• 文芸

【特別公開】鹿島茂氏の新連載 あの頃、心を潤す詩と

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新興の都市生活者が読む"新聞"は、文化と知性と経済力の象徴だった


 まずいえることは、この「朝」という詩の登場人物は語り手の「ぼく」と「お父さん」の二人だということです。お母さんはどこにいるかといえば、台所で朝食の支度をしているにちがいありません。たぶん、この家庭には伝統的な日本の家庭のような「お爺さん」や「お婆さん」はいないのでしょう。


 大正期に上京して学歴を得た地方出身の次男・三男である「お父さん」が大都市で就職して結婚し、「お母さん」とともにつくりあげた昭和の核家族の「朝」のイメージといってさしつかえないと思います。少しモダンな家庭なら、ぼくとお父さんは「テーブル」で朝ごはんを食べていたことでしょう。

しかしこの風景の中で中心になっているのはテーブルではなく、そこでお父さんが開こうとしている「新聞」です。

 

お父さんが新聞をひらくと

新聞紙いつぱいに

ぱつと 朝日が射した


 朝の光が当たって強調されている「新聞」はこの核家族の経済的・文化的ステータスの記号となっているのです。


 文化史家によれば、日本で新聞が一般家庭で定期購読されるようになったのは明治20年代からだといわれています。日清戦争を契機に「大阪朝日新聞」と「大阪毎日新聞」が拡販競争を開始したことがきっかけとなりました。その拡販の原動力となったのが広告の導入です。それまで定期購読料の高さゆえに一部の特権階級しか読むことのできなかった新聞は、フランスの新聞王ジラルダンが発明した「広告導入→定期購読料の引き下げ→定期購読者の増加→さらなる広告収入の増加→さらなる定期購読料の引き下げ→さらなる定期購読者の増加」というスパイラルによって、一般家庭にも入り込むようになりました。


 しかし、いくら新聞の定期購読料が下がっても、それを読む購読者のリテラシー(文化的読み書き能力)が低ければ、それほどに部数拡大につながることはなかったでしょう。大きかったのは、明治32年から連続的に発せられた中学校令、高等女学校令、専門学校令、大学令などの教育関連法案によって日本の教育の裾野が一気に拡大したことです。教育の普及により日本人のリテラシーは飛躍的に高まり、新聞の発行部数の拡大の下支えとなりました。


 つまり、この「朝」という詩で「お父さん」が朝に食卓で新聞を開くとそこに朝日が当たるという家庭情景は、大正・昭和期に確立された比較的新しい習慣にすぎないのですが、逆にいうと、「新聞」は学歴の獲得によって階級上昇を遂げようとする新興市民階級の精神(ガイスト)の象徴として、核家族の朝の食卓に現れたのです。


 ですから、朝に「新聞」を開く「お父さん」を見つめる「ぼく」の気持ちには、文化とインテリジェンスと経済力を兼ね備えた若くてたくましい父親に対する誇らしさのようなものが感じられます。

新聞の活字・パン・ジャムの匂いは、新しい"核家族"の朝食風景を表していた


 そうした誇らしさは、まだ新聞を読む年齢には達していない「ぼく」にとっては、新聞が発する文化的な「匂い」として感知されています。


朝日の中で

刷りたての活字の匂いがする


 正確には「刷りたての活字の」インクの匂いが新聞紙の匂いとまじりあったあの独特の匂いですが、それが


ジヤムのような

パンのような

食べたくなる匂いだ


 と感じられるとしたところにこの詩の新しさがあります。というのも、「刷りたての活字の匂い」の比喩として挙げられた「パン」や「ジヤム」もまた新興の核家族が生活の中にもたらした新しい食文化だからです。


 それまで、日本人の朝食の基本は「みそ汁」に「納豆」と「ご飯」、それに、せいぜい前夜の残りものの魚でした。この事実を踏まえると、「ぼく」が「刷りたての活字の匂い」を譬えるのに「パン」や「ジヤム」を挙げているのは注目に値いします。


「ぼく」を中心とするこの家族が新興の都市生活者、それも核家族であることの紛れもない証拠となっているからです。

時が過ぎ、家族の朝の風景はスマホの無臭の画面に変わっていく


 さて、以上の解説を踏まえたうえで、「朝」をもう一度読み返してみるとどうなるでしょう。


 今度は、不思議なことに、過去が夢見た理想の未来がすでに過去となり、潰え去ろうとしていることに対する、ある種の哀惜の感情のようなものが湧いてくるのではないでしょうか?


 なぜなら、21世紀の日本人の若い核家族の朝の風景には「お父さん」が誇らしげに開く「新聞」はもうありませんし、また「ジヤムのような」「パンのような」活字の匂いもありません。あるのは、「お父さん」も「お母さん」もそして「ぼく」も起きると同時に、それぞれ勝手に眺め始めるスマホの無臭の画面だけです。


 そう、「朝日の中で」「刷りたての活字の匂いがする」とされたあの「新聞」はいまや私たちの記憶の中にしか存在しないノスタルジーになりつつあるのですが、だからといって、「新聞」が象徴していた核家族の生活感情を過去のものとして葬り、忘れさってしまうわけにはいかないような気もします。なぜなら、それは、現実には存在しなくなっても、「かくあるべきもの」としてわれわれ日本人の無意識をいまだに成り立たせている共同幻想であり、結局のところ、21世紀の今日(こんにち)でも、それを外したらわれわれが拠って立つべき原点はないように思えるからなのです。

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