待ち合わせの五時半にわざと十分ほど遅れて、笹塚の駅前に着くと、もちろん花音はもう待っていた。ちょっと困ったような顔で微笑で、片手を上げる。すっぽかされると心配していたのかもしれない。薄水色の、やわらかそうな生地のコートを着ている。ひどく寒い日だったから、待たせて悪かったなとちらりと思った。が、表情には極力出さないようにして、「よう」と片手を上げた。
「久しぶり。よかった、連絡がついて」
「どこ行く?」
「どこでもいいよ」
「じゃあ、なんつったっけ、花音が気に入ってた居酒屋行こうか。出汁巻き玉子とか食ったとこ」
なぜか、まったく予定していなかった提案をしてしまった。出汁巻き玉子はべしゃべしゃしていたし、ちまちました料理ばかりで、二度目はないとカテゴライズしていた店だったのだが。
「え? ファミレスとかでいいよ」
だが、花音はそう言った。俺に気を遣ってるのか。そういうことなら「ファミレスとか」のほうが気が楽だから、そうすることにした。
平日のまだ夕食には少し早い時間で、空いている店内の、窓際の席で向かい合った。花音のコートの下は、やっぱりふわふわした白いタートルネックのニットと、ストレートのデニムだった。いつも同様のそっけないスタイルだが、似合っているし、かわいいな、と陽一は思う。以前、もっと女らしい格好したら? と言ってしまったことがある。あのときも実際は、かわいいな、と思っていた。そう思った自分にちょっと動揺して、逆ぎゃくのことを言ったのだ。
タッチパネルを引き寄せて、ビールのジョッキをふたつ注文しようとしたら、「ごめん、私は紅茶で」と花音は言った。
「話が終わったら、すぐ帰るから」
「え? 話って何」
「陽ちゃんは好きなもの頼んで、食べて」
いやな予感がした。が、気にしないふりをして「あっそう」と応じ、陽一は紅茶と、自分用にビールの大ジョッキとハンバーグとフライのミックスプレートと、へんな虚勢を張って、ソーセージの盛り合わせまで頼んだ。そうして、ビールと紅茶が届く前に、
「もう、お付き合いするのやめたいんだ」
と花音は言った。
陽一は引き止めたりしなかったので、話は早く終わった。
紅茶を飲み干して、「じゃあ、さようなら。元気でね」と微笑んで花音は店を出ていった。
陽一はひとり残ってビールを飲み、料理を食べた。まったく食欲がなくなっていたが、残して席を立つといかにも振られた男みたいだから、無理をして詰め込んだ。花音が知ったらちょっとは見直してくれるかもしれない。ほかにあまり客がいないのは幸いだった──話を聞かれていた心配はないし、彼女が先に出ていったのは、何か用事があるとか、用事の前に陽一の顔だけ見たくて来たとか、そういうふうに思われるだろう。
私と陽ちゃん、いろんなことが違いすぎると思うんだ、と花音は言った。
私は食べることが好きだし、料理するのも好き。だからどうしても、料理を用意してくれた人のことも考えちゃうんだよね。それで……口うるさかったでしょう?
自分でもうるさいと思ってたんだよ。でも、どうしてもだめなの、陽ちゃんみたいな食べかたとか、残しかたが、がまんできないの。たかが食べることって、陽ちゃんは思うよね。でも、私にはそうは思えないの。これって、どうしようもないことじゃない?
