日米170勝の元投手・岩隈久志が語る「負けない心」の原点は、東北楽天での苦闘と、東日本大震災を経て実感した“心の復興”でした。2015年のMLBノーヒットノーランに通じるチームの力、楽天での再起、被災地への思い――そして今はマリナーズ特任コーチ、解説者、少年野球の指導者として、〈希望〉を届けるために子どもたちの主体性と人間性を育て続けます。
(月刊『潮』2024年8月号より転載。本文中の表現はすべて雑誌掲載時のままとしています)
心が負けなければ勝つことができる
2020年シーズンに現役生活を終え、早いもので3年強の時間が過ぎました。21年からは古巣シアトル・マリナーズの特任コーチに就任し、現在は野球解説の仕事などもしています。また、22年には中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」を創設するなど、子どもたちへの野球の指導も行っています。
言うまでもなく、野球は両チームが勝敗を争う競技です。しかし、同時にチームスポーツでもあるため、自分一人だけが実力を発揮し、結果を出せば勝てるわけではありません。逆に、自分が思うようなプレーができなくても、仲間の奮闘によって試合に勝利することはできます。
プロ野球の世界は、すべての選手に一流の実力があり、なおかつ個性があります。そこに、それぞれの選手のその日のコンディションが加わると、最後まで試合展開を読むことなど不可能です。私はそこにプロ野球の面白さがあると思っています。
自分一人だけでは試合に勝てない野球ですが、だからこそ任された役割を全うすること、自分自身に負けないことを大切にしてきました。いつ、勝負を決する局面が訪れるかは誰にも分からないからです。
逆境に置かれても、心だけは常に前を向く。現役のときは、心さえ負けなければ、最後には勝利を手繰り寄せることができると信じていました。
MLBで達成した無安打無得点試合
思えば、2015年にメジャーリーグで日本人二人目のノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成できたのは、その"負けない心"があったからかもしれません。実はあのとき、試合前日のランニング中に股関節まわりを痛めてしまい、不安を抱えたまま登板しました。
案の定、制球が定まらず、普段よりもストライク率が低かったのですが、かえってそれが良い結果につながりました。適度にボールが散ったことで、相手打線に狙い球を絞り込まれずに済んだのです。ただ、ノーヒットノーランはまったく意識していませんでした。過去にも、あと少しでノーヒットノーランを逃した投手を何度も見たことがあったので、簡単に達成できるものではないと思っていたからです。
それでも、試合が終盤に差し掛かると、周囲の期待がどんどん高まってきます。そんななか、「ノーヒットノーランを狙ってみよう」と思いが変わったのは、最終回でワンアウトを取ったときでした。三塁手が難しいファウルフライを見事なファインプレーで捕ってくれたのです。残りアウト二つ――。ノーヒットノーランを意識し始めたときから、じわじわと緊張感が増していったのをいまも鮮明に覚えています。
最後の打者の打球は、センター方向への飛球となりました。打たれた瞬間に詰まった感じがあったので、「センター前のポテンヒットになる……」と思ったものの、振り返ると中堅手が捕球の体勢を取っていたのでホッとしました。
ノーヒットノーランは、野手の堅実な守備や好守がなければ達成することはできません。私は奪三振が多い投手ではなく、打たせて取るタイプの投手です。ノーヒットノーランは投手個人の記録ではありますが、チームが一丸となれたからこそ達成できたのだと思っています。
長い野球人生のなかで、チームメートの奮闘に感化されて「いまが踏ん張りどきだ」と心を強く持てたことは一度や二度ではありません。やはり、野球はどこまでもチームスポーツなのです。また、私にとって大切なファンやライバル、家族など、周囲で支えてくださった人々がいたからこそ、プロ野球生活を全うすることができました。
自分を変えられた楽天での7年間
