シンガーソングライターの普天間かおりさん。地域に根差したラジオからいつも通り、声を届ける。離れていても変わらない故郷への思いを、歌でつなげていく。
(月刊『潮』2024年7月号より転載。本文中の表現はすべて雑誌掲載時のままとしています)
生放送中に起きた東日本大震災
私は沖縄の出身ですが、2001年からラジオ福島のパーソナリティーを担当し、福島のホットな話題を発信してきました。
福島には四季折々の自然や豊かな食文化など、本当に多くの魅力があります。なかでも私が最も好きなのは"人の温かさ"です。ラジオ福島でレギュラー番組を23年間持たせていただき、リスナーの皆さんと心を通わせるなかで、日に日にそう感じるようになってきました。
福島の人の温かさを象徴する思い出があります。あるとき、番組内で福島の野菜の話題で盛り上がったことがありました。すると福島市内に住む農家のリスナーさんが「うちの野菜は美味しいよ」と、朝採れのキュウリを生放送中にラジオ局まで持ってきてくださったのです。みずみずしい桃を届けてくださった方もいます。
まるで家族や親戚のように温かく接してくださるリスナーさんたちには、私の故郷・沖縄の人の優しさに共通するものがあると感じています。
ラジオのパーソナリティーを務めておよそ四半世紀。いまでは福島は、私にとっての"第二の故郷"です。
2011年3月11日に東日本大震災が起きたときには、私はラジオ福島で生放送中でした。その日は男性アナウンサーと一緒に、地元の旬な話題をお届けしていました。いつもと変わらない生放送だったのですが、放送終了まで残り15分のときに地震が発生したのです。
すぐに収まるかと思った揺れは、どんどん激しくなります。スタジオの機材は激しい揺れでガタガタと音を立て、マイクがその音を拾うほどでした。
長く揺れるあいだに、これまでに聞いたことのない「ゴゴゴゴゴ」という地鳴りのような音も聞こえてきて、血の気が引いたのをいまでも鮮明に覚えています。
番組はすぐに災害情報の発信に切り替わり、ほどなくして大津波警報が発令されます。私は被害の状況を伝えるとともに、高台への避難を必死に呼びかけました。あのとき、スタジオのモニターで津波が町をのみ込む映像を見た際に抱いた恐怖心をいまだに忘れられません。
なぜ福島の人々はこんなに温かいのか
生放送の後、自宅がある東京には戻れず、数日のあいだは福島での避難生活を余儀なくされました。ホテルからは「安全を保証できない」との理由で宿泊を断られてしまったので、知人宅にお世話になりました。
被災直後は、どこのコンビニやスーパーマーケットに行っても、すでに食料や飲料水は売り切れて手に入らない状況でした。途方に暮れていると、なんと知人が食料や飲料水を譲ってくださったのです。「東京から来てこんなに不安なことはないでしょう。私たちはご近所同士で助け合えるから大丈夫ですよ」と。心から感謝の思いでいっぱいになりました。
この知人だけでなく、多くの福島の人たちの善意に支えられ、発災から数日後になんとか飛行機で東京に戻ることができました。ご自身も被災しているのに、なぜ福島の人はこんなにも温かいのだろう……。機内でそんなことを思っていると、自然と涙が溢れてきました。そして、福島のために私にできることを全力でやろうと誓ったのです。
東京に戻ってすぐ、祈るような思いで制作したのが「Smile Again」という曲です。10日ほどで録音までを終えて、すぐにラジオ福島に送りました。ただし、被災地ではまだライフラインの復旧も済んでいません。
被災された方々は毎日を生きるのに精一杯で、音楽なんて聴ける状況にないかもしれない。そんなふうにも考えましたが、私としては何もしないではいられなかったのです。
福島の人々のために歌い続けていく
ラジオ番組が再開したのは震災の翌月です。4月初旬に再び福島に入り、3日間で4カ所の避難所を訪問しました。炊き出しのボランティアをやりながら、その合間に被災者の皆さまの前で歌を披露する機会もいただきました。
4月といっても福島はまだまだ寒く、避難者の方々は底冷えする体育館でダンボールや毛布を使って暖を取られていました。その様子を目の当たりにすると胸が締め付けられ、"この状況で歌を歌ってもいいのだろうか"との考えが頭をよぎりました。しかし、勇気を振り絞って"一人でも元気になってもらえれば"との思いで歌わせていただきました。
歌い終わると、一人の男性がおもむろに立ち上がって、涙をぬぐいながら大きな声で「来てくれてありがとう!」と言ってくださいました。他にも、避難所をあとにするまで、多くの方々が目に涙を浮かべながら「私たち、頑張るからね」と声をかけてくださいました。真心は必ず届く――そう教えていただいた出来事でした。
よく「音楽や歌には、言葉では言い尽くせない特別な力がある」と言われますが、私も本当にそう思います。音楽に人が抱える課題を解決する力はないかもしれません。しかし、課題を解決しようと奮闘する人を、応援することはできます。
例えば、「泣きたいときに、泣いてもいいよ」と寄り添い、心をほんの少し開くためのお手伝いはできる。避難所での経験を踏まえて、いつも私のことを温かく迎えてくださる福島の方々のために、歌い続けていこうと決めました。
人の苦しみを汲み 思いを寄せる力
福島県の富岡町は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で全域に避難指示が出されました。私は震災から2年が経った頃に、その富岡町の出身者からラジオ番組に寄せられた手紙を契機に、同町の応援歌「桜舞う町で」を制作しました。手紙には次のように綴られていました。「町民が各地にバラバラになって、いつ故郷に戻れるかも分からない状況だからこそ、せめて皆で富岡を感じられる歌がほしい」――と。
制作にあたって、歌詞に入れたい言葉についてリスナーの皆さんにアンケートを実施すると、ほとんどの方が富岡が誇る桜の名所「夜の森」を挙げられました。それが、桜を題材にした曲を制作しようと思った決め手です。
「広がる青空 ふるさとへ続いてる」との歌詞には"青空の下で私たちはつながっている"との思いを込めました。町民の思いを注ぎ込んだこの歌が、皆さんが前を向き、復興への歩みを進める一助になれば、これほどうれしいことはありません。
早いもので、この歌を制作して、もう10年以上が経ちます。4月に開催された「夜の森桜まつり」でも、私は「桜舞う町で」を歌わせていただきました。
先にも述べたとおり、震災に遭ったとき、県外から来た私が困っている状況を知って、地元の多くの皆さんが支えてくださいました。その他にも、私はこれまでに、福島の人々の温かさに何度も触れてきました。福島の皆さんの温かさとは、すなわち"苦しむ人の気持ちを汲み、思いを寄せる力"だと思います。
本年元日に能登半島地震が発生した際には、ラジオ福島の番組に能登の被災者のお身体を心配するお声や、1日も早い復旧・復興を願う声がたくさん寄せられました。人の苦しみやつらさに寄り添おうとする福島や東北の方々の真心がしっかりとつながっていくことで、希望の社会は必ず築かれると私は信じています。