一緒にいると、陽ちゃんは楽しくないだろうし、正直に言って、私も楽しくないの。だから……。
うん、わかった、OK 。
もっと何か言おうとする花音を、陽一はそう言って遮った。
ありがとう、楽しかったよ、なんかごめんな。
あやまったのは、振ったのは自分のほうだ、という気分になりたかったからだった。花音は首を振り、微笑んだ。そして立ち上がって、出ていった。千円札をテーブルの上に置いていったことに陽一が気がついたのはずいぶん後だったから、突っ返すことができなかった。
笑えるな。
ハンバーグを、まるで飢えている人みたいに──あるいは、これが大好きな人みたいに──大きく切って頬張りながら、陽一は実際に「へっ」と笑ってみた。そういうことだったんだ。花音が何度もLINE を送ってきたり、電話をよこしたりしてたのは、「もう、お付き合いするのやめたいんだ」と伝えるためだったんだ。それを俺は、すがってきてるんだと勘違いして、応答するタイミングを図ったりしてたわけだ。笑える。笑うしかない。
二杯目のビールを注文し、流し込むようにしてどうにか全部食べ終わると──ソーセージを完食するのはきつかった──、陽一はファミレスを出て、ゲームセンターに入った。料理を詰め込むのと似たような気分でしばらく遊び、時間をたしかめたらまだ一時間ほどしかたっていないことにびっくりした。家には姉がいて、今夜は帰らないと言ってきたから帰るわけにはいかない。どうするか。呼び出す男や女の心当たりがないわけではなかったが、人と会ったり喋ったりする気にならなかった。酒は強くないしそんなに好きでもないから、飲み屋へ行くという選択肢もない。行き場のない、果てしない夜が陽一の前に広がっていた。夜のことをそんなふうに感じたのははじめてだった。
結局、漫画喫茶で一夜を明かした。あまり眠れず、かといって漫画に没入することもできぬまま、午前七時に家に戻った。姉と顔を合わせたくなかったが、今日は仕事なので、スーツに着替えなければならない。
ドアを開けると味噌汁の匂いがした。姉はもう起きているのか。うちには味噌なんてなかったけどなと思いながら部屋へ入ると、姉はダイニングテーブルに着いて食べている最中だった。
「あら、おはよう。早いじゃない」
「仕事があんだよ」
十二、三のガキみたいな言いかたになってしまった。奥の部屋へ行こうとして、陽一はテーブルの上を二度見した。味噌汁の横に、ホットケーキが載った皿がある。
「あんたも食べる? 焼いたげるわよ」
「食わねえよ」
数歩歩いて、陽一は振り返った。
「やっぱ、食おうかな」
姉はニヤリと笑って、立ち上がった。陽一がシャワーを浴び、身支度をして戻ってくると、テーブルの上には湯気を立てる味噌汁と焼きたてのホットケーキが用意されていた。
味噌汁の具はなめこと豆腐で、ホットケーキの上には四角く切ったバターが載っていて、メープルシロップの小瓶まで添えられていた。
「なんだよ……材料全部買ってきたの?」
「あんたが食べたいんじゃないかと思ってさ」
自分のぶんはすでに食べ終わっている姉は、空の皿の前に座って、陽一が食べはじめるのを待っている。これは危険な食いものだ。陽一は思った。だが、姉が見ているから、味噌汁を啜った。ナイフでホットケーキを切り、フォークで刺して口に入れた。
母親が帰ってこない日曜日の朝──そういうことはよくあった──、母親が置いていった金があるときに、十二歳の姉と九歳の陽一は近所の喫茶店へ行った。ずっと帰っていないから今もそうなのかどうかわからないが、生まれ育った町では、喫茶店のモーニングセットにコーヒーとともに味噌汁がついた。トーストもサンドイッチもメニューにあったが、姉弟はいつもホットケーキを注文した。母親が金を置いていくことはめずらしかったから、それはふたりにとってスペシャルな朝食だった。
ふたつの味の奇妙な取り合わせに、あの頃の気分があっという間によみがえった。旨かったが寂しかった。姉がいてくれてよかったと思いながら、話しかけられても口を引き結んでいた。やっぱりこれは危険だった。今朝食うべきじゃなかった。
「泣くほどおいしいか」
姉がちょっと驚いて、その驚きをいかにも姉らしくへたくそなユーモアでくるんで、そう言った。
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