石を投げつけられる対馬丸生存者の苦悩
私の母を含め、対馬丸から救出された生存者は、警察や憲兵(陸軍の軍事警察)によって、対馬丸で起こったことを話してはいけないと箝口令が敷かれました。民間人である疎開者を乗せた船がアメリカから魚雷を撃ちこまれたとなると、人々の間に動揺が走ります。被害者の家族や救出された生存者は、船が沈められた事実を語ってはいけない苦しみにさらされました。「本当のことは誰にもしゃべるな。黙っていなさい」と言われた人たちは、自ら言葉を封印しなければならなかったのです。
生存者のお話を聞くと「私は生き残ったぞ! バンザイ! うれしい」と喜んでいる人には一人も出会ったことがありません。地獄のような光景を目にし、苦しい思いを抱えながら生き残ったトラウマがあります。家族や友だちが次々と命を落としていく中「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感にも苛まれます。
なんとか生き延びた少年が、亡くなった友だちの家を訪ねたそうです。するとその子のお母さんから「あなたは生きてたの!」と石を投げつけられたそうです。我が子を失った親だけに「あなたがなんとか助けてやれなかったのか」という気持ちになるのでしょう。
戦後になってから、私の母は対馬丸に同乗していたいとこのお母さんから「ウチの子を太平洋に残してきたの?」と言われてしまったそうです。その一言に対して何も言葉を返すことができず、母は以後その家を訪ねることができなくなってしまいました。
母の兄は、対馬丸で出発する直前に家の柱につかまって「行きたくない」と駄々をこねたそうです。私の祖母は「早く。時間がないよ」と言って、兄の指を一本一本柱から外して出発を促したといいます。祖母は「私が息子を無理に行かせてしまった」と、自分を責めながら生きていました。あのとき、子を送り出したすべての親たちが、きっと同じような後悔と苦しみを胸に抱え続けたことと思います。
戦争を始めるのは国家の指導者であって、一般庶民ではありません。にもかかわらず、戦争が引き起こした悲惨な結末と苦しみは、生き残った庶民にこれでもかと重くのしかかるのです。
対馬丸撃沈から7カ月後の1945年3月以降、沖縄では日本国内唯一の地上戦が展開されました。この戦闘により、軍人と民間人合わせて20万人以上が亡くなっています。沖縄県民の四人に一人という計算です。
沖縄戦の生存者もまた、対馬丸撃沈の生存者と同じように「あのとき目の前にいた家族を助けられなかった」「自分が殺してしまったに等しい」と自分を責めています。生存者をこういう気持ちにさせてしまうことまで含めて、戦争を起こした指導者たちの罪だと考えるべきでしょう。戦争は絶対に起こしてはならないのです。
母の遺志を継いで対馬丸記念館へ
私は沖縄本島南部の南風原町にある南風原文化センターで学芸員として勤務し、2020〜23年には館長を務めました。 定年退職したあとは1年間センターに残り、母が暮らしていた大宜味村に帰るつもりでした。母はとても元気いっぱいに語り部を務めており、大宜味村に引っ越して母の専属運転手でもやろうと思っていたのです。 そんなことを考えていた2023年7月、母が88歳で大動脈解離のため急逝しました。「大宜味村に帰る理由がなくなってしまったな」と思っていたところ「2024年4月から対馬丸記念館で館長を務めてくれないか」と声をかけていただいたのです。 2024年は対馬丸沈没(1944年)から80年、対馬丸記念館の開館(2004年)から20周年の節目でした。「私に何ができるだろう」と戸惑いつつも、生前一生懸命語り部を務めた母の遺志を継ぎ、自分にできることをさせていただこうと思いました。 戦争と平和について考える博物館・資料館には、公営(都道府県・市町村立)や私立のものもあれば、対馬丸記念館のように公益財団法人が運営するところもあります。ほかの関連博物館とネットワークを結ぶことによって、来館者を増やしたり平和学習の機会を増やすことができるかもしれません。 そこで2025年2月に「沖縄・平和と人権博物館ネットワーク」を設立しました。対馬丸記念館(那覇市)、不屈館(同)、沖縄愛楽園交流会館(名護市)、佐喜眞美術館(宜野湾市)、沖縄県平和祈念資料館(糸満市)、ひめゆり平和祈念資料館(同)、南風原文化センター(南風原町)、ヌチドゥタカラの家(伊江村)の8館が参加しています。 私が館長に就任してから「お母さんは、あなたが対馬丸記念館に来てくれたことを喜んでいるよ」と言ってくれる人がいました。 母は亡くなった後も、私のすぐ後ろで見守ってくれていると感じています。職員と話し合いをしたり、平和学習の講師を務めるとき、私の心にはいつも母の声が聞こえてくるのです。「あなたの判断でいいよ」と優しく背中を押してくれるときもあれば、「まだまだよ」と厳しく叱ってくれることもあります。その声に耳を傾けながら、私は日々、母と心の中で対話を重ね、館長としての仕事に向き合っていこうと思います。
