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ベートーヴェンと女性の知識人たち ――楽聖を育んだ対話と、《第九》への道

  • 独自記事

人々の魂を震わすベートーヴェンの音楽。彼の創作の背景に流れていた思想や哲学、そして《第九》に結実した「歓喜」の理念はどこから生まれてきたのか。

本稿では、「4人の女性知識人」との対話を手がかりに、ベートーヴェンの精神世界をひもとく、創価大学教授・伊藤貴雄さんの寄稿をご紹介します。

私たちが思い描くベートーヴェン(1770–1827)像は、しばしば「孤高の天才」である。


乱れた髪、難聴、激しい気性――。そこに女性の姿が重ねられるとき、多くの場合、それは「不幸な恋」の相手として語られる。


しかし、若き日から晩年に至るまで、彼の周囲には、ただ憧れの対象としてではなく、思想と芸術をめぐって語り合う「女性の知識人たち」がいた。


本稿では、ベートーヴェンにとって「精神的対話者」となった4人の女性を取り上げ、彼女たちとベートーヴェンとの交差をたどりながら、彼の音楽――とりわけ《第九》――を支えた知的源泉の一端を照らし出してみたい。

Ⅰ バベッテ・コッホ――啓蒙都市ボンのミューズ

1789年、18歳のベートーヴェンはボン大学の聴講生となり、宮廷楽員として働きながら、哲学や文学の講義に通い始めた。音楽家であると同時に、一人の教養ある市民であろうとした第一歩である。


そのころ彼が足繁く通った「もう一つの大学」が、ライン河畔の旅館兼レストラン、ツェアガルテンだった。貴族、教授、官僚、芸術家、学生、市民が同じテーブルを囲み、ワインを飲みつつ政治や宗教、哲学、文学、音楽について語り合う。当時としては珍しく、その輪には女性もいた。


この場を支えていたのが、旅館主の娘バベッテ・コッホ(1771–1807)である。ベートーヴェンより一歳年下の彼女は、父の急死後、母と共に宿を切り盛りし、書店を併設して旅館を「本と人が出会うサロン」へと変えた。新刊書をめぐって議論が起こり、宮廷人や芸術家も加わることで、ツェアガルテンはボンでも有数の知的空間となっていった。


ベートーヴェンの友人の一人は、のちにバベッテを「自分が出会った女性の中で最も理想像に近い」と回想している。ベートーヴェンも強い憧れを抱き、ウィーン留学後に2通の手紙を書いた(返事はなかったらしい)。のちに彼女は伯爵に求婚されて伯爵夫人となるが、4人目の子を出産した直後、36歳で急逝した。


重要なのは、バベッテが単なる「憧れの人」ではなく、若きベートーヴェンの教養形成を支えた場の中心人物だったことである。ツェアガルテンには、神学者デレーザーや法学者フィッシェニヒといったボン大学の教授も出入りし、フランス革命や啓蒙思想、カント哲学といった最新のテーマが持ち込まれた。音楽家の卵であったベートーヴェンは、その輪の末席で耳を澄ませていたに違いない。


同時代のドイツの哲学者カントが代表作『実践理性批判』で思い描いた「公衆」とは、学者だけでなく「実業家や婦人から成る混合した社会」による対話であったと言われる。ツェアガルテンはまさに、それに近い顔ぶれを現実に備えた場だった。


その中心に立つバベッテは、啓蒙都市ボンに灯った「公共圏のミューズ」と呼べよう。彼女を通してベートーヴェンは、女性もまた思想を語る主体であることを、ごく自然に学んだのではないか。のちに彼が音楽によって人間の尊厳や自由を歌い上げていく、その遠い出発点に、このツェアガルテンの灯りと、一人の若い女性知識人の姿があった。

  • バベッテ・コッホ

Ⅱ ゾフィー・メロー――歌曲《炎の色》と啓蒙の太陽

ツェアガルテンに集っていた法学者フィッシェニヒは、1793年1月26日付の手紙で、詩人シラーの夫人シャルロッテにこう知らせている――ボンには、シラーの「歓喜に寄す」に作曲しようとしている若い音楽家(ベートーヴェン)がいる、と。これは《第九》と「歓喜に寄す」を結ぶ最初期の証言である。


この書簡にフィッシェニヒは、ベートーヴェンの歌曲《炎の色》の楽譜を同封した。この曲の歌詞は、ゾフィー・メロー(1770–1806)という女性が書いたものだった。


ゾフィーはベートーヴェンと同い年。のちに夫となる友人フリードリヒ・メローとの縁からシラーと知り合った。その後イエナに移り、フィヒテ、シェリング、シュレーゲル兄弟らとも交流する。フィヒテの授業を聴講し、自著ではその女性観を批判するなど、啓蒙期の自立した女性知識人の姿を体現している。


