている自分に嫌気がさしてきて、黙り込むほうを選んでしまう。
「うえっ、なんでこれ、こんなにべしゃべしゃしてんの」
声が聞こえた。カウンターのカップルの男の声だ。
