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ナルデッラ市長(イタリア・フィレンツェ市)が池田大作先生の追悼式で行った弔辞。

「道を開く人」「平和の建設者」と讃え、その遺志は青年の育成と祈り・対話・行動を通じて今も息づくと強調した。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から一部を抜粋してご紹介します。

2024年(令和6年)1月24日付の「聖教新聞」に、次の記事が載った。


〈イタリア・フィレンツェ市で池田先生をしのぶ追悼式/市庁舎ヴェッキオ宮殿で/ナルデッラ市長が弔辞「若き世代に啓発与えた平和の建設者」〉


〈イタリア・フィレンツェ市とイタリア創価学会の共催による池田大作先生の追悼式が20日、同市庁舎であるヴェッキオ宮殿の五百人広間で執り行われ、トスカーナ州のエウジェニオ・ジャーニ知事、同市のダリオ・ナルデッラ市長をはじめ、近隣の市長、宗教界関係者、欧州SGIとイタリア創価学会の代表ら約500人が参列した〉


追悼式はインターネットで中継された。クリスティーナはフィレンツェの学会員を代表して、追悼のスピーチを引き受けた。


池田のイタリア初訪問は1961年(昭和36年)のローマだったこと。それは「私たちの運動の夜明けであり、会員の数はごくわずかだった」こと。草創期は学生が多かったこと――。


「人生の経験が浅い若者ばかりでした。当時は、私たち青年にとって暗黒の時代でした。テロリズムに特徴づけられ、イタリアの多くの都市で暴力事件が発生し、友人の多くが麻薬中毒に陥っていました」


そして81年のフィレンツェ。


「池田先生は、その人間味あふれた温かい振る舞いで、私たちに仏法の原理を話し、仏道修行に真剣に取り組むよう励ましてくださいました。仏道修行は遊びではない、仏道修行は真剣なのだ、と。そして、根気よく続けることで、誰にでも具わっている計り知れない潜在能力を発揮することができると語られました。


信心によって、内面の深い変革が可能となり、家族や地域社会、さらにはイタリア全体の運命の変革へとつながり、人生の旅路で必ず遭遇するであろうさまざまな困難や苦悩を乗り越えていけることを教えてくださいました」


「まだ人生経験の浅い私たちは、これほど人間的で生命力にあふれた人に出会ったこともなければ、大人からこれほど真摯で深い信頼の配慮を受けたこともなく、文字どおり『雷に打たれた』のでした」


「それまでの私たちの活動は、家庭からの逃避であったり、ただ友人たちと一緒にいるためだけの集まりでしたが、1981年に池田先生がイタリアを訪れて以来、私たちにとって仏法への信仰は、自分自身の未熟な人生に、深い意味と使命を見いだす、とても大切な礎となりました」


さらに、池田の訪問後、イタリアで初めてフィレンツェに会館ができたこと。大人たちもその輪に加わり始めたこと。そして――、「私たち自身も大人になっていきました。1981年当時は約300人だったメンバーも、今では十万人に達する勢いです。


私たち全員が心に抱いている共通の体験。それは、この仏法と、自分の生命や身近な人々の生命から最高の可能性を発揮する方法を教えてくれた素晴らしい師匠にめぐりあえたことへの、深い感謝の気持ちです。


私の娘に、43年間の信心と、イタリア創価学会の中で歩んできた道のりを語る時、私はただ、これ以上素晴らしい人生の生き方はないと言う以外に思い浮かばないのです」

ひとたび私と縁した以上、なんとしても宿命転換させてあげたい


81年の数々の励ましのなか、同行スタッフたちの心にひときわ残る出会いがあった。


ミルヴィア・ムーラは前年、母を亡くしていた。自ら選んだ死だった。ミルヴィアはすでに学会に入っていたが、自分も母と同じ道をたどるのではないか――その恐怖が消えず、鬱々としていた。


「私は23歳でした。同志たちに支えられ、励まされながら、フィレンツェに向かいました」


ミニ文化祭が始まろうとしていた。ミルヴィアは白蓮グループ(会合運営に携わる女子部のグループ)として、会場の裏口に立った。「池田先生が通るはずがないと思っていました。ところが先生はその門を通られたのです」。


驚きながら、挨拶を交わした。その日、もう一度、池田の前を通る機会があった。池田から「どこから来たの?」と声をかけられた。はるばる日本から来たこの人は、私のことを気にかけてくれている――そのことがうれしかった。


数日後、池田はミラノに向かった。2カ月に及ぶソ連(当時)・欧州・北米訪問の、半ばにさしかかっている。ソ連から西ドイツ、ブルガリア、オーストリア、そしてイタリアへ……学会員であるなしを問わず、何千人と会い、励ますなかで、ミルヴィアの様子が気にかかった。同行のスタッフから、彼女が母を亡くしたことや、今の状況を聞いた。池田は、ジェノバに住んでいるメンバーとともに、ミルヴィアや彼女の親友もミラノの会合に招いた。


時間を縫って、池田は懇談の機会を持った。「私は母のことを話しました。先生は、私の話を注意深く、愛情深く聞かれ、そしてこのようにおっしゃいました。〝心配しなくていいよ、私もあなたのお母さんのことを思い続けるからね〞。それから、私の親友には"いつも彼女(ミルヴィア)のそばにいてあげてください"と。私は感動しました」。


数日後、フランスの研修会にもミルヴィアは招かれた。池田の妻の香峯子とも話した。


「トレッツでも、先生は多くの時間を費やして、私を励まし、私の質問にすべて答えてくださいました。私は自分の未来についても話しました。音楽が好きなこと。化学者として働いていきたいこと。


先生は、イタリアの若者に流行っていたハシシ(大麻の一種)には手を出してはいけないと言われました。そして、これから2カ月で状況はよくなる、自分にふさわしい仕事を見つけるために、題目を唱えよう、と言われました。それはまさに私が聞きたかった言葉でした。


先生は堅苦しくなく、いつも私を安心させ、冗談をおっしゃいました。それが私には心地よかったのです。"あなたがここにいるのは、真実を求めているからだよ"とも言われました」

池田のヨーロッパ訪問から2カ月が経とうとしていた。友人や同志のサポートもあり、ミルヴィアを襲っていた抑うつの症状は徐々におさまった。「当時は夢物語だと片づけられていた、環境保護のために働く、という目標を定めたのも、このころでした」(ミルヴィア・ムーラ)。


日本に戻った池田は、イタリアのリーダーたちが来日するたびに、ミルヴィアの様子を尋ね、記念の品や伝言を託した。彼らは池田の配慮に接するたびに、「創価学会の指導者とは、ここまで細かく学会員に尽くすものなのか」と襟を正した。ミルヴィアは東京の池田に宛てて何度か近況を綴った。国境を超えた励ましは続いた。3年が過ぎたころ、池田から「もう大丈夫だね」と伝言が届いた。


81年の海外訪問に同行したスタッフの一人は、「池田先生は、彼女が死魔と懸命に闘っていることをわかっておられました。"ひとたび私と縁した以上、なんとしても宿命転換させてあげたい"という一念を、ひしひしと感じました」と述懐する。


ミルヴィアは今、リグーリア州の環境保護局(ARPAL)で、化学技術者として水質保護の分野で働いている。「先生はいつも私の心の中におられます」と語る。

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