1792年、ゾフィーは詩「炎の色」をドイツ最古のファッション誌『華美と流行』に発表した。華やかな衣装の挿絵が並ぶ誌面の最後に置かれたこの詩は、自分にとって銀や金よりも大切な色を「真理の色」と呼び、それを額にも衣服にもまといたい、と歌い出す。


バラの赤(愛)、空の青(誠実)、雪の白(無垢)といった地上の色は、やがて褪せ、汚れ、消えていく。しかし「真理の色」だけは、太陽のように輝き続ける――そんな内容である。


18世紀末ヨーロッパで、太陽は「理性」の象徴だった。闇を照らし、人間の歩むべき道を明るみに出す光。ゾフィーの「炎の色」は、理性と真理への信頼を歌う啓蒙詩だと言える。


ベートーヴェンはこのテキストに惹かれて歌曲《炎の色》を書き、フィッシェニヒはそれをシラーに送った。そこには、「歓喜に寄す」に取り組もうとする22歳の作曲家の情熱とともに、ライン河畔の小さなボンにも啓蒙の火を掲げる人々がいる、というメッセージが込められていたのだろう。


ゾフィー自身の人生は平坦ではなかった。メローとの結婚は幸福とは言いがたく、1801年にはザクセン=ヴァイマル公国内で最初の女性側からの離婚を経験する。のちに文学者クレメンス・ブレンターノと再婚するが、夫の嫉妬に苦しみ、6人目の子の出産中、36歳で世を去った。


短い生涯のなかで、彼女は「真理の色」を信じて詩を書き続けた。初期歌曲《炎の色》とシラーへの書簡が結びつく地点から、《第九》の「歓喜」の物語はすでに静かに動き始めていた、と見ることもできるだろう。

  • ゾフィー・メロー

Ⅲ ベッティーナ・ブレンターノ――音楽から哲学が生まれるとき

ゾフィー・メローの再婚相手クレメンス・ブレンターノには、年の離れた妹がいた。のちに作家として名を残すベッティーナ・ブレンターノ(1785–1859)である。彼女は、ゲーテとベートーヴェンという二つの巨星を結びつけ、ベートーヴェンの芸術観を伝える重要な証言者となった女性だ。


ベッティーナの母親は、かつて若きゲーテが恋い慕った女性だった。母の死後、彼女は偶然、ゲーテからの恋文を見つける。それが大詩人と自分を結ぶ「見えない糸」となり、1807年、彼女はヴァイマルのゲーテを訪ねる。ゲーテは彼女を温かく迎え、親密な交流が数年続いた。


のちにベッティーナは詩人アヒム・フォン・アルニムと結婚し、その全集を編集するなど文学活動を続ける。晩年には社会改革やユダヤ人差別撤廃運動にも関わり、19世紀ドイツの「市民的知識人」として生きた。

そんな彼女がウィーンで初めて出会ったのが、ベートーヴェンの音楽である。1810年前後、演奏会で聴いた作品に衝撃を受けたベッティーナは、知人を介してベートーヴェン宅を訪ねた。若い女性の才気に応えるように、彼は何度も自作を弾いて聴かせたと伝えられる。


当時、ベートーヴェンはすでに《熱情》《告別》など代表的なピアノ・ソナタを完成させており、創作の絶頂期にあった。難聴の進行や孤独とも向き合い始めていた時期でもある。


ベッティーナの回想によれば、ベートーヴェンは彼女にこう語ったという。「哲学は、音楽によって電気を帯びた精神から生じる沈殿物にすぎない」と。普通は哲学が芸術を生むと考えられがちだが、ベートーヴェンにとっては逆だった。精神はまず音楽によって最高度に緊張し、純化され、その結果として哲学が析出してくる――そんな感覚だったのだろう。


もちろん、これらはベッティーナを通して伝えられた言葉であり、細部の史実性には慎重さを要する。それでも、彼女がゲーテに伝えようとした「ベートーヴェン像」がここに凝縮されていることは確かだ。


ベッティーナは、ゲーテとベートーヴェン、文学と音楽、哲学と言葉にならない感情のあいだを行き来し、それらを結ぶ橋を架けた。ベートーヴェンの思想の多くがこうした「聞き手」を通じて後世に伝えられていることを思えば、彼にとって彼女のような女性知識人は、内奥の思いを言葉へと押し出してくれる、重要な媒介者だったと言えるだろう。

