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吉野朝残党伝 序章ためし読み

12月5日発売『吉野朝残党伝』の発売を記念して、序章を無料公開!
天野純希の手による、信念と大義そして謀略と欲望が交錯する時代を描く、長編小説!
「野村胡堂賞」受賞後 初単行本!

推薦コメント到着!

「混沌とした時代の闇を切り開く、御神刀のような物語。戦を重ね続け、最終地点で見えた真実に鳥肌が!」(紀伊國屋書店福岡本店 宗岡敦子氏)

「活き活きとした人物描写と、練りに練られた背景描写で、私の心のうちにある距離と時間を易々と超えてしまった作品。後南朝時代に見事に引きずり込んでしまうその筆致、ぜひ堪能してほしい」(さわや書店 栗澤順一氏)


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序章 寄る辺なき者

 

 両手ですくった水を喉に流し込むと、暑さですっかりやられた体がほんの少しだけ生き返る心地がした。

 我慢しきれず、川面に顔を突っ込み、喉を鳴らして飲んだ。名も知れない小川の冷たい水が、体中に染み渡る。

 多聞(たもん)は顔を上げ、頭を振って水を払った。他の下人たちも下帯一つで川に入り、それぞれに疲れきった体を冷やしている。

 岩魚が泳いでいるのが見えた。空腹を覚えたが、捕まえて食っている暇はない。

 雲一つない空からは相変わらず、殺意すら感じる凶悪な日射しが降り注いでいる。

 去年は真夏でも身震いするような寒さだったが、この夏の暑さは尋常ではない。梅雨時にもまるで雨が降らなかったので、今年も凶作は間違いないだろう。

 来年まで、飢え死にせずに生きていられるだろうか。喧しい蟬の鳴き声を聞きながら、ぼんやりと思った。

「お前、小さいけどいい体してるな。いくつだ?」

 近くにいた若い下人が、声をかけてきた。見たことのない顔だが、この稼業だけあって、体つきはがっしりとしている。

「言っとくが、俺はそっちの趣味はねえぞ」

 声を出すのも、人と喋るのも、数日ぶりだ。面倒なので素っ気なく答えたが、男は気にする素振りもなく、日に灼けた顔に笑みを湛えている。

「安心しろ。俺もその気はねえ。俺は太郎丸。お前は?」

「多聞。十三だ」

 本当の歳は知らないし、興味もない。たぶんそのくらいだろうというだけだ。

「へえ、俺より三つも下か。ここは長いのか?」

「三年」

「そりゃすげえ。あんな奴の下で、三年とはな」

 声を潜めて言うと、太郎丸は横目で河原を見た。

 その視線の先では、棟梁の甚右衛門(じんえもん)が地面に立てた日傘の下で、瓢(ひさご)の酒を呷っている。歳の頃は三十半ば。烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)、腰には金銀をちりばめた派手な太刀。傍らに侍る下人に扇子で風を送らせる様は、尊大そのものだ。

 馬借をはじめる以前は戦場で名の知れた侍だったというが、それも納得できる厳めしい風貌と堂々たる体躯だった。

「俺はいつか、商いをはじめる。どうだ、お前も俺の下で働かねえか?」

「何言ってやがる、馬借の下人風情が。馬鹿げた夢なんか見てないで、明日の飯の心配でもしたらどうだ」

「冗談じゃねえ。死ぬまで誰かにこき使われるなんて、俺はまっぴらだぜ。せっかくこの世に生まれてきたんだ、でっかい夢を持たなきゃ……」

 面倒な奴に絡まれた。辟易しながら太郎丸の自分語りを聞き流していると、河原から「出発だ!」という甚右衛門の声が響いた。見ると、いつの間にか馬に跨(またが)っている。

「期日に遅れでもしたら全員、耳鼻削いで召し放ちぞ!」

 耳障りな胴間声(どうまごえ)に、多聞は眉を顰(しか)めた。

 召し放ちは望むところだが、耳や鼻を削がれてはたまらない。下人たちは、嘆息しながら川から上がった。多聞は着古した継ぎだらけの単衣を羽織り、帯代わりの麻縄を締める。

 大の大人でも立つのがやっとなほどの荷を背負い、甚右衛門の後について歩き出した。

 一行は甚右衛門以下、二十人の下人と、鎧を着込み、弓や薙刀を手にした兵が十五人。兵は甚右衛門の家来と、奈良で搔き集めた溢れ者たちだ。牛が曳く荷車は三台で、騎乗は甚右衛門一人。河内(かわち)で荷を受け取って大和(やまと)へ入り、奈良の興福寺まで届ける。それが今回の仕事だった。

