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「太陽の心」に触れて 忘れ得ぬ旅路を辿る 熊本

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本年7月28日、熊本県で最大震度7の地震が発生しました。編集部として、心よりお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

パンプキン9月号「『太陽の心』に触れて 忘れ得ぬ旅路を辿る」では、熊本県の皆様を取材させていただきました。熊本では、未だ書店などに雑誌が届かないという地域が出ています。そこで、本文を2026年11月20日まで潮プラス上に無料公開いたします。


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各地の人びととの出会いやドラマを綴った池田大作先生の連載エッセー「忘れ得ぬ旅 太陽の心で」。

今月は、火の国・熊本を訪ねました。

「熊本は、不撓不屈の人材の城です」

先生は、そう書いてくださいました。

さらに、「熊本の負けじ魂の火は、世代から世代へ、明々と受け継がれてきました」と。

「懐かしい熊本は、森の都です」と、池田先生は記します。

熊本県は、多彩な実りをもたらす緑豊かな県なのです。


先生は、熊本の同志たちの一途な強さを、冬を越える樹木にたとえて、エッセーでこう綴っています。

「風雪に負けず、耐え抜くいのちの強さこそ、春に爛漫と勝ち栄えゆく力なのでしょう」

勇気の火  燃やして   一歩また一歩 郷土を走れ  明るき未来あす


冬の試練が厳しければ厳しいほど、いのちに希望の炎を燃え上がらせるのが、火の国・熊本の誉れの友人たちなのです。



正しいと信じた道を一途に歩み通す精神は、熊本人の特質とされる「肥後もっこす」の心です。


2018年12月号より抜粋。

妙法の肥後もっこすに!

熊本市の北部に曲がりくねった急な坂道がある。明治10年に起きた西南戦争最大の激戦地となった田原坂たばるざかだ。民謡の『田原坂』にも「越すに越されぬ」と歌われている。 池田先生は、この歌を「幾度 、熊本の友と歌ったことでしょう。『我らは民衆の楽土を目指して、越すに越されぬ坂を断じて越えよう!』と励まし合ってきたのです」と綴っている。 その決意で人生の坂を勝ち越えてきた父をもつ、70代の女性に熊本市で会った。生まれは県中央の山深い村だという。父は長く北九州の八幡製鐵所やはたせいてつしょに勤めていた。だが1947年5月、長男だからと家に呼び戻されたのだそうだ。 慣れない農作業。希望が見えない暮らしの中で仏法と出あった。1960年、家族で創価学会に入会した。彼女は小学2年生だった。「父はこの信仰に人生をかけたのだと思います」と言う。 旧習深い土地で、親戚が酔いに任せて「そぎゃんか信心、やめんね」と、よく父に言いに来た。「それが悔しくて、悔しくて……。私の"負けじ魂"に火がつきました」と笑った。 一心に勉強した。高校を卒業し、30倍の倍率を超える試験を勝ち抜いて県庁に入った。村でも大きなニュースになったという。「合格を目指して、今までにないほど真剣に祈りました」。 信仰の手本は父の姿と学会の女子部(当時)の先輩だった。 「先輩は私を訪ねてきては池田先生の話をしてくれました。私のことを思う気持ちが心に刺さりました。世の中にこんなにきれいな世界があるんだって」。先生は、エッセーにこう記す。

一人一人の個性を慈しみ、

陽光のように惜しみなく愛情を

注いでいくところに、

若き人華(にんげ)は咲き誇っていくのでありましょう。

きっと先輩は、この思いで10キロもある山道を訪ねてきてくれたのだ。28歳で結婚した。県庁を辞め、県立高校教師の夫の転勤で転居するたびに新しい友の家々を回った。水俣病で苦しむ人たちのところにも何度も激励に行った。


そして、父である。高校2年生のとき、熊本市体育館での会合で、先生が「妙法の肥後もっこす(強情者)に!」と言われたとき、"あ、父のことだ"と思った、と話す。


「父はまじめ一途の努力家でした。先生の指導を真っすぐに受け止め、だれも見ていない、だれも褒めてくれない山の中で、一歩も引かずに自分なりの挑戦を続けていました」。祖母と両親、きょうだい5人の暮らしは貧しかった。だけど一度も貧しいと思ったことがない、と言う。父が頓知の利いた話をし、毎日の食卓を明るく沸かせてくれていたからだ。


