井上荒野さんによる極上の掌編小説集『1+1』(ワン プラス ワン)が4月6日に発売開始。料理と飲み物、そして味わう2人――。2つの「ペアリング」をモチーフにした24編が収録されています。本書の刊行を記念して、全3編を潮プラスに特別公開します。
鱚のフライと白ビール
手土産は四国の海産物屋から取り寄せた海苔と酒盗にした。考えに考えた末にそうなった。拓郎の家への、はじめての訪問なのだ。気が利いていて、押し付けがましくはなく、まちがいなくおいしくて、先方のもてなしの邪魔にはならないものを持っていきたかった。 当日の朝十時に茜から電話がかかってきた。電話を切ったあとは、今日の訪問をとりやめることを考えていた。でも、結局行くことにした。拓郎は今夜の晩餐のために、早朝から東京湾で釣り船を借りると言っていた。まさかそれまで嘘ではないだろう。彼はそういう男なのだ。女を──というより、かかわった相手を喜ばすために最大限のサービスを尽くす男。今後の関係がどうなるにせよ、これまでの関係を悪くしたくない。拓郎とは俳句結社「水軍」の同人同士だ。句会ではいつもやりあって、「喧嘩するほど仲がいいふたり」と見なされている。ふたりがいない場所では「できてる」と噂されているかもしれない。実際のところは、まだできていない。だからこそ今日、こんなに悩ましいわけだった。
遥子は、溜息のような鼻息のようなものをひとつ吐き、着ていくものを考えはじめた。これも手土産同様に、考え抜いて昨夜までに決めてあったのだが、こういう事態になったとあっては、また一から考え直さなければならない。電話なんかくれなきゃよかったのにと、茜を恨めしく思った。
茜は拓郎の娘で、三十一歳になる。年齢をはっきり覚えているのは、遥子の息子と同い年だからだ。面識があるのは、二回に一度は拓郎が娘を句会に連れてくるから。小さな劇団の売れない女優だと父親は言い、本人は、しがないフリーターですというふうに自己紹介した。百合の花を思わせるすんなりと美しい娘。拓郎にはあまり似ていない。彼女が十歳のときに病気で亡くなった母親、つまり拓郎の亡き妻がそういう女性だったということだろう。
──遥子さん、電話するべきかどうか迷ったんだけど……。今日、父の家にいらっしゃるでしょう?
今朝の電話で、茜はそう切り出した。ええ、もちろんと遥子は答えた。今夜は拓郎の家で、彼と茜と遥子、三人で食事することになっている。
──あのね、私は行かないの。
──え?
今夜はバイトを入れているのだと茜は言った。今夜の会食はそもそも、茜のスケジュールとは無関係に決められたことだと。
──つまり、なんていうか……父は今日、遥子さんとふたりきりで過ごしたいって。でもそういうお誘いだと、遥子さんはきっと来ないから、私と三人での食事会ということにしておいてほしいって。当日は、急用ができたということにすればいいって。ごめんなさい、父に従うつもりでいたんですけど……こんなのはフェアじゃないって思えてきて。
ややファザコンの気味はあるとしても、茜は真面目で気立てがいい娘だった。だからこそ電話をくれたのだろう。でも、今日、自分は来ないことを伝えて、それでどうなると思っているのだろう。伝えるべきは伝えた、あとはどうなっても「自己責任」ということだろうか。もちろん遥子は、そんな気持ちを茜に吐露したりはしなかった。しょうがないお父さんね、お知らせありがとう、善処します。いい女ぶって、そう言った。
服を決めても──白い麻のシャツにグレイの巻きスカートふうのワイドパンツ、珊瑚のネックレスは迷った末につけないことにした。電話が来る前は白い麻のワンピースに、珊瑚のネックレスを合わせて行くつもりだった──まだ正午にもなっていなかった。拓郎の住まいは調布駅が最寄りだから、遥子が住む八王子からは京王線一本で行ける。約束は夜六時だから、ゆっくり行くとしたって四時半に出ればいい。考える時間はまだたっぷりあるというわけだった。