私が"負けない心"を最も培うことができたのは、東北楽天ゴールデンイーグルス時代の7年間だったと思います。楽天が創立されたのは、いまからちょうど20年前の2004年のことでした。50年ぶりのプロ野球への新規参入球団ということもあり、大きな注目を集めました。私は創立メンバーとして大阪近鉄バファローズ(当時)から楽天に移籍し、翌05年シーズンの開幕投手を務めました。
チームは開幕戦こそ勝利を飾れたものの、1年目は大幅に負け越してしまいます。その後の数年間も成績は振るわず、苦しい日々が続きました。ところが、どれだけ楽天が劣勢の試合でも、多くのファンの方々は試合の途中で球場を後にすることはなく、最後までスタンドで試合を見守ってくださいました。試合に負け続けても、
「明日も頑張ってね」
「次は勝ってくれよ!」
と温かい言葉をかけてくださったのです。
私個人の話をすれば、05年こそチーム最多の9勝を上げることができたものの、06年と07年は故障が
続いてしまい、不本意なシーズンになりました。いつも"次はない"と自分に言い聞かせ、精神的にも追い込まれていたように思います。そんなときにも、2軍の施設で調整していた私のもとにわざわざ応援に来てくださるファンの方がいました。
そんなファンの皆さんの支えがあったからこそ、ケガから復帰することができ、08年には自己最多の21勝を記録することができました。嬉しいことに同シーズンは、勝利数・勝率・防御率の投手三冠を達成するだけでなく、パ・リーグ最優秀選手や沢村賞などのタイトルも獲得することができました。
あたりまえのことですが、投手はマウンドに上がらなければ、戦おうにも戦えません。マウンドに上がる喜びを改めて教えてもらえたのが、楽天での7年間でしたし、野球に対する姿勢も含めて、大きく自分を変えることができた場所が、東北の地でした。
心の復興に貢献したい
東日本大震災が起きた2011年。私にとってこの年が、楽天での最後のシーズンとなりました。
震災が発生した3月11日、私は兵庫・明石市の球場でシーズン開幕前のオープン戦に臨んでいました。試合後、急いで遠征先から仙台市内で生活する家族に連絡をするも、まったくつながりませんでした。しばらくして連絡は取れたものの、ニュースを通して甚大な被害状況を知り、胸が締め付けられる思いでした。
チームメートたちのあいだでは「いち早く東北に戻ろう」という声が多く上がりましたが、すぐには戻れない状況です。星野仙一監督(当時)からは「お前たちには野球しかないだろう」との話があり、皆で「まずは自分たちがいまいる場所で、できることをやろう」と話し合いました。
結局、東北に戻ることができたのは、震災から約3週間が経った4月初旬でした。宮城・女川町を訪問し、津波で流されてしまった三陸鉄道の車両や、破壊された街並みなどを目の当たりにしたときには、自分でも気づかないうちに涙が出てきました。
避難所を訪れた際には、津波の犠牲者のなかに私のファンの方がいたことを知らされました。被災された方々は、それぞれに自身の大変な状況や苦しい胸の内を語ってくださいました。それでも、最後には皆が異口同音に「皆さんは野球で頑張ってください」と、私たち選手を応援し、励ましてくださるのです。本当は私たちが激励しなければいけないのに、たくさん声をかけていただき、かえって励まされました。震災を通して、改めて東北の人々の温かさを実感しました。
プロ野球選手として、試合に勝利することで被災地に明るいニュースを届けたい。被災者の皆さんの心の復興に貢献したい――。チームメートたちと被災地を訪問して、皆でそんな思いを強く持つことができました。
グラブに刺繍した「希望」の文字
のちにプロ野球選手会長を務め、同じ楽天で私の女房役(キャッチャー)でもあった嶋基宏さんが、復興支援のために開催された慈善試合の前のスピーチで述べた「見せましょう、野球の底力を」という言葉を覚えている方は多いと思います。実は、嶋さんは2011年の本拠地での開幕戦で「絶対に見せましょう、東北の底力を」とのスピーチをしています。その言葉は「被災地に明るいニュースを届けたい」「心の復興に貢献したい」との私たち楽天の選手の総意を表したものだったと思います。