  • ベッティーナ・ブレンターノ

Ⅳ マリー・エルデッディ――「苦悩を突き抜けて歓喜へ」

最後に取り上げるマリー・エルデッディ伯爵夫人(1779–1837)は、人生の後半、難聴と孤独に苦しむベートーヴェンと深い精神的共感を分かち合った女性である。


1815年9月、知人ブラウフル宛の手紙で、ベートーヴェンは「耳の調子が悪く、人とのやりとりがしばしば苦痛でしかない」と記し、「苦痛」という語に自ら下線を引いている。ブラウフルはエルデッディ伯爵家の家庭教師で、伯爵の死後は伯爵夫人とともに子どもの世話を担っていた。


伯爵夫人は若くして結婚したが、出産をきっかけに身体の自由を失い、長く病弱な生活を送ったと伝えられる。ピアノの素養があり、ベートーヴェンの音楽を深く理解した良き聴き手であり、パトロンであり、精神的な相談相手でもあった。


1815年9月19日、ベートーヴェンは彼女に宛てて一通の手紙を書く。その一節は、のちにフランスの作家ロマン・ロランが『ベートーヴェンの生涯』で紹介し、作曲家の人生観を象徴する言葉として知られるようになった。


「われわれ有限の存在は、悩みのために、そしてまた歓喜のために生まれてきている。優れた人々は、苦悩を突き抜けて歓喜をかちとるのだ」(趣意)


とくに「苦悩を突き抜けて歓喜を(durch Leiden Freude)」という一句は、ベートーヴェン自身が下線を引いて強調している。


この手紙が書かれたころ、伯爵夫人もまた、息子の死という深い悲しみの中にあった。事情を知ったベートーヴェンは、2日後の追伸で「近親者の思いがけない死ほど悲しいことはない」と述べ、自身の弟の死を重ね合わせながら彼女を慰めようとする。


ここには、病と死をめぐる二人の「苦悩」が静かに交差している。身体の不自由と子の死に苦しむ伯爵夫人。難聴と孤独に苛まれながらも作曲を続ける音楽家。ベートーヴェンは、「苦悩」をただの不幸としてではなく、「歓喜」に到達するために通り抜けねばならない道として捉え直そうとしていたのである。


「突き抜けて」という語は、苦悩から逃げることでも、忘れようとすることでもない。そのただ中に身を置きながら、それでもなお歓喜を求め、手を伸ばす姿勢を意味している。古代ローマ以来の格言「苦難を越えて星々へ(per aspera ad astra)」を思わせるが、ここで彼が思い描いていた「星々」とは、シラーの詩とも響き合う「歓喜の光」だっただろう。


エルデッディ伯爵夫人宛の書簡には、病と孤独のなかでなお生きようとする人間の声が刻まれている。その中から凝縮された「苦悩を突き抜けて歓喜へ」という一句は、やがて《第九》終楽章の「歓喜に寄す」と結びつき、音楽の次元で普遍化されてゆく。傑作の背後には、一人の病弱な女性パトロンとの、静かで深い対話があったのである。

  • マリー・エルデッディ

むすびに 女性知識人たちが照らすベートーヴェン

ボンの知的空間を照らしたバベッテ・コッホ、才筆をもって啓蒙の太陽を歌ったゾフィー・メロー、ゲーテとベートーヴェンを結んだ才媛ベッティーナ・ブレンターノ、そして「苦悩を突き抜けて歓喜へ」という名句の受け手となったマリー・エルデッディ伯爵夫人。


4人の女性は、それぞれ異なる階層・背景・性格・運命を背負っていた。しかし共通していたのは、単なる男性社会の「周辺の女性」ではなく、時代の精神を担う知識人だったという点である。


ベートーヴェンは、こうした女性たちとの出会いのなかで、自らの音楽を、娯楽を超えた「自由と尊厳、真理と歓喜をめぐる思想の表現」へと高めていった。《第九》の「歓喜」の響きの背後には、ここで見てきた4人の女性たちの声も、静かに、しかし確かに重なっているのである。



【追記】本稿では4人の女性知識人との交差から、ベートーヴェンの精神世界の一端を紹介した。こうした対話の軌跡と《第九》への長い道のりについては、拙著『哲学するベートーヴェン カント宇宙論から《第九》へ』(講談社選書メチエ)にさらに詳しく論じている。関心をもたれた方に、ぜひ手に取っていただければ幸いである。

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