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緑閃光 第3話

主な登場人物
ラー…ラパヌイに漂着した遠い島国ヒヴァの王子。ラパヌイ伝説に取り憑かれている。
パプアニ…ラーの教育係。老人で投石の名手。物知りで薬草の調合にも秀でる。
ヌガアラ…トンガリキ部族の戦士長(マタ・トア)。面長の長髪で精悍な顔立ちの美男。
ピロピロ…奴隷の童。
アリンガ…ヌガアラの腹心の巨漢。全身の筋肉は岩石でできているかのよう。

 

©井上晴空

第Ⅱ章 ラパヌイの十字星
――一七七〇年四月、トンガリキ王国・洞窟牢

 荒い風と遠く砕ける波の音で、ラーは目を覚ました。

 ヌガアラたちに海辺の崖にある小さな洞穴へ案内されたのはもう明け方で、すぐ眠りに落ちた。

 日はもう高く昇っている。

(ここが、ラパヌイか……)

 夢にまで見た伝説の地にたどり着いたものの、そこは戦争と地獄の島らしかった。どうやら故郷へ戻れそうになく、パプアニの安否もわからない。それでも、今はとにかく、ここで生き抜くしかないのだ。

「王子さん、よく眠れやしたかい?」

 洞窟の中でラーが伸びをしていると、痩せぎすの髑髏(どくろ)が牢の入口に座り込んだ。島外の人間に興味津々らしく、世話を買って出たのである。名はチーコと言う。

「ああ、たっぷり寝たよ。三十五日も、ずっと波に揺られっ放しだったからな。地面が動かねぇだけで、気が休まる」

「船の上じゃ、どうやって日を数えるんですかい?」

「太陽が昇るたび、綱に結び目を作るんだ。嵐に遭った日に、そいつが三十五あった」

「なるほど、そいつはご苦労様なこってすな」

 髑髏顔が笑うと、二、三本抜けた黄色い歯並びが見えた。

 投降したラーは、大王の許しが得られるまで、ひとまずトンガリキ集落の東のはずれにある洞窟牢へ入れられた。火山島であるラパヌイには洞窟が大小数百あり、場所や大きさに応じ、住まいや集会所などに用いられているらしい。

 牢に格子などはなく、幾つかある牢を数名の番兵が交代で見張っていた。

「腹が減って、喉も渇いた。チーコ、何かくれよ」

「ちょいと待ってなせぇ。親分の客人なら、ごちそうがもらえるはずだ」

 チーコはよっこらしょと立ち上がり、少しふらつきながら番小屋の中へ消えていった。

 離れた牢から、啜り泣くような声が聞こえてくる。女のようだ。

 聞き耳を立てていると、チーコが細長い芋(クマル・さつまいも)一本と水の入った小さな石の器(タヘタ)を手に戻ってきた。何やら顔らしきものが彫ってある。

「泣いてる女がいるな。何をしたんだ?」

「幼い子どもが飢えちまうからって、芋を一個盗んだんでさ。わが部族じゃ、盗っ人は厳罰ですからね」

 チーコはひそひそ声で答えながら、しなびた芋をひょいと差し出してきた。

「ありがとよ(マウルル)。ラパヌイじゃ、芋を生で食うのか?」

「燃料は貴重なんですぜ。戦士なら、毎日火を使えやすがね」

 ざくざくと芋を平らげ、水をひと口で飲み干すラーを、チーコが物欲しそうに見ていた。

「空腹なら何だって美味ぇけど、この島じゃ、芋一本でごちそうなのか」

「戦士になりゃ、もっと食えますがね」

「もう一杯、水をくれ」

「無理言っちゃいけねぇ。王子さんはまだ牢にいるんですぜ」

 淡水は貯めた雨水のほか、噴火口の底にある池や沼、数少ない井戸、満潮線と干潮線の間の海底から湧き出る真水くらいしかないという。ヒヴァでは水に困らず、椰子の実の果汁も楽しめた。

