• 社会

対馬丸の悲劇を風化させない――次世代への誓い

体験者でなくても語ることはできる

戦後80年を迎え、戦争体験者が亡くなってどんどん語り部が減っています。だからといって、対馬丸の悲劇や沖縄戦の歴史が消えてしまうわけではありません。語り部がこの世からいなくなったとしても、残された記録や証言を使って平和学習を進めていくことはいくらでもできます。 沖縄戦の悲惨さを描いてきた版画家・儀間ぎま比呂志ひろしさん(2017年に94歳で逝去)に、お話をうかがったことがあります。私は、儀間さんご自身が自分の目で見た沖縄戦を版画にしてきたのだと思っていたのですが、実は儀間さんは戦時中、大阪に疎開しており、沖縄戦を直接は経験していなかったのです。それでも儀間さんは、証言や資料をもとに、ガマ(天然壕)の中の様子、食糧の欠乏による飢えの苦しみ、兵士たちの暮らしなどを丹念に描き続けてこられました。 儀間さんは、私にこう語ってくれました。「ガマの中に隠れていた人は、自分がそこで見たことや体験を、自分の言葉で語ることができる。でも、ガマの外で何が起きていたかは直接は知らない。その場にいなかったからといって、戦争について語れないわけではないんです」 儀間さんの言葉は、戦後生まれの私たちにとって何よりの励ましです。 個人の体験に目を向けると同時に、時代と歴史を広い視野で俯瞰することで、人権、差別、戦時下の食糧事情など、さまざまな側面から戦争の歴史を考えることができる。戦後80年経ったからといって、戦争の歴史が風化しているわけではありません。むしろ平和学習は、これからますます進歩していくはずです。

悲惨な歴史から目を背けない

平和学習のときに広島の原爆投下直後の映像や写真、沖縄戦の悲惨さを子どもたちに紹介したところ、翌日児童のお父さんから電話がかかってきました。「ウチの子がすごいショックを受けて、帰ってきてからご飯が食べられないんです」と言います。原爆が落ちた直後の被爆者のケロイド(重度の火傷でただれた皮膚)は、とても正視に堪えるものではありません。


沖縄戦の渦中では、ガマの中で泣く赤ちゃんを黙らせるため、日本兵が赤ちゃんを殺してしまう事件も起きました。母親の手から赤ちゃんを奪い、足をもって振り回して岩にぶつけて殺害したのです。そんな様子を目の前で目撃したお母さんは、いったいどんな気持ちだったでしょう。


こうした悲劇を直視する平和学習を受けた結果、2〜3日食欲を失ってしまう子もいるかもしれません。それはつらい体験だったと思いますが、半面、戦争を他人事ではなく自分事として受け止め、真剣に深く考えてくれた証でもあります。当時の人たちは、その子よりはるかにひどい体験をしました。悲惨な歴史から目を背けることなく、戦争のひどさを我が事として想像力をめぐらせる。戦争を心から憎む。そうした気持ちをもつ人が、平和構築の原動力となるのだと思うのです。


家庭ではどんなに優しいお父さんや兄弟であっても、戦場の恐怖と飢餓は人間を魔物に変えます。


「日本を守ろう」という気概をもち、礼儀正しく敬礼して出征していったはずの日本兵が、醜い姿で一杯の水を奪い合う。小さな子どもを抱えたお母さんから食料を奪う日本兵もいました。


戦争は人間性を奪います。だからこそ、絶対に戦争を起こしてはいけません。どんなに国と国がいがみ合っても、戦争を避けるための対話を続けなければならないのです。


戦争指導者の誤った判断によって、日本はかつて間違った歴史を歩んでしまいました。1945年8月15日の敗戦によって日本は反省し、戦争を禁ずる憲法9条を構築します。そして、日本は、まがりなりにも80年間、一度も戦争を起こさずにきました。


これからの日本は、争う国々の間に入り、対話を促して戦争を止める力をもつべきです。原爆を投下された国として、核の非人道性をしっかりと世界に発信できる国であってほしいと思います。そして次の世代には、「戦争をしないことは、どの時代にあっても必ず正しいことなのだ」と確信をもって生きていってほしいのです。


長崎の被爆者・内田伯さんは「目から消えるものは、心からも消え去る」と言いました。次世代の若い人たちにリレーのバトンを渡し、戦争体験者の証言と記録を後世まで残していく。記念館の展示や戦跡、慰霊碑を通じて、平和学習を進める。戦争によって、未来を奪われた多くの人々の命の重さを胸に刻みながら、これからも平和の尊さを精一杯語り継いでいきたいと思います。

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