やがて、父は請われて自治会の区長になり、区の全世帯の皆さんと深い友好と信頼を結ぶまでになった。彼女は「その一途な血が私にも流れているんです」と胸を張る。70も半ばになる現在も、毎日、友の激励に歩いている。

たゆみなき挑戦の中で

熊本市は学都でもある。全国に8校しかないナンバースクール(旧制高等学校のうち数字を冠した学校)のひとつ、第五高等中学校が明治20年に設立された。エッセーにも、近代柔道の創始者・嘉納治五郎かのうじごろうが校長を務めていたことにふれられている。

そんな熊本市に、写真館のカメラマンとして市内の学校の卒業アルバムの制作に関わっている30代の女性がいる。「子どもたちのいちばんいい表情を撮りたいんです」と言う。


小学生のころ、両親が祖父の勧めで創価学会に入会した。「不思議なんですけど、母が愚痴を言わなくなったんです」。子どもながらに母が変わっていくのがわかった。それが自分も仏法を受け入れるきっかけになった。いつも学校から帰ると祖父と一緒に過ごした。「池田先生の話をよく聞かせてくれました」。祖父は池田先生の指導を丁寧にスクラップしていたのだ。


いつしか彼女も先生の指導をファイルするようになった。心に響いた言葉は単語カードに書き、持ち歩く。「落ち込こんだとき、先生のご指導を読むと一歩踏み出す勇気が出るんです」


子どものころから音楽やアートなど美しいものにひかれた。絵が好きで、ひそかに画家になりたいと考えていた。高校は芸術学科を選んだ。デザインの専門学校に進み、グラフィック・デザイナーを経てカメラマンになった。


撮影のために運動会や遠足などに同行し、子どもたちの日常を切り取る。撮影の日は、しっかり祈って仕事に行く。「その子らしい表情を撮るには、心を開いてもらうことが一番なんです」。そのために、まず自分から歩み寄ることを心がけている。普段あまり学校に来られない子どもが、話しかけてくれることもある。


「すごくうれしい。子どもにしてみれば、私は先生でも何でもない"ヘンなお姉さん"ですから。その立ち位置がいいのかもしれません」と言う。エッセーに、こうある。

球磨川が清く流れ続けるように、

たゆみなき挑戦あればこそ、

みずみずしい創造力を発揮していける、

ということです。

彼女は「誠実に生きることが私のテーマです」と言う。誠実に子どもたちと向き合い写真を撮る。その積み重ねのなかで表現者としての次のステージが開けるにちがいない。

縁する人の"幸福責任者"になる

2016年4月、熊本市や益城町ましきまち、阿蘇地方など熊本県の中央部を中心に最大震度7の激しい地震が襲った。 池田先生は、エッセーに「わが尊き友人たちは、長年、地域に尽くしてきたスクラムで、直ちに人命の救助、安否の確認、救援活動に走り、県内九カ所の会館は避難所となりました」と記している。そのひとつの会館で避難生活を経験した、合志こうし市に住む20代の女性に会った。

病院で作業療法士として働いて8年。彼女は「この仕事は天職だと思っています」と笑顔で言った。地震に遭遇したのは、作業療法士を目指していた専門学校生のときだった。


「夜中に飛び起きて、家族みんなで避難所に向かいました」。電気や水道が復旧するまで車中泊も経験した。


地震から10年。4月に益城町で「ごはんといのちのストーリー展」が開催され、3万3000人を超す人が妙なる"命のつながり"に感謝の共感を広げた。エッセーにも益城町の婦人の話が紹介されている。その話が心に残った、と彼女は言う。

── 自分も屈しない。

さらに苦しむ人を誰も置き去りにしない。

共々に断じて乗り越える。

この思いで復興に挑むなか、

友情の絆を深めることができました。

その歩みは、私たちの「心の財(たから)」です。

彼女は、自分の仕事の歩みも、そのまま「心の財」になっていると思った、と話す。その「心の財」とは相手の幸せを祈ることだという。それを教えてくれたのは、母だった。


小学校3年生のとき、仲のいい友だちから突然、無視された。母は「友だちがいい子になるようにと祈っていきなさい」と言った。素直に実践した。中学に上がる直前、その友だちが向こうから謝ってきた。「今は、仲のいい "メシ友"です」と笑う。