「戦士は砂糖黍(サトウキビ)の汁を吸えますぜ。もしかしてヒヴァじゃ、腹いっぱい食えるんですかい?」

「ああ。まぐろだって獲れるし、鶏の肉も、麺麭(パン)の木の実もある」

 思い出すだけで、ラーの腹がぐぅぐぅ鳴った。

「羨ましいねぇ。ずっと昔はラパヌイも緑に覆われて、実の生る木が山ほどあったそうだけど、可哀そうにあっしの妹は飢え死にしちまった。ああ、腹減ったい」

 しみじみと漏らしながら、チーコがへこんだ腹をさすっている。骸骨のように痩せ細っているのは、単に飢えているせいだ。

「食い物の話はやめだ、やめだ。それより、あの変わった形のでかい山は、何だ?」

 集落の向こうに、双頭の山がどっしりとそびえている。

 平坦な草原からにわかに高度を増して立ち上がる広大な山は、真ん中の山頂部分がまるで巨人にでも喰くわれたように、ぎざぎざに凹んでいた。

「聖なる山、ラノララクでさ。大王様が即位なさる前は、あの山の石切り場で、各部族の奴隷たちが寄ってたかってモアイを切り出してたんですぜ」

 死期を悟った始祖王は、三角形の島を六人の息子たちに分け与えたとされる。所領(マタ)は時を経てさらに分割され、十二部族が千年もの間、分立してきた。

 時代を追うにつれ、各部族の民は〈王族、神官、戦士、平民、奴隷〉の五階級に分かれ、それぞれ一人の王によって支配されるようになった。トンガリキ部族にテトカンガが出ると、史上初めて武力による統一に乗り出し、最大勢力であったアカハンガ部族を内紛に付け込んで滅ぼし、急速に強大化した。

 今では、周辺部族を呑み込んだ東のトンガリキに、西の五部族が結んだハンガロア連合が対抗し、両勢力の狭間で、始祖王以来の王宮と最高聖地を治める北のアナケナ部族が中立を保っているという。

「三角島の東の端がプアカティキ山のあるポイケ半島で、王子さんが漂着した所でさ。あっしらは今、半島の南の付け根にいる」

 尖った石でチーコが砂の上に島の地図を描いてゆく。

 大王は、半島を島から切り離すように長大な堀を作らせ、禁足地とした。三角形の東がトンガリキ、西がハンガロア連合だ。その中間にある北のアナケナの方角へ、パプアニは逃れたことになる。

「もとは同じ一族なのに、戦争をやめられねぇのか?」

「無理でさ。これだけ殺し合ってりゃね。あっしの兄貴も敵に殺されやした。東西戦争はどっちかが相手を滅ぼすまで、終わらねぇ」

 髑髏顔に浮かんだ暗い憎悪に気付き、ラーは話題を変えた。

「ここにも、モアイって石像がたくさんあるんだな」

 離れた海辺に、数十の巨像が地から生え出るように、にょきにょきと立ち並ぶ姿が見えた。

「どの部族も祀ってやすよ。もちろんうちが一番立派ですがね」

 チーコはあばらの浮き出る胸をいくぶん張って見せた。

「何のために、あんな大きな像を作るんだ?」

「部族の守り神でさ。あの下には、あっしらの偉大なご祖先様が眠っていらっしゃる」

 モアイは先祖の墓標でもあるらしい。その眼に宿る霊力(マナ)を、神官たちが引き出すことで部族は厄災を免れる。魚や亀が時期を間違えずに島を訪れ、家畜が繁殖し、野菜や果物が豊かに実るのもモアイのおかげだ。

 では、あの白モアイの背後にあった白骨の塚も、墓地だったのか……。

「だけどこの百年ばかり、モアイの霊力(マナ)が弱ってきて、島も人も貧しくなる一方なんでさ。よその神官たちによると、祭礼が足りねぇかららしい。もっと大きなモアイを作って、盛大な祭礼をたくさんやらねぇと、ラパヌイは破滅するんだそうで」

「さっき、モアイ作りはやめたと言っていたな?」

「うちがラノララクを独り占めして、他の部族にゃ入らせねぇもんで。石切り場じゃ今、奴隷たちが大王のためにばかでかいモアイを作るために働かされてまさ。まったく王子さんは運がいいぜ。戦士から始められるなんてよ」