 荷の中身は、大部分が辰砂(しんしゃ)だという。顔料や薬の材料になる高価な品らしく、下人たちよりもはるかに大事に扱われていた。辰砂の入った木箱を落とそうものなら、甚右衛門の容赦のない蹴りが飛んでくる。

 我ながらよく耐えているものだと、多聞は思った。

 親は、顔も名も知らない。生まれたばかりの多聞は、襁褓(むつき)にくるまれ寺の門前に捨てられていたという。物心ついた頃には同じような境遇の童たちと共に寺で暮らしていたが、その寺も三年前に戦で焼かれ、雑兵に捕まった多聞たちは、人買い商人に売り飛ばされてばらばらになった。

 市場で多聞を二束三文で買い叩いたのが、甚右衛門だ。それからは文字通り、牛馬のごとくこき使われている。いや、働いた分の餌を貰えるだけ、牛や馬の方がましだろう。

 多聞と一緒に買われた同年代の童は、一年と経たずに一人が病で死に、二人が逃げ出そうとして、甚右衛門と家来たちに殴り殺された。飢饉に疫病、あちこちで繰り返される戦のせいで、親を亡くした童など、市場へ行けばいくらでも手に入る。

 人の命は、牛や馬よりずっと安い。多聞はそのことを、この三年の間に嫌というほど学んだ。生き延びるために必要なのは、丈夫な体と、何より運だ。

 

――――――――


 河原から街道に戻って半刻ほど進むと、徐々に道が険しくなってきた。

 河内、大和国境の山々だ。ここの峠をいくつか越えれば、道のりはいくらか楽になる。

 喘ぎながら上り坂を進んでいると、道は次第に狭くなった。両側に茂る木々に日の光が遮られ、いくらか涼しい。

「何だこれは!」

 前方から、甚右衛門の声が聞こえた。

 顔を上げると、行列が止まっていた。巨大な倒木が、道を塞いでいるのだ。

「下人ども。すぐにこの木をどけよ!」

 甚右衛門が苛立たしげに命じる。

 どかせてほしけりゃ、少しは休ませろ。腹の中で毒づきながら、背中の荷を下ろす。

 下人たちが並んで倒木を持ち上げようとするが、びくともしない。甚右衛門は床几(しょうぎ)に腰を下ろし、兵たちは得物を置いて各々座り込んで休んでいる。

「どうした、早くしねえと日が暮れちまうぞ!」

 兵の一人が野次を飛ばした。

「俺は奈良で愛しい女房が待ってんだ。さっさと帰って一発やりてえんだよ!」

 他の兵たちから、げらげらと笑いが起こる。

「だったらてめえらも手伝えってんだ」

 下人の一人がぼそりと呟いた刹那、多聞の耳元を何かが掠め、頰に鋭い痛みが走った。

 直後、隣にいた下人がいきなり倒れ込んできた。その喉を、一本の矢が貫いている。

 声を上げる間もなかった。森の中から次々と矢が放たれ、下人たちが倒れていく。多聞はもたれかかってきた死体を盾に、倒木の陰に隠れた。

「盗賊だ、森の中にいるぞ!」

 叫んだ下人が眉間を射抜かれ、棒のように倒れる。矢が止んだかと思うと、森の中からいくつかの人影が飛び出してきた。腹巻を付け、太刀や薙刀を手にしている。

「者ども、迎え撃て!」

 甚右衛門が叫び、たちまち斬り合いがはじまった。怒号と悲鳴、剣戟(けんげき)の音が交錯する。多聞は死体の血と汗の臭いに吐き気を覚えながら、周囲を窺(うかが)った。

 襲ってきた数人は、かなりの手練れのようだ。護衛の兵たちはたちまち斬り立てられ、数を減じていく。甚右衛門も太刀を手に戦っているが、殺されるのは時間の問題だろう。あの太郎丸とかいう下人がどうなったのかもわからない。

