• 社会

対馬丸の悲劇を風化させない――次世代への誓い

戦後81年夏、世界に戦禍が広がる今こそ、私たちが向き合わなければならない「戦争と平和」とは――。県外に疎開する幼い子や学童1040名を含む1484人が犠牲となった対馬丸事件。この事件の生存者を母に持つ、対馬丸記念館館長の平良次子さんに、次世代の若い人たちにリレーのバトンを渡し、戦争体験者の証言と記録を後世まで残していくことの大切さを伺った。(月刊『潮』2025年8月号より転載)

対馬丸の撃沈事件 生存者だった私の母

〈1944年8月21日、沖縄県から県外に疎開する学童疎開の児童らをはじめ、1788名を乗せた貨物船「対馬丸」が出港した。翌日の8月22日、鹿児島県トカラ列島沖でアメリカ海軍が魚雷を発射。対馬丸は沈没した。乗員のうち1484名が死亡(氏名が判明している人の数)。このうち0〜15歳は1040名にのぼる。犠牲者の大半は学童疎開の児童だった〉


私の母・啓子は、9歳のときに対馬丸に乗りこみました。船が攻撃を受けて海に投げ出された瞬間から、母は「絶対死なないぞ」「生きよう」と必死に力を振り絞ったそうです。無我夢中で何かにつかまったところ、波に呑まれた同い年のいとこと偶然海で再会したといいます。


「ここを一緒につかみなさい」と叱咤したものの、優しくて泣き虫だったいとこは「怖い、怖い」と泣き出します。「泣いたら目が見えなくなる。つかみなさい」と励ましていると、ワーッ! と波にさらわれ、いとこはそれっきりとなりました。一緒に乗船した母の祖母と兄も亡くなります。


対馬丸が沈没してから実に6日間にわたって、母は海を漂流しました。奇跡的に無人島に流れ着き、九死に一生を得ます。

  • 平良館長の母・啓子さん

母が対馬丸の生存者であることを私が知ったのは、沖縄が本土に復帰(72年5月15日)する前、小学2年生のころでした。 小学生時代に、通っていた宜野湾ぎのわん市立普天間ふてんま小学校の校内放送で母が体験談を語ったことがあります。当時は自分の母親が全校生徒の前でしゃべっているのが恥ずかしくて、話の内容にはあまり集中できませんでした。 「母は対馬丸と関係があるんだ」「漂流して命が助かったんだ」という漠然としたことしか知らず、一から十まであらためて体験談を聞く機会はありませんでした。しかし、しばらくして修学旅行の生徒たちを前に、語り部として証言する母の話を聞くうちに、「そんなことがあったのか」と驚きながら、徐々に母の壮絶な体験を知るようになります。

犠牲者の3分の2は15歳以下の子ども

対馬丸の犠牲者のうち、3分の2が15歳以下の子どもです。徹底的に皇民化教育を受け終わった少年兵なら「お国のために身を捧げよう」という覚悟をもつことができたのかもしれません。しかし小学生や小学校に上がる前の小さな子どもたちは無垢です。兵隊を見て「カッコいい」と夢や憧れを抱き、戦争の恐ろしい実態は想像もつかなかったでしょう。


対馬丸に乗って学童疎開をすると決まったときも「県外に行ったら汽車に乗れるかな」「雪が見られるかな」と旅行気分だった子が多くいました。以前、学童疎開を勧められたという88歳のご婦人が、私にこうおっしゃいました。


「県外や海外に働きに出て帰ってきたお姉さんたちは、みんなすごく綺麗になっていた。沖縄を離れて稼いだら、生活が豊かになり、見た目も綺麗になれると夢見ていたんです」


このような憧れを抱いて対馬丸に乗りこんだ純粋な子どもたちが、大勢犠牲になりました。


対馬丸記念館には、亡くなった子どもたちの遺影がたくさん飾ってあります。笑っている幼い子の写真を見ながら、私は「最後は溺れて苦しんで亡くなっていったのだろうか」「何かが体にぶつかったことが致命傷になったのだろうか」「サメに襲われはしなかっただろうか」と想像します。


戦争の実相を知らない純粋な子どもたちは、はじけるような笑顔で未来に夢と希望を抱いていました。その子どもたちの夢と希望が、戦争のせいで突然無惨にもかき消されてしまったのです。

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