 トンガリキでは毎日のように、奴隷たちが過酷な労働で死んでゆくという。

「俺は本当に助かるのかな」

「安心しなせぇ。親分の約束だから、間違いねぇ」

「ヌガは、皆に慕われてるみたいだな」

 わが事のように、チーコががりがりの胸を張る。

「この島の希望でさ。まだお若いけど、大王様と賢者(マオリ)に何か文句を言えるとすりゃ、戦士長(マタ・トア)の親分だけですからね」

 大王は神官でもある老賢者オウロウパロを片腕としてのし上がったため、賢者の権勢は大王に次ぐ。各部族の戦士長は王や神官の手先となって民をしばしば苦しめたが、ヌガアラはいつも弱き民の味方だと、チーコは力説した。戦士はもちろん、平民や奴隷たちの間でも人望があるらしい。

「ここだけの話、大王様と代わってくれねぇかって、内心じゃ皆、思ってまさ」

「だけど、敵にも猛者がいるんだろ?」

「ハンガロア連合の戦士長でさ。あいつさえいなきゃ、世の中うまく回るんだけどねぇ――おお、親分がおいでなすった」

 番兵たちが、颯爽と現れた偉丈夫を恭(うやうや)しく出迎えている。

「待たせてすまぬな、ラー」

 ラーも見られる顔つきだが、物憂げで苦み走ったヌガアラの容貌は戦士というより、吟遊詩人を思わせる。

「大王がご多用のため、実はまだお会いできていないのだ。面会のお許しが出るまで、わが町を案内しよう」

「おう」と、差し出された手を握ると、ラーを力強く立ち上がらせてくれた。

 並んで、集落のほうへ歩き出した。

 前方を物々しい数十人の行列が街道を行き過ぎてゆく。十ばかりの大きな輿を奴隷たちが担ぎ、異様に耳の長い男たちが耳や首に派手な飾りをぶら下げていた。

「妙ちきりんな連中だな」

「神官たちだ。詳しいことは私も知らぬが、主神官ビナプーは、神事のために月に何度か禁足地へ足を運ぶ」

「島はどれくらいの広さなんだ?」

「二日もあれば一周できるが、今は東西に分断されて、行き来が難しい」

 ヌガアラが街道の向こうを手で示す。

「ここには平民たちが暮らしている。貧しくとも秩序が保たれているのは、大王のご威光ゆえだ」

 町には、大きなカヌーを逆さにしたような、舟屋(ハレバカ)と呼ばれる住居が整然と立ち並んでいた。穴を開けた長石を楕円に並べて砂糖黍の茎を差し込み、葦で屋根を葺いてあるという。

 強い海風を全身に浴びながら、ラーは異郷の島を歩いた。

「まるで風の島だな。ひっきりなしに吹いてやがる」

「森を失ったせいだ。昔は木々が遮ってくれたが、今では風が表土を乾かし、海へ流出させる。土はますます痩せて、島は力を失うばかりだ」

 森が豊かだった頃は泉がこんこんと湧き出たが、今では雨水を蓄えられず、降雨は土を削りながらそのまま海へ流れ出す。森の消失とともに川が途絶え、井戸水も涸れ、土地はあっという間に痩せ枯れた。今では最高峰テレバカ山の南東斜面を時々流れる涸れ川しかないという。タロ芋ひとつ育てるにも、窪地に苗床を作って周りに岩を積み上げ、風から苗を守らねばならなくなった。

「かくて農作は、過酷な労働となったのだ」

 ヒヴァはタヒチほど豊饒ではないにせよ、放っておけば実が生り、海へ行けば魚が獲れた。それが当たり前だと思っていたが、すべては豊かな緑の賜物だったわけか。

 大通りに入っても、集落はいたって静かだった。

「わが部族では、皆がまじめに働いている」

 老若男女を問わず、農作はもちろん繕い物、諸道具の修繕、はては武器作りに至るまで、それぞれの仕事で忙しいという。

 行き交う者たちは、ヒヴァよりも粗末ななりで、一見して身分の違いを判別できた。戦士は樹皮布(タパ)の服を着て黒曜石の短刀を腰に佩(は)き、奴隷は褌一丁の裸同然で、尻に渦巻状の入れ墨を入れていた。

