評論家・與那覇潤さんによる連載「平成の回廊――創価学会と日本社会」第4回原稿。エネルギーほとばしる「団塊世代」の60年代から「シラケ世代」の70年代へ――。平成に至る前史から、日本社会の安定のヒントをさぐる。
(月刊『潮』2026年8月号より転載)
「シラケ世代」の心象風景
「私はニッパチですから、団塊の世代とは色んなことが違っていました」
創価学会で主任副会長を務める池田博正は、そんなことばで語り出した。第三代会長、そして唯一の名誉会長として没後も存在感を誇る、池田大作の長男。ニッパチとは「昭和28年生まれ」の略で、西暦では1953年生となる。
一方で団塊の世代とは、日本の敗戦直後、40年代後半(狭義には47~49年)に最初のベビーブームで生まれた人を指す。60年代の末に成人を迎え、学生運動の主力を担った「全共闘世代」としても知られている。
「団塊の世代はとにかく人口が多い。だから受験や就職をはじめ、競争意識が熾烈でものすごいエネルギーがある。私たちはそこから数歳下で、同級生も少なく、『あんまりああはなりたくないな』と感じながら育つところがあって。
中学で慶應義塾に行ったときも、その年に倍率がガクンと落ちて、おかげで通ったのではと思うくらいです。大学に進んでも、いちおうバリケードは残っているけど、すり抜ければ普通に入れて授業もやっている。そんな『白けた』感覚を持ちやすい世代でした」
父親の大作が会長に就いたのは、1960年の5月。団塊の世代の青春や、戦後の高度経済成長と重なるその後の10年間は、創価学会にとっても怒涛の拡大期だった。64年に公明党が結成されるや、67年の初の衆院選で25議席、69年には47議席の猛烈な躍進。後者では社会党が90議席に凋落し、次はまさかの「野党第一党」さえありえるのかと世間を驚かせた。
こうしたエネルギーの全体が、日本のどこでも止まってゆくのが70年ごろだ。「わけがわからないが、とにかく物量で圧倒すればなんでもできる」といった野放図な勢いが、持続しなくなるとともに、社会からも避けられ出す。文字どおり「シラケて」ゆくのである。
「言論問題」をめぐる父と子の会話
創価学会と公明党にとって、1970年は「言論問題」に揺れた、大きな方針転換の年として記憶されている。存亡の危機に際して、会長の大作も対応に苦慮するが、その中に忘れがたい発言があった。
「長男(三人兄弟)は、いつもはわたしを尊敬してくれているんですが、こんどは一度、怒られました。(言論妨害のことで)母親といっしょになって、いってきました。わたしが、『身内のことを悪く書かれようとしたら、悪く書かないでくれ、と頼みにゆくのが自然だろう』といったら、キ然として『ボクなら無視します』とやられましたよ」(『週刊文春』1970年5月18日号)
本当の挿話なのか。博正自身は「さすがに覚えていないけど、私が言いそうな口調ですね」と苦笑する。「あのときは高校生でしたが、大変でした。学校でも友達に『お父さん大丈夫?』と声をかけられて。マスコミに始終見張られている緊張感がありました」。
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