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初めから信心を出直そう

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鹿島建設の専務取締役営業本部長を務めた三苫仕。

数々の苦難に一歩も退かず信心に挑戦するも、知人の自死に直面する。

深い悲しみと慙愧の念を御本尊に向ける中で、〈もう一度初めから信心を出直そう〉と立ち上がる。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻22巻から一部を抜粋してご紹介します。

大病で死地をさまよった壮年への句もあった。


南無の旅

君は凱歌の

蘇生かな


1981年(昭和56年)の年末、この句を受け取ったのは、鹿島建設の専務取締役営業本部長だった三苫仕(みとま・つこう)である。胃がんの大手術を乗り越えた。


〈彼は玄海の荒波を望む福岡県・糸島の出身である。東京商大では剣道部主将をつとめ、人望を集めていたようだ。大学卒業後、南満州鉄道に入社したが、終戦で故郷の福岡に引き揚げ、建設会社を興した。一時は隆盛をみたようだが、戦後のインフレの波にのまれて倒産してしまった。元社員の学会員に誘われて座談会に出席し、入信されたのが、昭和29年10月のことである〉(池田のエッセー、『忘れ得ぬ同志〈2〉』)


最初は「3カ月だけの条件つき」だった。しかし、題目を唱えると、〈今まで経験したことのない充実感を感じるようになり「この宗教には何かある。素直に言われる通りにやってみよう」と決意した〉(三苫仕の手記)。


会社の倒産から3カ月。十数年ぶりに会った知人から「ラーメン屋をやってほしい」と頼まれた。夫婦で始めたこの店が、大繁盛した。


2年後、友人の誘いで鹿島建設への入社が決まる。やがて東京の本社に異動し、営業部長として活躍しながら、学会では地区部長、支部長として一歩も退かなかった。


福岡からの出張帰りに、たまたま池田と同じ飛行機に乗り合わせたことがあった。池田は「すべてをやりきるんだ」と励まし、『観心本尊抄講義』の書籍を贈った。


別の機会には「どんな会社にも、強盛な信心の人が必要なんです」「私はずっとあなたを見守っております」とエールを送った。


三苫は杉並に住み、小岩支部の所属だった。鹿児島・大隅半島の鹿屋に学会員が誕生したと聞くと、仕事の都合をつけ、1週間ほど泊まりがけで何度も弘教に通った。


〈いつも、立派な紳士ぶりで、だれからも信頼され、色白の頰は赤みを帯び、風呂あがりのようなみずみずしさがあった。学者になっても、政治家になっても、いずれの分野に進んでも一流になられたであろう、と感じられた〉(前掲『忘れ得ぬ同志〈2〉』)

三苫は61歳の時、「教学と私」という文集に手記を残している。創価学会に入り、「一念三千」の思想を知った喜びを綴った。


〈学生時代のようになかなか暗記できない。仕方がないので巻紙を四尺位の長さに切り重要な文証は全部それに墨で記入して部屋の天井からたくさんぶら下げては暗誦したものだった〉


手記の後半に、痛恨の出来事が記されている。


〈先日、一人の男が自殺した。四十五歳の働き盛りであった。妻一人と二人の可愛い子供さんを残してである。彼は信心はしていなかった。他の会社に勤めていたが仕事の都合で私は時々あっていた。そしてずい分親しくもなっていた。


前日彼が急に会社に訪ねて来た。そして急に子会社の方に転勤になったのでもう今まで通り一緒に仕事ができない、そこで挨拶に来たということであった。私はその日は非常に忙しくて話の対応の合い間をぬって五分間位、話をした。転勤する会社のことなどを聞きながら簡単に別れてしまった〉


その15時間後、彼は山中で命を絶った。


〈翌朝、彼の死を聞いて私は愕然とした。


死を決意する程の深い悲しみをたたえた彼と私は会っていながら、それにどうして気がつかなかったのであろうか。何か変ったことがあったに相違ない。たとえ彼の死に気がつかなくとも彼が悲しみに耐え得るような何等かの言葉がどうして出なかったのであろうか。私の十数年の信心はどこに行ってしまったのであろうか。

一瞬一瞬織りなして行く不用意な私の一生に、信心の色彩は少しも出ていないではないか。


これが広宣流布をしている信仰者の姿であろうか〉


この痛切な手記は、次のように結ばれている。


〈肉化されていない教学の生兵法、観念の遊戯に堕している理論等はいざという時には何の役にもたたない。私は深く反省した。


これを頂門の一針としてもう一度初めから信心を出直そう。私は深い悲しみと慚愧の中に御本尊に彼の冥福を祈るより他に術はなかった〉


三苫が専務取締役営業本部長に就いたのは、それから5年後のことである。重責だった。


〈それでも、早朝に起床し、仕事のことを考え、かつ勤行・唱題は欠かすことがなかった。とともに、二十分の読書もつづけ、七時半には出勤しておられたようだ〉(前掲『忘れ得ぬ同志〈2〉』)


三苫自身、〈職場では管理職であり、実際、(学会活動との)両立は大変でした。しかし"大変だ"と思うところから後退が始まる、と心しておりました〉と記している。


1982年(昭和57年)、69歳で人生の幕を閉じた。家族に「人間の力には限界がある。御本尊の力は無限である。信心を根本として互いの長所を伸ばし助け合っていけば、かならず一家は繁栄する」と遺言した。


池田は、


堂々と

王者の如く

安らかに

霊山旅立つ

君をおくらむ

合掌


という一首を霊前に捧げた。


反転攻勢の日々。それは池田にとって、旅の途上、今生の別れを告げた弟子たちを見送り、残された遺族を何としても励まそうと心を尽くす日々でもあった。遺族たちが「後継者」として、再び前を向き始める日々でもあった。


と同時に、国境を超えて縁する未来からの使者――子どもたちを励ます日々でもあった。

※当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から抜粋をしたものです。


続きが気になった方はこちらもご覧ください。


「人間主義」の連帯は、いかに国境を越えたのか。

1979年から1981年へ。反転攻勢の軌跡を辿る。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代22 道を開く人篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著

定価:1265円、発行年月:2025年10月、判型/頁数:四六並製/272ページ


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【目次】

第1章 ともに苦楽を祈る日日――裏切りの嵐の中で

第2章 彼らは「人間」なのです――世界広布元年①

第3章 私は深く、熱く信じた――世界広布元年②

第4章 信仰の労作業を避けるな――世界広布元年③

第5章 ただ一つの尊い道――世界広布元年④

第6章 一人が立ち上がればよい――世界広布元年⑤

第7章 久遠元初の法を求めて――世界広布元年⑥

第8章 「池田大作はここにいる」――世界広布元年⑦

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