 多くはラーと同じ褐色の肌だが、チーコに似た暗褐色やヌガアラのような色白の者も交じっている。女たちの姿はほとんどなかった。

 すれ違う者たちがヌガアラに丁重に挨拶してくる。

「北や西では王の下で神官が支配するが、トンガリキでは戦士が敬われている」

 各部族の神官たちは神事を司り、絶大な力を誇ってきた。体じゅうに美しい模様の入れ墨を入れ、耳たぶに大きな穴を開けて、重い耳飾りをぶら下げる。耳の長さが競われ、肩に届くほど長くなった耳こそが神官の証とされた。他方、トンガリキの神官は大王の小間使いにも等しく、むしろ「耳長」と馬鹿にされているという。

「わが部族では、強ければ誰でも戦士になれる」

 豊かな緑が輝く新天地に「楽園を作る」と宣言した始祖王の理想も虚しく、やがて各部族は長い耳を飾る支配層の「長耳(ツパホツ)」と、支配される「短耳(ミル)」に区別されていった。ひと握りの王族が神官たちを用い、戦士、平民、奴隷を支配する五階級制は、部族により差はあれ、ラパヌイ全島、十二部族で延々と続いてきた。

「だが当世、この出生によるいわれなき差別を打ち壊す英雄が現れたのだ」

 感極まった様子で、ヌガアラは声を震わせる。

「大王は仰せになったものだ。耳の長い人間がなぜ優れているのか。耳を引っ張って、何ゆえ強くなれるのか、と」

 大王は出自にかかわらず強き者を取り立てて戦士とした。逆に弱き者は、王族、神官であろうと、奴隷の境涯に落として働かせた。ゆえに男たちは強くあろうと日々努め、戦争で手柄を立てようと命を懸けた。女は美しさが尊ばれ、戦士たちに褒美として与えられる。とりわけ美しい女は後宮へ入れられ、大王の妻となった。

 まるで喪中のようにもの静かな人々をしり目に、町の一角でにぎやかな鶏声が上がった。

 石造りの鶏小屋(ハレモア)の中にいるため、姿は見えない。盗難を防ぐために、戦士が厳重に警護していた。

「鶏小屋は島に百以上あるが、他部族では鶏がもう数えるほどしかいない」

 始祖王が持ち込んだ鶏のほか、地上には鼠しか動物が生息していない。大王は神官たちに世話をさせて、貴重な食料源である鶏の飼育に力を入れてきた。戦士は、出陣前か祝祭の日に口にできる。

「それにしても、でっかい石像だな」

 海辺へ向かうと、林立するモアイが行く手に見えてきた。禁足地の白モアイよりもさらに巨大である。

「ここがアフ・トンガリキ。わが部族の偉大なる王たちを祀る祭壇(アフ)だ」

 灰や黄の石の巨人たちは、海を背にラノララクと対峙し、集落を睥睨(へいげい)していた。

 中央の長大な石造りの台座は白・黄・赤に彩られており、その上に立つ十四体はひときわ大きい。中央祭壇は、翼を広げるように、左右二つずつ小ぶりの祭壇を従えており、その上にはそれぞれ五体ずつのモアイが立っていた。

 ヌガアラに導かれて、ラーは小石の敷き詰められた広場の中央を進む。

 祭壇の石組は人間の倍ほども高さがあり、背面の海側は垂直に切れているのに対し、前面は玄武岩の玉石が敷き詰められた前庭に向かい、ゆったりと傾斜していた。

©井上晴空

 巨大なモアイは、一番大きなもので人の背丈の四、五倍はあった。皆、長い耳と尖った鼻を持ち、閉じた口で顎を突き出している。薄い耳は顔の半分ほども長さがあり、鼻孔の中は渦を巻いていた。特徴は同じでも、大きさや顔つきが一体一体違っている。

「この三十四体のモアイはすべて、夏至の日没の方角に向かって正確無比に設計されている」

 ヒヴァでも航海術の進展と併せて天文学が発達したが、ラパヌイ文明は高度な天文の知見を持つらしい。

「あの赤い被り物は何だ?」

 赤い岩の円筒を頭に載せるモアイが何体かいた。

「赤帽(プカオ)という。赤は高貴の印でな。赤石(ハニハニ)を砕いて染料に使う。大王は虚飾を嫌われるが、他部族では髪を赤く染めて髷を結い、地位ある者は様々な飾りを頭につけるのだ」