 くそっ、最悪だ。声に出さず吐き捨てた。あの連中は、こちらを皆殺しにするつもりだ。このままここにいては殺される。逃げるなら、今しかない。

 音を立てないよう死体をどけ、倒木を乗り越えた。駆け出し、一息で森に飛び込む。そのまま、ひたすら急な斜面を下った。枝が全身を打ち、あちこちから血が流れるが、構ってはいられない。息を切らしながら、脇目も振らず走る。

 斜面を下りきったところで足を止め、振り返る。悲鳴も剣戟の音も、もう聞こえない。賊が追ってくる気配もなかった。

 何とか、生き延びることはできた。大きく安堵の息を吐いて、その場に座り込む。

 甚右衛門は殺されただろう。これで、晴れて自由の身だ。だがその喜びは、すぐに漠とした不安に取って代わられた。

 銭も行くあてもない。奈良に戻るか。いや、いっそ京へ出てみるか。一度も行ったことはないが、奈良よりも多くの人がいるらしい。選り好みしなければ、仕事の口もあるだろう。

 腹の虫が盛大に鳴った。まずはここから少しでも離れ、腹ごしらえだ。この山の中なら、兎の一羽くらい捕まえられるだろう。

 立ち上がりかけたその時、かすかに血の臭いを感じた。直後、正面の藪が揺れる。身を隠そうとしたが、その前に「おい」と声がした。

 聞き慣れた胴間声。現れたのは、やはり甚右衛門だった。血に塗(まみ)れた太刀を手に、肩で息をしている。烏帽子は失われ、直垂はあちこちが破れていた。賊に斬られたのか、だらりと下げた左腕の先からは、血が滴っている。

「主を置いて逃げるとは、とんだ不忠者よ。可愛がってやった恩を忘れたか」

 殺気をまき散らしながら、甚右衛門は太刀を肩に担ぎ、距離を詰めてくる。

「ふざけるなよ。いつから、ろくな食い物も与えねえで散々こき使うことを、可愛がるって言うようになったんだ?」

「口の減らん餓鬼よ。不忠者には、相応しい罰を与えねばな」

 甚右衛門が踏み込んできた。振り下ろされる太刀を、後ろに跳んでかわす。転がりながら手近な石を摑み、投げつけた。呻き声を上げた甚右衛門が蹲(うずくま)った隙に、身を翻して駆ける。

 だが十歩も走らないうちに、多聞は「痛ぇっ!」と悲鳴を上げ、前のめりに倒れた。

 尻に、小刀のような物が突き刺さっている。小柄(こづか)というやつだ。歯を食いしばって引き抜き、何とか立ち上がるが、もう思うように走れそうもない。

「すまんな、痛かったろう。だが、お前と追いかけっこをするほど暇ではないのでな」

 再び振り返った。甚右衛門との間合いは、およそ一間半。口元には、下人を殴り殺した時と同じ陰惨な笑みを浮かべている。

「てめえ、人の尻に穴増やしといて、へらへらしてんじゃねえよ」

「気にするな。どうせすぐ、その首は胴から離れるのだ。穴が一つ増えたくらい、どうということもあるまい」

 全身を打つ殺気に、じわりと汗が滲んだ。

 逃げたところで、背中から斬られるだけだ。戦うしかない。ここで殺さなければ、殺される。生まれてよかったことなど一つもないが、斬り殺されるのは嫌だった。

 肚(はら)を決め、甚右衛門を見据えて笑う。

「哀れなもんだな。商いをしくじった腹いせに、童いじめかよ。それとも、あんたが野盗に襲われて、尻尾巻いて逃げたって言いふらされるのが恐いのか?」

 甚右衛門のこめかみが、びくりと震えた。

「その減らず口、あの世で後悔いたせ!」

 踏み出し、太刀を振り上げる。同時に、多聞も前に出た。握り込んだ砂を、甚右衛門の顔目がけて投げつける。わずかに動きが鈍った甚右衛門の懐に、上体を屈めて飛び込む。勢いのままぶつかり、もつれ合うように倒れた。

