気仙沼で手編みのセーターなどを販売している気仙沼ニッティング。社長である御手洗瑞子さんは、被災後に地元の人で満車になっているパチンコ店の駐車場を見て「誇りと自立」を取り戻す仕事を――と同社を創業した。港町・気仙沼の持つ力と魅力を世界に届ける取り組みを紹介する。
(月刊『潮』2025年8月号より転載。本文中の表現はすべて雑誌掲載時のままとしています)
ブータンの地で知った東日本大震災
2011年3月に東日本大震災が起きたとき、私は民主化直後のブータン王国で、初代首相フェローとして国の産業育成などをサポートする仕事をしていました。
震災直後は何が起きているのか情報をつかむことができず、大きな不安のなかで過ごしました。帰宅してインターネットで情報を集めたものの、甚大な被害が出たのが東北だと知ったのは次の日の明け方だったのです。
私は東京都の生まれですが、東北地方には縁があります。ブータン政府で働く前に勤めていた経営コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーで、全国チェーンの小売企業の活性化を図るプロジェクトチームの一員として、東北を担当していたのです。
東北には知り合いや馴染みの場所も多く、津波に街が飲み込まれていく様子を映像で見たときには、胸が締め付けられるような思いでした。遠くブータンの地で何もできない自分に歯がゆさを感じ、いつか被災地の復興に貢献できる仕事をしようと自分に言い聞かせたことを覚えています。
ブータンはかねてGNH(国民総幸福量)を重視し、国家の政策の中心に置いてきた国です。思いやりのある方が多く、周囲の人々は皆、私のことを心配して真心がこもった言葉をかけてくれました。
政府としては、ブータン国王が震災から数日も経たないうちにプジャという法要を大々的に執り行い、日本の犠牲者を弔ってくださいました。そして、日本に対して100万米ドル(当時の為替レートで約8000万円)もの寄付をしてくれたのです。その頃ころのブータンの人口は70万人ほどで、国家公務員の1カ月の給料は日本円で2万円程度でしたので、日本への寄付はとても大きな金額でした。大変な思いをしている東北の人々を応援したいとの思いで、国を挙げて動いてくださったのです。
生活のサイクルを取り戻さなければ
震災が起きた年の8月、私はブータン政府の仕事の任期満了を迎えるにあたって、帰国して被災地の復興に尽くす仕事がしたい旨をブータン人の上司に報告しました。すると、「瑞子がその仕事をすることを、僕たちは仲間として誇りに思うよ」と心から喜んでくれました。振り返ってみると、ブータンで心温かい人々と一緒に働くことができたからこそ、私も人のために尽くす仕事をしようと決断できたのだと思います。
帰国後の私は、まず東北のとある自治体の産業復興コンサルタントの仕事をするようになります。その頃に、忘れられない光景に出合いました。それは初めて宮城・気仙沼市に来たときのことです。街中には地元住民らの姿は少なく、見かけるのは復興支援のために来た人々ばかりでした。そんななかで、パチンコ屋の駐車場だけが、びっしりと埋まっていたのです。
当時の被災地では、仮設住宅や支援物資、保険金などで最低限の生活こそできたものの、職場が被災して職を失った方がたくさんおられました。復興に立ち上がろうとしても打ち込めることがない虚しさは、計り知れないものがあったのでしょう。また、支援されるばかりの生活は「すみません」「ありがとうございます」と常に頭を下げなければならず、精神的にも辛いものがあったのだと思います。
誰かのために仕事をして、対価としてのお給料で生計を立てる。そして誰かから「ありがとう」と感謝される。そんな"生活のサイクル"が戻らなければ、復興はできない。満車のパチンコ屋の駐車場を見たときに、そう思い知らされたのです。
気仙沼の人々に身近だった編み物
品質のよい手編みのセーターやカーディガンのブランド「気仙沼ニッティング」を私が創業したのは、震災が起きた翌年の2012年でした。きっかけは「気仙沼で編み物の会社をやってみたら?」と提案されたことだったのですが、当初は自分にできるかどうかとても悩みました。それでも、被災した経営者の方々が、なんとか事業を再開して社員に給料を払い続けられるようにと奮闘しておられる姿に接すると、自らのことばかりぐるぐると考えて動けないでいる自分が恥ずかしくなったのです。働く人が誇りに思えるような仕事、それでいて自立できる仕事を、気仙沼につくりたい。その可能性が少しでもあるのであれば、まずはやってみるしかない。そう思い、創業することにしたのです。
編み物の事業にした理由には、被災状況や漁師町という地理的条件がかかわっています。気仙沼は震災で地盤が沈下して、すぐには建物を建てることができませんでした。職場を用意することが難しかったので、働く場所を選ばず、仮設住宅でもできる編み物というアイデアが浮上したのです。
そもそも漁師町の気仙沼では、人々にとって編み物はとても身近な手仕事でした。遠洋漁業に出る漁師たちは、日常的に漁網の修繕を行うために手先が器用で、自宅で自分の帰りを待つ家族へのプレゼントとして船の上でセーターを編む習慣もあったのです。弊社では現在、約40人の編み手が働いているのですが、父親が編んでくれたニットをいまも大切に持っている人が何人もいます。
起業した当初は、皆が被災者だったこともあり、心の安定が極端に損なわれている緊張状態の人も多くいました。家族や友人を亡くされた方もいれば、家が流されてしまった方もいて、皆が悲しみや不安を抱えていました。そうしたなかで、編み手さんたちは仕事に打ち込んでいるときだけは、無心になれたのかもしれません。
編み物のよいところは、手を動かした分だけ成果物が目に見えるところです。努力すれば達成感を味わえる。それに加えて、ときにはお客さまから「素敵な一着をありがとう」といったお手紙や、ニットを着用した写真が届くこともあります。真心がこもったフィードバックをいただけることで、編み手さんたちはお客さまにとっての"一生もの"を届けようというモチベーションで仕事ができるのだと思います。
夢を持ち続けて希望を失わない
特に嬉しいのは、編み手の仕事を家族の皆さんが応援してくれていることです。旦那さんが定年退職したある編み手さんは嬉しそうにこう語っていました。「家で仕事をしていると、家事をやったことがない旦那がコーヒーを入れてくれるようになった」と。別の編み手さんは、海外のお客さまからの英語のお手紙を、中学生のお孫さんが辞書を片手に翻訳してくれたそうです。私にとっても、本当に嬉しいエピソードです。
気仙沼の人々には、夢を持ち続ける力や希望を失わない強さがあるように思います。それは、遠洋漁業というハイリスク・ハイリターンの生業で栄えた地域だからかもしれません。弊社を立ち上げる際に私が立てた目標は、世界中の人々に「素敵だね」と言ってもらえるブランドにするということでした。私のそんな夢を、編み手さんたちは目をキラキラさせて聞いてくれました。多様な人々が行き交う港町だからこそ、異文化に対して寛容ですし、新たな挑戦に積極的なのかもしれません。 これまでの復興の歩みは、マイナスをゼロにするという側面が強かったように思います。気仙沼ではいま、あらゆる分野の事業者が親から子へと世代交代をしています。これからは、復興を成し遂げてきた先代の背中を見て力を蓄えてきた若い人たちが、東北の未来をプラスへと転じていってくれるはずです。