 祭壇の化粧板に鏤(ちりば)められた珊瑚の白、石組に帯状に並ぶ石の赤、新しいモアイの黄が色鮮やかだ。年に一度、夏至の夕日を浴びた時、モアイたちは最も美しく、一斉に輝き出すのだろう。

 ヌガアラは前庭で恭しく跪座(きざ)すると、石像に向かって聖歌を捧げ始めた。

 荘厳な節回しに、よく通る声を朗々と乗せている。

 ラーがアフの片隅で拝礼が終わるのを待つうち、信心深い戦士たちが三々五々現れ、同じように拝跪(はいき)し始めた。ヒヴァの文化と岐(わか)れて千数百年、宗教も儀式も大きく様変わりしていた。

 やがて祈りを終えたヌガアラが立ち上がる。

「他部族では今なお神事に明け暮れているが、トンガリキでは年に二度の祭礼を行うほかは、各自が望む時に祈りを捧げるのみだ」

「モアイ作りは大変だったろうな」

「ここにある一番小さなモアイでも、三十人がかりで一年半は掛かる。私も昔、奴隷の頃にやったが、もうご免だ」

 内心驚いた。奴隷の身から戦士長まで昇りつめたわけか。ヌガアラは二十六歳くらいだという。奴隷ゆえに、正確な齢がわからない。

「近く、最後の一体として、先王のモアイがここに立つ。三十五体の霊力(マナ)に守られて、わがトンガリキは全島を制圧するのだ。大王の下でラパヌイを再統一し、この腐乱した世を正すために、私は戦っている」

「西には強敵がいるそうだな」

 ヌガアラが厳しい表情でこくりと頷く。

「ラパヌイ第一の戦士、暴悪星(ぼうあくせい)のアウガオーラだ。ただ一人、あの男がいるために、この島はまだ統一されていない」

「アウガってのは、そんなに強ぇのか?」

「強い。私とアリンガで挑んでも、せいぜい互角だ。だが、そなたがいれば、取り囲んで奴の背後を取れよう。そなたをヒヴァから遣わされたのも、神々のご加護に相違ない」

 使い慣れた佩剣(サーベル)があればいいのだが、黒曜槍(マタァ)の鍛錬をする必要がありそうだ。

 二人の背後に人が立った。

 振り返ると、アリンガの巨体がある。

「主殿。拝謁のお許しが出た。王宮へ急がれよ」

「承知。ラーを洞窟まで送ってくれ」

 巨漢は黙ったまま、来た道を戻るようラーを手で促した。

「大王は賢明なお方ゆえ、助命をお認めになるはずだ。後ほど迎えに参る」

 ヌガアラは片手で合図すると、足早に広場を後にした。

 聖山ラノララクの麓に築かれた石の王宮は、十の石哨塔(ピピホレコ)を有する大きな砦状の建造物で、高さこそないものの、ラパヌイ最大を誇った。

 大王から下賜された黄の外套(カフ)をまとい、ヌガアラが薄暗い出入口に立つと、若い衛兵二人が背筋をぴんと伸ばし、きびきびと挨拶してきた。奴隷上がりの平民だが、戦場では命を張って戦う若者たちだ。次の戦いに勝って、戦士に推挙したいと考えていた。

 肩に軽く手を置き、「ご苦労」と声をかけてから、石積みの玄関をくぐった。

 ひんやりとする土の廊下を行くうち、神官たちが奥から来るのが見えた。先頭は団子虫を思わせる小柄で小太りの中年男で、似た体つきの男たちをぞろぞろ引き連れていた。禁足地での神事について報告を終えたのだろう。

(いつまで大王はこのような者をお使いになるのか)

 ビナプーは、剃り上げた頭に白と黒の羽で作った縁なし帽を被り、長い耳に魚骨の大きな耳飾りをぶら下げていた。

「これはこれは戦士長(マタ・トア)殿。ついにヒヴァの凶星が現れたそうですな」

 この男の裏返った声を聞くと、虫酸が走る。引き攣った作り笑いには、敵意さえ覚えた。

 もともとビナプーはハンガロア連合に属するマタベリ部族の神官だったが、オウロウパロの誘いに乗って離反した。大王の亡母と同族であった縁故に加え、忠実で抜け目ない仕事ぶりが評価され、大王の腰巾着として重用されている。