2011年のプロ野球は、震災の影響でシーズン開幕が延期になりました。その年は、のちにメジャーでも活躍する田中将大投手が開幕投手を務める予定だったのですが、本拠地で開幕戦ができないこともあって、急遽、私が開幕投手を務めることになりました。
その年の開幕戦となった4月12日のロッテ戦は、いまも忘れることができません。多くの被災地の方々の思いを背負うつもりでマウンドに上がりました。チームメートと必死になってプレーし、勝ち取ることができた白星には、他の1勝とは比べ物にならない価値があったように思っています。
私自身、震災からの復興を通して、スポーツの力の大きさを改めて学ぶことができました。その実感があったので、翌12年にメジャーリーグに挑戦した際には、被災地の方々に少しでも希望を届けられるようにとの思いで、グラブに入れる刺繍に「希望」という言葉を選びました。また、メジャーでプレーしていた期間も、オフシーズンに帰国した際には、できるだけ被災地を訪問するようにしていました。被災地を訪れるたびに"何のために戦うのか"を再確認でき、さらなる高みに向かって挑戦する勇気が湧いてくるのです。
子どもたちの育成に力を注ぐ
東京で生まれ育った私からすると、東北には最後まで諦めない粘り強さや、可能性を信じ抜く力が根付いているように感じます。先述のとおり、楽天創立直後の数年間で、私は自身の野球人生のなかでの"どん底"を味わいました。私がその後に復活できたのも、メジャーに挑戦できたのも、成績が振るわない選手の復活を諦めず、応援し続けてくださった東北のファンの方々のおかげです。
自分の活躍を信じてくれる人がいる。それほどまでに心強いことはありません。自身のことも、他者のことも、決して諦めることなく、可能性を信じ抜く。それが東北のチカラだと思います。
最初に述べたとおり、私は現在、中学生の野球チームの指導者をしています。技術だけを伸ばすのではなく、野球を通して人間性を磨く。それが私たちの方針です。日々、試行錯誤を繰り返しながらですが、東北で学ばせていただいたことを糧に、恩返しの思いで後進の育成に力を注いでいます。
子どもたちに指導するときに心がけているのは、主体性を引き出すという点です。野球は頭を使うスポーツなので、個々の選手に考える力が求められます。したがって、理想は監督やコーチが指示を出さずとも、選手たちが自分たちで考えてゲームを組み立てていけるようになることです。子どもたちにとっても、指導者からの指示を受けてプレーするよりも、自分たちで考えてプレーするほうが、楽しいはずです。
主体性という点では、チームや選手個人の目標を、指導者である大人の側が決めてしまわないようにしています。ミーティングなどを通して、選手らが「全国大会に行きたい」と言うのであればそれを目指す。あまりに目標が低い場合には、時間をかけて話をすることはありますが、あくまで目標を決めるのは子どもたち自身です。その主体性がなければ、元プロ野球選手の私がどれだけ技術的なことを教えたとしても、成長できないと思うのです。
私自身はこれまで、多くの指導者からさまざまなことを教わってきました。なかでも印象に残っているのは、近鉄時代に初めて1軍で起用してくれた梨田昌孝監督(当時)です。
アマチュア時代は叱られてばかりでしたが、梨田監督はとても優しくて怒られた記憶がありません。監督やコーチに言われるがままにプレーをするのではなく、自分自身で考えてプレーをして結果を出す。梨田監督からは、野球をプレーするうえで求められる基本中の基本を教わった気がします。
人間性を磨くためにも、子どもたちには対話と挨拶の重要性を繰り返し伝えています。インターネットやSNSが便利な時代だからこそ、人と人とのコミュニケーションは直接会って行うのが基本だと知る必要があります。私自身、実際に技術的な指導をする際は、しっかりと子どもたちと会話をするように努めています。
挨拶は、まっすぐに相手の目を見てする。「おざっす」といういかにも野球部のような挨拶ではなく、きちんと「おはようございます」と言う。そんな細かなことも指摘するようにしています。心の通った対話は気持ちのよい挨拶から始まります。そうした基本が身についていれば、野球界だけでなく一般社会に出たときにも通用すると思うのです。
今後も、未来ある子どもたちの育成には、自分が持てる力を存分に注いでいきたいと思います。