 馬乗りになった。叫び声を上げながら、甚右衛門の顔面に肘を叩きつける。二度、三度、四度。前歯が折れ、鼻から血が噴き出す。

「おのれ……!」

 襟首を摑んで撥ねのけられた。再び間合いが開く。太刀は、二人のちょうど中間に落ちていた。

 先に動いたのは多聞だった。身を投げ出すように地面に飛び込み、太刀を摑んで立ち上がる。甚右衛門は舌打ちし、脇差しを抜き放つ。

 手にした太刀は、思っていたよりもずっと重かった。触ったこともなければ、使い方もよくわからない。だが、やるしかなかった。

 大きく息を吸い、吐き出す。それを、幾度も繰り返した。両手で握った太刀を腰のあたりで構え、踏み出す。渾身の力を籠め、突きを放った。

 太刀を払いのけようと、甚右衛門が脇差を振る。その刃が、二の腕に浅く食い込んだ。だが痛みを感じるより先に、太刀の切っ先は甚右衛門の喉元を捉えた。

 重い手応え。切っ先が、うなじから突き抜ける。驚愕の表情で目を見開き、甚右衛門は血を吐きながら崩れ落ちた。

 太刀を引き抜く。甚右衛門は全身を一度大きく震わせ、それきり動かなくなった。

 張り詰めた糸が切れたように、全身の力が抜けた。骸の傍らにへたり込み、荒い息を吐く。

 開いたままの甚右衛門の目が、虚空を見つめていた。喉元の傷口は、見知らぬ獣の口のようだ。これを、自分がやったのか。悪い夢を見ているようで、現(うつつ)とは思えない。

 思い出したように、傷が痛みはじめる。顔を顰めると、いきなり背後から声がした。

「見事だったぞ、童」

 ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。弾かれたように立ち上がり、間合いを取る。

「相手が手負いとはいえ、侍を討ち果たすとは。歳のわりに、膂力(りょりょく)もある。よほど過酷な労働を強いられてきたのだな」

 長身の、若い僧侶だった。傍らにはなぜか、薙刀を手にした小柄な武者を一人従えている。ずっとそこにいたかのような佇まいだが、気配などまるで感じなかった。

 僧侶は編み笠をかぶり、汚れた僧衣をまとってはいるものの、髪は総髪で、貴公子然とした端整な顔に微笑を湛えていた。武者を従えていることとあいまって、どこかちぐはぐな感じがする。

 武者の方は、腹巻に籠手、脛当て。顔には半首という、額から頰を守る防具。女子のように長い黒髪は後ろで一本にまとめ、身の丈ほどの薙刀を手にしている。よく見れば、歳の頃は多聞と同じくらいだろう。色白で目鼻立ちははっきりとしているが、そこに表情らしきものは見えない。

「お前ら、荷を襲った賊か?」

 太刀を構えるが、二人から殺気は感じない。ひとまず、多聞を殺すつもりはなさそうだ。

「賊とはまた、ひどい言われようだな」

 屈託のない声で、僧侶が答えた。

「確かに、この国の有りようを良しとする者たちにとって、我らは秩序を乱す賊であろう。弱き者たちを虐げ、強き者のみが栄える、今の世ではな」

「何言ってるかわかんねえよ。俺は、襲ってきたのはお前らかって訊いてんだ」

「さよう。あの荷は興福寺に運ばれたところで、富める者たちをさらに富ませるだけだ。だが我らが手に入れれば、辰砂を売り捌いた銭で、多くの者が救われる」

「施しでもしようってのか。気に入らねえな」

 多聞のいた寺や奈良の寺社でも時々、施粥(せがゆ)を行っていた。だがそんな思いつきですべて救えるほど、飢えた民の数は少なくない。あの連中にとっては弱者への施しなど、自分が悦に入るためのものにすぎないと、多聞は思っている。