「水軍」の同人としては、遥子のほうが拓郎よりキャリアが長かった。二年前、主宰していた老齢の師が亡くなって、同人だけで運営していくことになった頃、拓郎はひょっこりとやってきた。そしてたちまち「水軍」の中心人物になった。それまで中心にいたのは遥子だったが、その座を攫われたことに怒りも不満も覚えなかった。ほかの同人たち同様に、遥子もまた拓郎に心を囚われてしまったから。チャーミングという言葉が拓郎ほど似合う人間はいない。男に対しても女に対しても彼はその魅力をふりまいたが、どこか舞台の上で演技しているようなところもあって、だからあるときを境に、彼が遥子の前でだけその舞台から降りて、ほかの同人に対するのとは違った足取りで近づいてきたと思えるようになったことは嬉しかった。
その嬉しさは自分でも意外だった。最初の結婚で、男にはこりごりしていたはずだったのに。離婚したのは十年前──五十になる少し前だった。疑ったり裏切られたり傷つけたり傷つけられたりすることにほとほと疲れて、そういうのはもう勘弁という気分がずっとあって、この十年、何度かあったそういう気配には近づきもしなかったのに。そう、私は拓郎に恋をしているのだ。遥子はあらためてそれを認めた。恋する相手がふたりきりの夜を計画している。それの何が悪いのだろう? どうして腹が立つのだろう?
ほとんど食欲が湧かず、昨夜の残りものを機械的に口に入れていると、電話が鳴り出した。スマートフォンではなく据え置きのほうで、これが鳴ることは最近はめったにない。この電話の番号は拓郎に知らせていないのに、彼からであるような気がして、遥子は緊張しながら受話器を取った。
「もしもし、母さん? 俺だけど」
遥子は一瞬、息を呑んだ。それから溜息とともに「あら、久しぶりじゃない」という声を押し出した。
「やばいことになったんだよ。三百万ほど用意できない? 彼女が妊娠してさ。その彼女っていうのがやばいやつらと繋がってるんだ。金払わないと、どうなるかわからないんだよ。三百無理なら、今あるだけでいいから。いくらくらい用意できる?……」
まくしたてるどこかの青年の声を、遥子はつまらない音楽のように聞いていた。こういう電話があることはもちろん知っていて、いつか自分のところにもかかってくるかもしれない、とは思っていた。でも、よりによって今日じゃなくてもいいだろう。
「拓郎、それであなたは今どこにいるの?」
遥子は電話の相手にそう聞いた。
「わからない。どこかのマンション。監禁されてるんだよ、俺」
「まあ、それは大変ね。私の息子の名前は拓郎じゃないけど」
電話は切れた。さすがに心臓がドキドキしていたが、おかげで自分の心の中がいくらかはっきりもした。なめるんじゃないわよ。そう思っているのだった。オレオレ詐欺の青年にも、拓郎にも。娘をだしにして呼び出して、ノコノコやってきたところを、ぱくりとやれると思っているのだろう。その程度の女だと。嘘を吐かれたことがいやだった。嘘を吐いて呼び出して、ふたりきりになっても、許してくれる女だろうと思われたことが。前の夫がそういう男だった。嘘を一度許したら、安心して嘘ばかり吐くようになった。ああいうのはもうこりごり。今また、そういう気分になっている。
空いている上り電車に座って揺られ、調布で降りると、前回の句会のときに拓郎から手渡されたメモ──彼はメールをほとんど使わない。電話、手書きのメモ、たまに手紙──に従って、バス乗り場を探した。七月のはじめで、日が落ちてくればいくらか涼しい風も吹いてくる。拓郎は、ここからバスで十分ほどの川沿いの団地に住んでいるらしい。彼はもともと出版社勤めで、会社員時代は目黒のマンションに住んでいたが、早期退職と同時にそこを売り払い、郊外の古い団地の一室を買ったそうだ。今はフリーの編集者として、作りたい本だけを作っているとか。まったく、いちいちが芝居がかっているというか、人生そのものが芝居みたいな男だ。
