危機の時代にもう一度絆をつくる
神野 ときに非難を浴びることがあるのですが、私は社会学で言うところの第一次集団、つまり家族をとても重視しています。人間が生まれたとき、本人は周囲にいる人々(第一次集団)全員が自分を助けてくれると思っているはずです。そうでなくては、生まれることはそれ自体できないからです。
家族の特徴は「家族の誰かが不幸になると自分も不幸になり、誰かが幸福になると自分も幸福になる」というところにあります。これは「連帯」や「互酬」という言葉で表現できるような人間の結びつきだと思います。「そういう結びつきを形成するのが重要だ」ということではなく、「人間は本来的にそれなしでは生きていけない」のです。
しかし、さまざまな危機や政治経済の情勢によっていま、家族が崩壊しつつあります。財政を縮小し、市場を拡大する新自由主義のなかで、私たちは自然環境を破壊するとともに、人間本来の絆をも破壊してきました。その帰結として私の携わる研究グループは、今世紀末には人類が生存できないほど過酷な地球環境になる可能性を指摘しています。だから、その絆をもう一度自発的につくりあげていかなければ、人間の社会は成り立たなくなるのではないでしょうか。
井手 学問的に言うと、自立の前提にはニーズの充足があります。一つは「健康」。健康でない人間は支援者に従属しがちになる。次に「精神的な自立」。精神的に他者に従属する者を自立しているとはみなしません。そして「社会参加」。社会的孤立は不安を招き、主体的な行動を不可能にします。
先生がおっしゃった家族は、人間の自立性を強化する重要な要素です。親は命がけで子どもを健康に育てようとします。子どもは思春期に親と対立しますが、それを乗り越えて精神的に自立します。そして、家族の愛や温もりは、孤立と正反対の性格をもちます。だからこそ、家族の解体が進むいま、どうやって人間の自立性を担保するのかを考えなくてはいけません。
その社会的、経済的基盤が財政です。医療サービスは健康状態を維持促進し、教育サービスは知性や精神的成熟を促し、福祉サービスは社会参加の場や居場所をつくる。まさに自立の条件を整えるのが財政の役割で、いわば絆の領域を巨大な社会共同事業として位置づけたものが財政です。
神野 家族が担っていた機能を財政に代替させることによって、本来の人間の結びつきを取り戻さなければいけませんね。そして重要なことは、私たち一人ひとりが共同社会の建設者だという意識をもつことです。民主主義国家なのだから、この社会は人間がつくり出す共同社会です。その当事者である意識がない人もいるかもしれませんが、この社会を統合するためには、みなが建設者だという意識をもつことが大事なのです。
連帯のビジョンを考えつづける
――連帯に一歩踏み出すための具体的な方途はありますか。
井手 みなさんはすぐに「答え」を求めますが、危機の時代には誰も正解がわかりません。ただし、人類は連帯して危機に立ち向かってきたという、人間に対する根本的な確信を先生も私ももっています。連帯の方法を問うだけでなく、私たちがどのようなビジョンを示し、どのように連帯するのかを徹底的に問うべきです。それは学者だけでなく、政治家、そして宗教者の責任です。ビジョンの喪失こそが亡国の第一歩ですから。
神野 杜甫は「国破れて山河在り」と詠みました。「敗れて」ではなく「破れて」です。地面に叩きつけられてバラバラになった石に譬えているのです。いま日本はバラバラになり始めています。日本だけでなく、世界や人類の歴史もそうなってきている。それを結びつけるビジョンをどうつくるのかが問われているのです。そのための地図を示すことが私たちの使命であり、それが真理を探究することなのだと思います。
井手 1カ月ほど前、神野先生がお電話で「僕も、井手君も、自分とは何か、社会とは何かを知るために財政学を学んできたよね」とおっしゃってくださいました。そうなのです。それらしい答えを撒き散すことが私たちの使命ではない。私たちは、「私とは何か、社会とは何か」という答えなき問いを追究し、世代から世代へと魂をつなぐために学び、語り、あるべき社会を構想してきたのです。
『潮』の読者の多くは宗教的世界に生きていらっしゃる。ぜひこの対談を読み返し、信仰を通じて「どのように人間は連帯すべきか」「どんな社会ビジョンが必要か」を考えていただきたい。
神野 学問も宗教も真理の探究を行うものです。いまのところ科学は、自分の考察領域を限定する方法をとっている。その一方で、宗教は全体構造を考察するなかで真理に近づこうとしている。方法は違うけれど、同じことを行おうとしているのではないでしょうか。