「それより、俺に何か用か? 殺すつもりがないなら、放っておいてくれよ」

「その馬借の頭領を討つつもりで追ってきたのだが、そなたが先に手を下してしまったのだ」

「じゃあ、話は終わりだな。俺は行くぜ」

 甚右衛門の骸から鞘を取り上げ、太刀を納めた。売り飛ばせば、それなりの値になるだろう。

「まあ待て。まだ話は終わっていないぞ」

「何だよ、しつこいな」

「そなたには見どころがある。どうだ、我らの同志にならんか?」

「同志?」

「弱き民草(たみぐさ)を虐げ、我が世の春を謳歌するすべての武士、公家、寺社、有徳人(うとくにん=金持ち)どもを倒し、あるべき世を作り上げる。それが、我らの志だ。戦い方は教えてやる。共に来ぬか?」

 この僧侶が何を言っているのか、多聞には飲み込めなかった。だが、何か途方もないことをやろうとしていて、自分を仲間にしようとしていることはわかる。

 しかし多聞にとっては、世の中のことなどより、明日の飯の種の方がよほど大事な問題だ。

「やだね。世直しがしたけりゃ、あんたたちだけで勝手にやってくれ。やっと晴れて自由の身になったんだ。俺は、俺の好きなように生きる」

「ならば、賭けをしてみぬか? そなたがこの御方と勝負して勝つことができれば、一年は楽に暮らせる銭をやろう。負ければ、我らの同志となる」

 僧侶は、傍らの武者に目をやった。口ぶりからすると、この武者の方が主筋になるらしい。

「冗談じゃねえ。こっちはあちこち怪我して、尻に穴まで開いてるんだ。そっちの方が有利じゃねえか」

「そなたはその太刀を使ってもいいが、この御方には、徒手で戦っていただく」

 武者は不服げに僧侶を見やったが、口を挟むことはなかった。負けることなどないと決めてかかっているらしい。

「まあ、傷を理由にして逃げるとあらば、それもよかろう。ここで出会ったのも何かの縁だ。山を下りたら、この銭で何か美味い物でも食うといい」

 僧侶が懐から取り出した小ぶりの袋を投げた。音からして、それなりの額だろう。かっと、腹の底が熱くなった。

「てめえ、何のつもりだ。俺は、物乞いになった覚えはねえぞ」

 声音に籠めた怒気を、僧侶は涼しい顔で受け流す。

「わかった。その勝負、乗ってやる」

 答えると、僧侶はにやりと笑った。

 勝てば、一年分の銭。負けたところで、殺されるわけではないだろう。悪い話ではない。人の世など所詮、博打と同じだ。

 薙刀を僧侶に預け、武者が進み出た。多聞も太刀を抜き、構えを取る。武者の身の丈は、小柄な多聞よりもさらに小さい。冷ややかなその目つきからは、やはり感情が窺えない。

 一間余の間合いで向き合った。

「いつでもよい。かかってまいれ」

 初めて、武者が声を発した。女のような高い声音が癇に障る。多聞は一気に踏み出し、太刀を振り上げた。

 いきなり、武者の姿が消えた。と同時に、顎に凄まじい衝撃が走る。掌打を食らったのか。視界が揺れ、手から太刀が落ちた。膝を突きそうになるが、何とか堪える。

「このっ……!」

 懐に入った武者を捕まえようと手を伸ばすが、逆に右腕を抱え込まれた。次の刹那、天地が回り、背中から地面に叩きつけられ、「ぐえっ」と間の抜けた声が漏れた。

「どうした、もう終わりか?」

 大の字に倒れた多聞に、僧侶が声をかけてきた。武者は相変わらずの無表情で、こちらを見下ろしている。

 幻術の類いか。いや、違う。腕を取って投げ飛ばされたのだ。理解し、立ち上がった。足が軽くふらつくが、まだ戦える。

「おかしな技、遣いやがって。まだ終わりじゃねえぞ」

 太刀は離れた場所に落ちていて、拾うには距離がある。足に力を籠め、武者に向かって突っ込んだ。顔を狙い、固めた拳を突き出だす。だが、呆気なくかわされ、足払いをかけられた。すかさず立ち上がり、武者に飛びかかる。再び腕を取られ、また投げ飛ばされた。

「畜生、まだだ……!」

 肩で息をしながら体を起こすと、再び武者の姿が消えている。背後から、腕が伸びてきた。武者の両腕が首に絡みつき、締め上げる。振り解こうともがくが、腕は外れない。さらに力が籠められた。多聞の両腕はだらりと下がり、視界の色が次第に薄くなっていく。

