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意見の異なる他者の物語に耳を傾ける【平和をつなぐ次世代の語り手たち】

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自分自身とも異なる立場の方にも街頭で取材を行う大学生の白坂リサさんは、「戦争反対」の声が届かない人々の背景にも耳を傾け、歴史をもとに一緒に考えていく大切さを語っています。ご自身の挫折や取材を始められた経緯について触れていただきながら、市井の声を熟議につなぐメディアの役割など、平和への道について論じていただきました。

(月刊『潮』2026年9月号より転載)

対等な人間として同じ土俵で話す

私は慶應義塾大学総合政策学部に在籍しながら、社会・政治問題について街頭で取材し、発信しています。ときには排外主義的な集会に飛び込み「私は日中のハーフなんです」と自己紹介して意見交換をしたり、靖国神社の参拝者に話を聞いたりもしてきました。

 

社会に向けた発信や取材を始めたのは高校生の頃です。仙台の進学校に進んだ私は当初「文武両道のスーパーガール」を目指していましたが、知識偏重の環境になじめず落ちこぼれてしまいました。信じていた「正しいレール」から外れたとき、私は自分の存在価値を見失ってしまったのです。

 

深く悩んでいた時期に、東京大学前で刺傷事件が起きました。報道された犯人の少年は、成績不振から自棄になり「東大理三に行けないなら死んだほうがいい」とすら考えていたそうです。その学力至上主義に苦しむ部分に私は共感し、学歴社会や学校のあり方に疑問をもつようになりました。

 

そこで校内に「この国の学校制度を考える会」を設立して時事解説のポスター掲示活動を始めたところ、教員から剝がすよう求められました。納得がいかずにSNSで問題提起した投稿には5万件近くの「いいね」がつき、メディアからも注目され、これが発信を始める契機となったのです。ただ、その活動によって校内や近隣の高校・大学の学生を中心とした"アンチ"も生まれました。ネット上でSNSアイコンの写真をイジる嫌がらせを受け、校内でも「あいつは政治的な思想に洗脳されている」と噂を流されました。

 

私は政治的思想を広めたかったわけではありません。教育や政治への疑問は、私個人の実存に関わる問題意識から生じたものです。完全には理解されずとも「私という人間の物語」を誰かに受け止めてほしかったのだと思います。

 

ですから私が取材で大切にしているのは、対等な人間として同じ土俵で話すことです。国籍等の違いで差別的な言動をする人にも、道徳を教え諭すのではなく、その人が「なぜその考えに至ったのか」の個人的な歴史を聞いていく。相手が内面を開示してくれたら、私も自分自身を話しています。こうした「対等に話し合える関係性」をもつことは、相手にとっても私自身にとっても大事な体験だと思っています。

 

取材を通して他者の物語に耳を傾けることは、私がこれまで傷つき、失ってきたものを取り戻すプロセスなのだとも感じています。

「戦争反対」の声が届かない人々もいる

私は反戦デモの参加者にも取材をしています。私自身も「戦争はダメだ」は合言葉のように言いつづけるべきだと思っています。

 

ただ同時に、戦争への考え方は人によって多様であることも直視しなければいけません。2007年、当時フリーターだったライターの赤木智弘氏が「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳、フリーター。希望は、戦争。」という論考で注目を集めました。赤木氏は、格差に苦しみ、社会に居場所のない"持たざる者"にとって、戦争は「持つ者が何かを失う」チャンスになると指摘したのです。

 

旧日本海軍の永野修身は「戦わずして滅びるとは、日本人の魂まで滅ぼす真の亡国なり」と語ったとされます。戦うことを美徳としたり、死に近づく体験に魅力を感じたりする人もいるわけです。街頭取材でも、勇ましい考えに触れることは少なくありません。無党派層からも「中国が軍備増強しているんだから、日本も核兵器を持っていい」と聞くことがあります。

 

「戦争はダメだ」という人は多いですが、一方で戦争に肯定的、ないし必ずしも否定的でない人々も存在します。そうした個人に向き合わずに「戦争反対」と叫ぶだけでは、無党派層や無関心層には響かないのではないでしょうか。

 

だからこそ、戦争に肯定的な人々のみならず、多様な背景や考えをもった人々と「いったん立ち止まって一緒に考えよう」という合意を結び、共通の前提をつくることが重要です。説得や論破ではなく、相手がその考えに至った背景を受け止めたうえで、「本当にその選択で大丈夫なのか」を一緒に考える。意見は一致せずとも、「考えつづける余地はある」という最低限の合意点(コンセンサス)を見出そうとするのです。

 

「一緒に考える」とき、その土俵となるのは近現代の歴史だと思います。たとえば、アジア太平洋戦争の契機となった満州事変や、その前段の張作霖爆殺事件の背景には、中国のナショナリズム高揚に対する日本の危機感がありました。他国のナショナリズムにどう向き合うかという問いは、現代にも通じる対話の糸口になります。

 

力による制圧が本当に望ましいのか、軍事的な勢力均衡だけが唯一の解なのか。「歴史を振り返れば、まだ検討の余地があるはず。一度立ち止まりませんか」と問いかける。こうした地道な合意形成を積み重ね、共通の前提を確認してこそ、平和を目指す議論が成り立つはずです。

メディアは街に出よ 市民の声を聞け

いま社会には多くの不満が渦巻き、さまざまな問題をめぐる対立がエスカレートしています。先述した合意を結ぶ試みを、社会全体で進めるためには、目下この対立を解消しなければなりません。そのためにメディアが果たすべき役割は極めて大きいです。

 

しかし、近年のメディアはそうした役割を全うしているようには思えません。テレビや新聞も、ネットメディアも、専門家や何なんらかの政治活動、発信活動をしている人々を多く取り上げがちです。そうした人々の声ばかりを集めても、世の中の市民が自ら考え、求めていることからは乖かい離り してしまいます。

 

メディアはもっと「市井の人々」の声に耳を傾けるべきです。自ら発信していなくとも、問いかけられれば社会や政治について語ってくれる人は多くいます。そうした人々に、メディア自身が会いに行って話を聞く。そこに溢れる不満や個人の物語こそが、紛れもない市民の声です。メディアはまず、この生の声を出発点にすべきです。

 

仮にそのメディアの論調に反する意見だったとしても、アメリカの新聞が反論欄を設けたように、反論こそ載せる意味があります。

 

そのうえで、専門的な知見をもつ論客を交えた議論へと繫つなげるのです。各立場を代表する論客が、市民の論点や対立点を整理しながら熟議し、合意点を見出していく。市民の声と論客の熟議が「同じ誌面(媒体)」に掲載されることも重要です。


自分の言葉がメディアに載り、同時に自分の問題意識をテーマにしたより深い議論も掲載される。この営みは、感情を煽りがちな動画メディアではなく、深く思考を促がす活字メディアにこそ期待されます。それでこそ、人々は社会への信頼を取り戻し、重大な問題について考え、議論する機運が高まってくるのではないでしょうか。

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