「意外に使えそうな男でした。近いうちにお引き合わせいたしましょう」

「さてさて、あの大王がお許しになりますかな」

 テトカンガはひとたび敵対すれば、降伏を許さなかった。抵抗した部族の男たちは鏖殺(おうさつ)されるか、石切り場か荒れ地で奴隷として働かされ、過酷な労働の果てに命を落とす。すでに二部族が島から消滅していた。その一方で、大王は有能な者を取り立てもした。ラーなら、十分に戦士の資格がある。

「大王のお召しゆえ、これにて」

 ヌガアラが会釈で会話を打ち切ると、神官たちが一斉に壁側へ寄って道を空けた。

 もとは戦わずして大王に降伏した他部族の王族で、保身だけが信条の卑屈な連中だ。食うに事欠いて痩せ細る民が多いのに、トンガリキでも神官たちは丸々と肥えていた。

 薄暗い廊下を奥まで進み、冷たい石畳の〈玉座の間〉で正座して待った。白人たちとの邂逅でラパヌイ人は椅子を知り、大王は自らのために石組みで作らせた。

 拝謁する前、いつもヌガアラは全身に冷や汗を掻く。

 大王の寵愛を妬まれる自分でさえ、これほどに緊張するのだ。気の弱い神官たちの中には、待つ間に具合が悪くなって運び出される者もいた。

 やがてお成りが告げられると、深呼吸をひとつして、心を落ち着けながら平伏した。

 後宮に繋がる王宮の最奥から衣擦れの音がし、やがて石の玉座に腰を下ろす気配がした。

「また女がひとり死んだ。大いなる天地に比ぶれば、ラパヌイと人間の何と小さきことよ」

 促されて面を上げると、テトカンガの青白い細面の美貌があった。

 御前にいるだけで、ヌガアラは天に輝く十字星を仰ぎ見た時のような威厳に気圧される。

 ホツマツア王から数えて四十四代目を名乗る王は、さらりとした黒髪を長く伸ばし、身に黒の樹皮布(タパ)をまとい、赤の外套(カフ)を羽織っている。

 髪や爪を切ると霊力(マナ)を失うとの言い伝えを、大王は迷信にすぎぬと喝破した。戦う時の邪魔になるため、髪も肩までの長さで切り、爪も切り揃えてある。他部族の王は身体に鳥や植物を象った紋様を好んで彫るが、大王は入れ墨も無用と断じ、側近にも禁じた。大王も元は零落して奴隷となった身上ゆえに、正確な齢はわからない。すでに五十絡みのはずだが、肌も筋肉も若々しく、細身の体は元戦士長らしく引き締まっていた。

「禁足地に凶星が現れた一件か?」

「はっ。ラーと申す遠きヒヴァの王子で――」

「殺せ」

 低音が短く響いた。大王は石の肘掛けに左腕を置き、頬杖を突いたままの無表情だ。

 ヌガアラは慌てて両手を突き直した。

「お待ちくださいませ。わが戦士たちを寄せ付けず、私とアリンガも手こずる勇士にて、必ずや大王の覇業の一助と――」
 肘掛けに置かれた左手が、ヌガアラを制した。反り気味の細長い指先をわずかに上げただけだ。

「〈最後の森〉は、予と選ばれし神官のみが立入りを許された聖地だ」

 大王の口調は、風のない日に浜辺へ打ち寄せる波にも似て、あくまで静かだった。それでも、研ぎすまされた黒曜石の刃を首筋に当てられたように、冷んやりとした余韻を残す
声音(こわね)である。

 ヌガアラは勇気を振り絞った。

「畏れながら、ヒヴァの凶星をわが手に加えれば、あのアウガオーラを――」

「暴悪星を倒すには、星の巡りが変わるまで待つほかない。賢者(マオリ)によれば、大彗星が近づき、年が改まって後、ラパヌイの運命は大きく動き出す。再生か滅亡かは知れぬがな」