 抗う力も尽きかけた時、多聞の鼻を、ほのかな甘い匂いがくすぐった。

 もしかしてこいつ、女子か。薄れゆく意識の中で、多聞はぼんやりと思った。

 

――――――――


 目覚めると、僧侶と武者が多聞を見下ろしていた。

 どれほど気を失っていたのか、すでに日が暮れはじめている。あちこち痛むが、どうやら死んではいないらしい。

「約束だ。そなたと我らは、今日から同志だ」

 僧侶が笑みを浮かべて言う。差し出された手を乱暴に摑み、多聞は上体を起こした。

「まだ、名を聞いていなかったな」

「……多聞」

 素っ気なく答えると、僧侶はほんの少しだけ驚いたような顔をした。

「そうか、かの楠木正成の幼名と同じ名とはな。これも、天の導きやもしれぬ」

「誰だよ、楠木なんとかって。で、あんたは?」

「私は鳥羽尊秀(たかひで)。かの後鳥羽帝の後裔であり、今は吉野の朝廷にて、一軍を預かっている」

 またしてもわけがわからない。吉野というのは、奈良の南にある山奥の村のことだろう。だが朝廷というのは、京にあるもののはずだ。

「この国の歴史を何も知らぬようだな。まあよい、おいおい教えてやろう」

 尊秀が、隣の女武者に顔を向けた。

「この御方は、後醍醐帝に連なる高貴な血筋にあらせられる。御名は、敦子様。これからは、こちらの姫君を主君と思い、お仕えいたせ」

 高貴な血筋と言われても、ぴんとこなかった。京の都には幕府があり、将軍がいて、その上に帝がいるらしいことは、多聞もぼんやりとだが知っている。しかしその帝の一族が、なぜこんなところで雑兵のような恰好をしているのか。

 当の敦子は、相変わらず押し黙ったままだ。何を考えているのか、まるでわからない。

「何のことやら、俺にはさっぱりだ。結局あんたたちは、一体何者なんだ?」

 たまらず訊ねると、尊秀は微笑を湛えたまま答えた。

「我らは、百年前に崩御(ほうぎょ)なされた後醍醐帝の御遺志を継ぐ者。幕府の者どもは、南朝残党などと呼んでいるようだがな」

 尊秀は微笑を消し、多聞の目を真っ直ぐに見つめ、続ける。

「そなたのこれまでの生が苦しいものであったのは、そなたが悪いわけでも、運が無かったせいでもない。幕府の悪しき政と、それを良しとする権力者たちによって、そなたたちは苦しめられてきたのだ」

 尊秀の言葉は、多聞の耳ではなく、心に直接響いてくるような気がした。

 お前は悪くない。そんな言葉をかけられるのは、生まれてはじめてだった。

 生きたければ身を粉にして働け。お前の代わりなど、いくらでもいる。恨むなら己の運の無さを恨め。これまで多聞が浴びてきた罵声の数々が、耳の奥に蘇る。

「人は、牛や馬とは違う。人が生まれながらにして、人として生きていける。そんな世を作るため、我らは幕府を倒さねばならん。共に、戦ってはくれぬか?」

 その真摯な眼差しに、多聞は戸惑いと同時に、血の昂(たか)ぶりを覚えた。

 死なないために生きるだけの、先など見えない真っ暗な日々。それを、終わらせることができるかもしれない。

 難しいことは何もわからないが、その予感だけは、はっきりと感じることができた。


序章 終わり



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作家
天野純希(あまの・すみき)
1979年、愛知県生まれ。2007年、『桃山ビート・トライブ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『破天の剣』で中山義秀文学賞、19年に『雑賀のいくさ姫』で日本歴史時代作家協会賞作品賞、23年に『猛き朝日』で野村胡堂文学賞を受賞。著書に『青嵐の譜』『南海の翼 長宗我部元親正伝』『戊辰繚乱』『信長 暁の魔王』『覇道の槍』『北天に楽土あり 最上義光伝』『蝮の孫』『燕雀の夢』『信長嫌い』『有楽斎の戦』『もののふの国』『乱都』など多数。