仕事でも、患者さんのQOL(生活の質)が向上するように、と祈っている。「本人が前向きにがんばろうと思ってくれることがいちばん大切なんです」


神経の難病で入院してきた男性がいた。移動は車椅子、口から食べられず胃に直接栄養を流し込んでいた。次の日、その男性がベッドからわざと落ちた。「死のうと思った」と言う。彼女は、男性が生きる気力を取り戻してくれるようにと祈った。男性といろいろ話すなかで、パズルが好きということを知った。


リハビリの時間に1000ピースのジグソーパズルを始めた。最初は10分ほどしか座っていられなかったのだが、少しずつ男性の座っていられる時間が延びていった。すでに5作品を完成させ、次は1万ピースを目標にしているそうだ。今では口から食べ物を食べられるまでになったという。


「患者さんのこういう変化に伴走できると、本当にうれしいです」。彼女は、これからも「心の財」を磨き、自分が縁する人すべての "幸福責任者"になると決意している、と言うのだ。

赤ちゃんもひとりの人間

県内第二の都市で、畳の原料「い草」の日本一の産地としても知られる八代市に、30代の女性を訪ねた。一昨年、看護師を辞めて、赤ちゃんとの絆を深め、よりよい心身の発達をうながすベビーマッサージの教室を自宅で開くようになったという。


彼女が看護師を目指したのは、中学2年生のときだったそうだ。春の健康診断で尿にたんぱくが出ていることがわかった。精密検査を受け、ネフローゼ症候群と診断された。「身体に必要なたんぱく質が吸収されず、尿に出る病気らしいんです」。そのため免疫力が低下するという。


熊本大学病院に入院することになった。母は、毎日、八代から往復2時間かけて病室に来てくれた。いつも「祈りしかないよ」と言い残して帰った。小児病棟の大部屋である。「みんなにわからないように、口パクで祈っていました」。勉強も思うようにできない環境で、イライラが募っていった。


そんなようすを察して、ある看護師さんが個室に移してくれた。「すごく救われました。私も患者さんの気持ちに寄り添える看護師になりたいと思ったんです」。周りを気にせず勉強ができるし、祈ることもできる。予定より早く、3か月で退院できた。彼女は、将来の夢と共に、祈りの確信もつかんだのだった。


看護師になってからは、スペシャリストではなく、ゼネラリストになろうと志した。「どんな患者さんからも頼られる看護師になりたかったんです」。脳外科から始まり、心臓血管外科、小児科、婦人科、眼科、耳鼻科、呼吸器科を担当してきた。


ベビーマッサージに興味をもったのは、二女がおなかにいるときだったそうだ。「長女にはいっぱいスキンシップをしてきたつもりだったんですが、ベビーマッサージの勉強を始めると、いろいろ見てあげるべき点があったと反省したんです」。一念発起 、講師の資格を取得した。教室を開いて1年になる。


教室ではスキンシップの方法だけではなく、赤ちゃんとの向き合い方や育児の悩みの相談など、いろんな話をする。「池田先生は『子どもは一個の人格だ』とおっしゃっています。それは赤ちゃんも同じです」。 "赤ちゃんもひとりの人間だよ"という話をすると、我が子に対するお母さんたちの見方が変わるそうだ。


「心を育むうえで赤ちゃんのときの触れ合いってすごく大事なんです」と、彼女は言う。


先生は、「仏典には、『火』の持つ働きとして『照らすこと』と『焼くこと』を挙げ、生命の智慧の力に譬えています」とエッセーに書き、こう続けている。

一つは生老病死の苦しみを照らし晴らしていく、

英知の光です。もう一つ、現実の悩みを

薪のごとく焼いて、人間革命の前進の

エネルギーに転じていく、価値創造の燃焼です。

彼女は今年から教室を開きながら、訪問看護の仕事も始めたそうだ。「以前からターミナルの患者さんを看たいと思っていたんです」。生命の始まりと、終焉のときに関わろうとしている彼女に、この「火」のたとえが重なるように思えた。

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