「ラーは信ずるに足る戦士と――」

 左手の動きで再び遮られたヌガアラの額に、冷や汗がにじみ出てきた。大王は無駄話を嫌う。

 まるで恋人に囁くように穏やかな声で、大王は繰り返した。

「明日の夜明け、アフで処刑する。先王のモアイ建立に先立ち、格好の生贄となろう」

 平伏しながら、ヌガアラは必死で思案を巡らせた。大王の決定を覆すことは不可能に近い。

 杖を突く音がし、軽い咳払いが聞こえた。オウロウパロだ。

 天を見る眼(マ タ・キ・テ・ランギ)を持つ賢者として、大王を輔弼(ほひつ)する知恵袋は、石切り場の奴隷として生涯を終える運命だったヌガアラを見出し、取り立ててくれた恩人でもある。

「大王よ。またひとり、〈赤土の神殿〉で迷い星が出ました」

 禁足地の〈最後の森〉の奥に建つ〈赤土の神殿〉で行われる極秘の神事を知る者は限られていた。

「気の触れた神官は殺せと命じたはずだが」

 口調には苛立ちが含まれていた。大王の青白いこめかみに青筋が立っている。

「畏れながら、アカハンガ王家の血筋を引く最後の者にて、ビナプーがいたく可愛がっておる――」

「殺せ。死せる神に仕えて何になる? 神官の代わりなら、幾らでもいる」

 大王は傲然と立ち上がり、外套を翻した。すでに臣下に背を向けている。話は終わりだ。

 足音が去ると、しゃがれ声が落ちてきた。

「凶星の一件、お前としたことが勇み足じゃったな」

 くぼんだ眼窩(がんか)に丸く大きな眼、尖り鼻の老人は、青空を翔ける聖鳥鯵刺(マヌテラ)を思わせた。春の到来を告げる空の覇者は天敵を知らず、ゆうゆうと宙に遊び、しばしばモアイの赤帽の上で翼を休めている。

「師父のお力で、あの者をお救いくださいませぬか?」

「よりによって大彗星の飛来直前とは、時が悪すぎた。最も歓迎されざる客人よ。当世では、不吉というだけで、処刑の理由には十分すぎる。諦めたがよい」

 アフでの処刑は神事であり、大王の命に従い、ビナプーが儀式を取り仕切る。トンガリキでは、三日にあげず見せしめの処刑が行われていた。大王は貴重な鶏を絞めるよりも簡単に、人間の命を奪う。

「師父よ。大王の歩まれている道は、本当に正しいのでしょうか? 人を殺しすぎではありませぬか」

 立ち去ろうとするオウロウパロの痩せた背に、ヌガアラはずっと心に抱いてきたわだかまりをぶつけてみた。初めてする、問いだ。

「大トンガリキの戦士長が、今さら何を申すか。歴史と運命の神が、血の生贄を望んでおる」

 育ての親にも等しい恩師は背を向けたままで、表情はわからない。

 この島はどこを向いても死、死、死だ。

 死で、埋め尽くされている。

「何のために、かくも多くの死が必要なのですか?」

 必死の問いかけに、ややあってから返事があった。

「再統一の暁には、お前も大王の御心を解するであろう」

「ラーに助命を約してしまいました。さればトンガリキの戦士長として、責めを負わねばなりませぬ」

 肩越しに振り返った老賢者は、しばし弟子とにらみ合ってから、小さく頷いた。

「このわしを脅すとは、お前も偉くなったものよ。じゃが、大王のお言葉を覆すのは容易でない。期待はするな」

 杖の音が遠ざかってゆく。ヌガアラは冷たい石畳の〈玉座の間〉に一人取り残された。



(つづく)

 

 

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作家
赤神 諒(あかがみ・りょう)
1972年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。上智大学教授、法学博士、弁護士。2017年、『大友二階崩れ』で第9回日経小説大賞を受賞し(当時の題名は「義と愛と」)、作家デビュー。以来、『酔象の流儀』(第25回中山義秀賞候補)『『空貝』(第9回日本歴史時代作家協会賞候補)『立花三将伝』『太陽の門』『仁王の本願』『友よ』『誾』『火山に馳す』『佐渡絢爛』など著書多数。2023年、『はぐれ鴉』で第25回大藪春彦賞受賞。