• 文芸

出汁巻き玉子と、おりがらみの酒(井上荒野)

  • ためし読み

「出汁巻きだもん、出汁がいっぱい入ってるんだよ」


女性が答えている。とにかくあの男は、出汁巻き玉子を注文することには同意したわけだ。それにしても……と圭輔はどうしても耳をそばだててしまう。


「水っぽくねえ?」


「水っぽくないよ、出汁の味がするよ」


「玉子焼きに出汁とかいらなくねえ?」


「出汁が入ってるからおいしいんじゃん」


ああ、もう、聞いていられない。気がつくと圭輔は声を上げていた。


「すいません。こっちに出汁巻き玉子ひとつ。いや、ふた皿お願いします」


「はいはい」


女将が苦笑しながら頷き、その後ろで大将もぺこりと頭を下げた。こっちに聞こえるんだから、あっちにも当然聞こえているわけだ。そういうことにあの男は気がつかないんだろうか。俺は、さすがにあそこまではひどくなかったぞ。


圭輔は憤然とそう思い、それからハッと我に返った。しまった、勝手に料理を注文してしまった。しかもふた皿もだ。


「出し巻き玉子、いいっすね」


渋谷が言った。


「最高っす」


寺谷も言った。


「絶対、頼むべきですよ」


比留間が言い、


「あの女の子、こっち来ないかな」


と、この中では最年少の、間宮という女性が言った。


そうか、と圭輔は気がつく。もちろんこっちのみんなにも、さっきのやりとりは聞こえていたんだ。そしてこっちはまがりなりにも社会人だし、大人の分別があるから、みんな一応声を潜めて喋っている。


「呼んじゃいましょうか」


と、寺谷。


「いやいや。それはまずいっしょ」


渋谷が笑う。

 

「あの子、なんだってあんな男と付き合ってるのかな」


と間宮。


「若いとわかんないんだよね」


と比留間。十分若い君が言うか、と圭輔は心中苦笑しながら、


「今夜、あの子のほうから見限るんじゃないかな」


と言った。一同はわっと笑った。なんだ、こいつら、いいやつらじゃないかと圭輔は思う。なんとなくあのカウンターの男と同じ側だと思っていた。悪かった。


 「鹿島さん、次、どうします」


渋谷が聞いた。


 「そうだなあ、出汁巻き玉子が来るから、俺は"たかちよ"にしようかな。あ、みんなは、ビールでもチューハイでも、好きなもの頼んでくれよ」


さっき言えなかったことがすんなり言えた。


「じゃあ俺も"たかちよ"」


「私も」

「じゃあ、とりあえず二合頼もうか。お猪口ちょこは五つで」

結局、そういうことになってしまった。でも、利き酒セットの注文が揃ったときとは気分が全然違う。


「旨いっすよね、"たかちよ"」


渋谷があらためてそう言ったので、うん、旨いよね、と今度は素直に答えることができた。


「酸味が上品だから、出汁巻きとか、お浸しとか、出汁を効かせた繊細な料理に合うと思うんだよね」


つい、そんなことまで言ってしまい、ほう、へえ、と感嘆の声を浴びた。


「鹿島さんって、グルメですよね」


「いやいや……好きなだけだよ、食うことが」


「鹿島さんが選ぶお店、いつも最高ですよね」


「前の課長のときは、ひどかったから」


「あれ、俺が選んでたんだけど」


「知ってるよ」


若者たちは言い合って、屈託なく笑う。いったいどうしたことだと圭輔は思う。楽しいぞ。俺も一緒になって笑ってるぞ。出汁巻き玉子、あるいはたかちよのご利益か?


いや、違う。圭輔は気がついている。こいつらはずっとこんなふうだった。俺が臆病だったんだ。

その出汁巻き玉子がふた皿、たかちよの二合徳利とっくりとともに運ばれてきた。わあ、出汁巻き玉子だあ。来た来たあ。部下たちが口々に、ことさらに声を上げるので、圭輔はさらに楽しくなる。

圭輔が部下たちのお猪口に酒を注いだ。間宮だけはまだ、利き酒のグラスにたかちよが残っていたので、そこに気持ちばかり注ぎ足した。


「乾杯」


自然に、そういう声が出た。猪口四つとグラスひとつとが合わさって軽やかな音を立てる。それぞれ口をつけ、頷き合い、それから出汁巻き玉子に箸をのばした。


ここのは、出汁たっぷりで、ほとんど甘みのない出汁巻き玉子だった。添えられた大根おろしに醬油をちょっと垂らして一緒に口に入れても旨い。


「わあ、おいしい」


「旨っ」


再び口々に上がった声は、やっぱりカウンターを意識したものである気がしたが、旨いという言葉に偽りはないだろう。


「玉子ひとつにつき出汁大匙一杯くらい、入れるんだよ」


圭輔は知識を披露した。琴美がそう言っていた。だからきれいに巻くのはなかなかむずかしいのよ、と。ちゃんと覚えている。覚えてるぞ、琴美。心の中で妻に言った。


「すごーい、鹿島さん」


「旨いっすねー。"たかちよ"に合いますねー」


「渋谷さん、ホントにわかってます?」


「寺谷おまえ、俺のこと誤解してない?」


圭輔もまた酒を啜った。旨い。出汁巻き玉子に合うのはもちろんだが、今まで飲んだどの酒より旨い気がする。


ふと視線を感じた。カウンターの娘がこちらを窺っていた。圭輔は思わず、娘に向かって猪口を傾けてしまった。娘はちょっと笑って、姿勢を戻した。がんばれ。胸の中で娘に言った。男はそいつだけじゃないし、そいつだってこれから変わるかもしれない──時間はかかるかもしれないけど。


圭輔は部下たちのほうへ向き直り、「次、どうしようか」と口元を緩めた。


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