井上荒野さんによる極上の掌編小説集『1+1』(ワン プラス ワン)が4月6日に発売開始。料理と飲み物、そして味わう2人――。2つの「ペアリング」をモチーフにした24編が収録されています。本書の刊行を記念して、全3編を潮プラスに特別公開します。
味噌汁とホットケーキ
LINEはずっと既読無視。電話もこの一週間で二度かかってきたが、陽一は出なかった。着信拒否にまではしていない。別れるつもりはない。ただ、俺が怒っているということを、花音にわからせなきゃいけない。
三度目に電話があったとき、出てやることにした。よかった、繋がった。花音は心からほっとしたような声を出した。このまま俺に捨てられるんじゃないかと、気を揉んでいたのだろう。これでよくわかっただろう。陽一は心の中で言った。俺に説教なんかすると、こういうことになるんだ。
原因は「焼肉バイキング」だった。自分の好きなものを、好きなだけ取って食べられる、バイキングとか食べ放題の店が陽一は好きだった。花音と付き合いはじめた頃は、彼女が行きたがる店── 夫婦ふたりでやっているような、ちっぽけなくせに気取った居酒屋とか、料理が出てくるたびに小うるさい説明がついてくるスペインバルとか──に付き合っていたが、だんだんかったるくなってきて、最近、デートのときの食事は、ファミレスかチェーンの居酒屋か、食べ放題の焼肉かしゃぶしゃぶに行くようになっていた。
そんなに取っても食べきれないよ。バイキングに行くと、花音はいつもそう言う。払う金は同じなんだからべつにいいじゃん。陽一はそう言い返して、この日も肉をじゃんじゃんテーブルに運んだ。実際、食べきれなくて、ミノやタン塩がそれぞれかなりの量、皿に残ってしまった。そのまま席を立とうとしたら、またごちゃごちゃ言ってきて、ケンカになった。がんばって全部食べようよと言い張る花音を残して、陽一はひとりで店を出た。その日のうちに花音から電話があったが無視した。そして今日に至っている。
カーディーラーの営業マンである陽一の公休日の、木曜日の夕方に会うことになった。自分がウキウキしていることを陽一は認めた。花音のことは、これまで付き合った女の中でいちばん気に入っていた。童顔で、細っこいのにふわふわしていて、口数は少ないが、必要なときだけに笑い、必要なことを言う。ヘアサロンの待合所で隣り合わせになったのが知り合ったきっかけで、陽一の猛アタックで付き合うことになった。もちろんこれまでそうだったように、ほかにもっといい女がいたらそっちに行くし、早晩飽きるかもしれないが、それまでは楽しくやりたい。あやまるなら許してやる。なんなら俺も、ちょっと悪かったなと言うかもしれない──そんなふうに思うことははじめてだが。
その木曜日の午後三時過ぎに、インターフォンが鳴った。
花音が待ちきれなくて訪ねてきたのか。ニヤニヤしながら応答すると、「うおーい」という間延びした姉の声が聞こえた。そうだ、来るとか言ってたんだと思い出す。がっかりというかげんなりというか、いささか動揺もしながら、オートロックを解除した。
「ちゃんといたね。感心感心」
四歳上の姉、小百合は、小さくもないキャリーケースと紙袋ふたつという重装備で、陽一の部屋にあらわれた。本人ががっちりした大柄だから、全体的に戦車みたいな感じだ。高知から上京してきた理由は、「推し」の韓流アイドルグループのコンサートだ。陽一が就職し、それまでのアパートよりマシなマンションに引っ越して以来、一年に一度くらいこういうことがある。
「俺、もうすぐ出かけるから」
「どうぞー。私も今夜こっちの仲間と会うし」
コンサートは明日の夜らしい。ということは二泊か。うげー。どっちにしても今日は花音をここに連れてこられない。花音は実家住まいだから、ホテルに行くしかない。
「今夜は帰らないから」
「お盛んだねー」
姉はにこやかに言い、滞在中は彼女のベッドとなる隣室のソファの周囲に荷物を配置し、巣作りみたいなことに取りかかっている。陽一は心の中で舌打ちした。姉と一緒にいるのが苦手なのは、それなのに上京の度にここへ来ることを拒めないのは、全世界の女の中で姉だけには頭が上がらないからだった。
陽一と小百合はシングルマザーに育てられたが、その母親というのが子供たちより仕事と男を優先するタイプだったから、陽一は実質的に小百合に育てられたようなものだった。寂しくて全世界が敵みたいに思える子供時代を過ごしたが、姉がいなければもっと寂しかったし、世界に打ち負かされていただろう。
姉のほうが先に家を出てくれて助かった(それはそれで何か負けたような気もしたが)。今夜しけこむべきラブホを検索し(ちょっとグレードの高いところにするつもりだ)、髪をキめ、着ていく服を──力が入っているように見えないものを、実際はとっかえひっかえ試着して──選ぶ時間があった。
