わずか8カ月で解体に至った中道改革連合。その歩みは、平成の新進党と何が同じで、何が異なっていたのか。
評論家・與那覇潤さんが、新進党に参加した経験を持つ山口那津男・公明党常任顧問に取材。湾岸戦争やPKO協力法、非自民政権の成立と挫折を振り返った時、政党間の連携に必要なものとは。
立場の違いを越え、政権を担う選択肢を築くためには何が必要か。平成の政治史から、令和の「中道」と非自民勢力の行方を問い直す。
(月刊『潮』2026年12月号から転載)
「中道」は新進党の轍を踏んだのか
2026年9月29日、前夜から秋雨の降る肌寒い日に、新宿区南元町の公明会館でその人は語り出した。令和の頭まで、日本中の選挙カーで聴衆沸かせた姿とは一変した、静かな話しぶりである。
「平成に公明党を挙げて新進党に合流したときも、『旬は過ぎていた』という気持ちがありました。今回の中道改革連合は、それと比べても苦しい決断だったと思います」
山口那津男・公明党常任顧問。2009年から24年の15年間にわたり、党の顔である代表を務めた。初当選以来、名乗ってきた「なっちゃん」の愛称で知られ、現役を退いたいまも支持者の信頼は厚い。
山口に取材を申し込むきっかけは、同月に決まった中道改革連合の「解体」だった。1月の衆院解散を受けての電撃的な結成から、わずか8カ月。衆議院の後に続くと約束していた、参議院の立憲民主党が8月末に「合流撤回」を伝えたことが決定打となり、連合は分裂して旧公明党の衆院議員はみな、古巣に戻る。
この結末が、やはり公明党の全衆院議員(と一部の参院議員)が参加した新進党の顛末に重なるとして、往時と並べる人が増えた。前にも破綻した先例がありながら、二の舞を演じたとの辛辣な評もある。
自身が新進党に属した体験を持つベテランは、そうした声をどう聞くのか。「いまの私はあくまでも、求められたら助言する立場。中道の設立を決めた経緯に、詳しくはないですが」と添えて、山口が言葉を継いだ。
「1994年6月に自社さ連立(村山富市内閣)が発足し、対抗して12月にできたのが新進党です。冷戦下では『右と左』で争ってきた自民党と社会党が手を組んでしまい、中道にいた公明党のポジションに、他の野党や、自民党を出た人たちが自ずと集まった。そうした第三極をひとつの党に、という前向きな試みで、党の職員からも勇んで移籍する人が出るほどでした。
しかし令和のいまは『左』に存在感がなく、『右』ばかりが膨張して、政治も民意も呑み込みかねない状況です。なんとか中道の居場所を作り出さねばと、むしろ追い込まれての結成だった点は否めません」
誰もが失敗だと総括する新進党だが、2回の国政選挙を戦い97年12月まで、3年間は存続している。敗北した96年10月の衆院選でも、自民党の239議席(単独では過半数割れ)に対し、新進党は156。もし令和の中道改革連合が、この数字を再現したなら、十分「成功」と呼ばれたはずだ。
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