戦乱を越えて「新しい文明」を創るため、ロンドンで語り尽くした40時間のドラマとは――。31言語で出版された対談集『二十一世紀への対話』誕生の秘史を綴ったワイド文庫「『民衆こそ王者に学ぶ』トインビー対談との対話」より、一部を抜粋してご紹介します。
英語圏の外にも広がった対談集『二十一世紀への対話』
池田・トインビー対談は「この20年で中国に最も大きな影響を与えた100冊」に選ばれたこともある(2004年、中国の大手書店「三聯書城」が発表)。
中国では知らない人のいない大人気作家の金庸は、池田・トインビー対談の中国語(繁体字)版に序文を寄せ、自身も池田と対談集を発刊している。
〈訪れた国で、思いがけない人から読後感を聞かせていただき、驚くことも多い〉(池田のエッセー、『池田大作全集』第122巻)。チリのエイルウィン大統領、コスタリカのフィゲレス大統領、インドのナラヤナン大統領、トルコのデミレル首相、インドネシアのワヒド大統領──数多くの国家元首が池田と会見した際、「池田・トインビー対談の本人と会えた喜び」を語ってきた。
ブラジルのフィゲイレド大統領との会見では、大統領のスケジュールを取りしきる文官長で、ブラジルを代表する法学者のジョアン・レイタン・デ・アブレウが池田・トインビー対談の熱心な読者だった。「大統領会見の後、短時間でいいので私とも会っていただきたい」と要望している(単行本『民衆こそ王者』第7巻に詳述)。
創価大学の国際交流に長年携わってきたスタッフの一人は「私が出会った総長、学長や教授たちで、池田・トインビー対談を読んだという方々のエピソードは多すぎて、すべては挙げられませんが、とりわけ印象的だったのはアルゼンチンと香港での出来事です」と語る。
「まず、ブエノスアイレス大学のシュベロフ総長に、池田先生から預かってきた英語版の池田・トインビー対談を贈呈した時のことです。シュベロフ総長は最初、笑顔を浮かべて『申し訳ないが、必要ありません』と言われた。ビックリして理由を聞くと『昨年のクリスマスに、妻から同じ本をプレゼントされた』というのです。総長夫人が本屋の店員に『私の夫は経済学の学者なのですが、なにか勇気をもらえる本をください』と尋ねると、『ぜひこれを』と薦められた本が池田・トインビー対談だったというのです」
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「マカオ大学(旧マカオ東亜大学)のフェレイラ学長から聞いた話も強烈でした。フェレイラさんはポルトガル人で医学者です。彼は副学長時代の1993年(平成5年)、香港で初めて池田先生と会いました。先生はフェレイラさんに献辞入りの池田・トインビー対談を渡されたのですが、行事を終えたフェレイラさんと懇談した時、『先ほどの方が間違いなくドクター・イケダなのですね? 彼は何歳なのですか?』と興奮して質問してこられたのです」
「フェレイラさんいわく、『私はパリのパスツール研究所にいた時、研究所の本屋で池田・トインビー対談のフランス語版を買って読み、感動しました。1981年のことです。その後、私はポルトガルのリスボンに戻りましたが、ブラジルで出版された対談集のポルトガル語版も手に入れて、私の母国の言葉で読みました。私は今日まで、トインビーと堂々と渡り合っている対談相手の東洋人も、トインビーと同じくらいの年齢だと思い込んでいました。だから今日、本人を目の前にしてとても驚いたのです』ということでした」
1973年(昭和48年)の6月13日、池田はヨーロッパ訪問から帰国した直後、創価大学を訪れている。前月、ロンドンでトインビーとの2年越しの対談を終えたばかりだった。グラウンドで若手教員たちと車座になって懇談した。「トインビー博士から会ってくれと頼まれた人たちなんだが、皆さん、知っているかな」と言って、若手教員たちに一枚のメモを渡した。達筆な英語で、細菌学者のルネ・デュボスやローマクラブのアウレリオ・ペッチェイなど、数人の名前が書かれていた。
池田は彼らとの対話にも取り組んでいく。懇談の場にいた一人は「池田・トインビー対談が海外の知識人にどれほど広く読まれてきたか、もしかしたら創価大学で教育、研究に携わる私たちのほうが知らないのかもしれません」と語る。
物心がついて初めて知ったニュース
トインビーはなぜ「日本」に焦点を当てたのか。なぜ「創価学会」に注目し、80歳の秋、池田に宛てて〈私個人としてあなたをロンドンに招待し、私たち二人で、現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談したいと希望します〉と手紙を送ったのか。
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