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潮2026年7月号 読みどころ

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ここに描かれているのは姉ではないか?

「沖縄戦の絵」は、県内の学校などに貸し出し、活用されてきた。これまでは厳選した30枚のセットを貸し出していたが、数年前、描かれた場所が特定できるか、すべての絵を調べ直し、約300枚を使って10の地域別セットを作った(「国頭村、大宜味村、東村編」「本部町、今帰仁村編」「伊江島編」「名護市編」「金武町、宜野座村、恩納村編」「中部編」「那覇市編」「南部編」「糸満市編」「先島諸島、その他離島編」)。


創価学会沖縄事務局の平和推進部長である大城大作は「ある高校の校長先生から『地元の絵もあるだろうか』と言われたのがきっかけでした」と語る。


「多くの体験者が、画用紙の裏に状況説明を走り書きしてくださっていました。地域別セットを作ってから、貸し出しの数が3倍に増えました」。学校現場からは「映像や写真では受け入れにくい生徒もいる。『沖縄戦の絵』はとても良い教材です」などの声が届く。


昨年は琉球新報本社の一階エントランスで、6.23「慰霊の日」を挟む日程で約300枚すべてが展示された(主催=沖縄創価学会、共催=琉球新報社)。同社の記者が沖縄研修道場を見学し、「沖縄戦の絵」を見たことがきっかけだった。


「沖縄戦体験を否定するような発言を跳ね返す体験の持つ重さを伝えており貴重だ」(琉球新報社の普久原均社長、2025年6月14日付「琉球新報」)、「絵の中には体験者が孫に語り、孫が描いたものもある。このような継承の方法もあるのかと創価学会の平和運動から学びました。この絵を全国の方々に見てほしい」(沖縄国際大学の石原昌家名誉教授、同「聖教新聞」)などのコメントが寄せられた。


その会場で、思いがけない再会があった。


「会期中に琉球新報さんから『この絵に描かれているのは、私の姉ではないでしょうかと涙ながらに申し出てきた方がおられる』と問い合わせがあったんです。その絵に描かれていたのは長嶺房子さんという方で、問い合わせをいただいた當山冨士子さんのお姉さんでした」(大城大作)


画用紙の中央に、三つ編みでモンペ姿の少女がしゃがんでいる野戦病院壕の入り口から、荒れ狂う外をうかがう学徒看護婦──その後ろ姿である。


「描いたのは宮里親輝さんです。画用紙の裏に『長嶺房子』とフルネームをメモしてくださっていたので、確定できました。じつは、『沖縄戦の絵』の最初の一枚を描いていただいたのが宮里さんなんです」(同)



──その壕では、沖縄県立第二高等女学校の生徒たちが傷病兵の看護に当たっていた。学校の校章に白い梅が象られていたので、「白梅学徒隊」と呼ばれる。


宮里親輝は「山三四七四部隊」だった。米兵に撃たれ、足を引きずって弾雨の中をさまよい、野戦壕に辿り着き、彼女たちに手当てしてもらった。


〈この絵は、1945年4月15日〜5月上旬頃の様子である……〉。記憶力に長けた親輝は、絵の下に説明文を書き加えている。


〈……学徒動員された、白梅看護班の一人、小禄村字具志出身の長嶺さんは、時々休憩しながら壕の入口に来て美しい声で歌をうたっていた。哀調を帯びた切々とした歌が多かった。


壕入口付近に居た患者は、その度に、傷の痛みも空腹も忘れて、しーんと静まりかえって聞きほれた。


──長嶺さんは、6月下旬、摩文仁海岸で戦死したという〉


この絵には、彼女が傷病兵歌った童謡「ふるさと」の歌詞「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川……」も書かれている。


房子の妹である當山冨士子は長年、「白梅継承の会」で活動し、「沖縄戦・精神保健研究会」の会長も務める。沖縄研修道場を訪れ、こう語っている。


「私は戦後生まれで姉と会ったことはありません。80年の時を経て、絵を通じて姉と会えたようで感謝の思いでいっぱいです」


「このような場所を残すことを提案した、池田先生の平和に対する哲学に強く感銘を受けました。展示を見学し、かつて沖縄にこれほどの核兵器が存在していたのかと思うと身震いします。これからも、さらに発信していってほしいと思います」(2025年11月8日付「聖教新聞」)


房子の鮮明な写真は残っていないという。聖教新聞の沖縄版は、野戦病院壕の絵を見つめて冨士子がもらした「(絵の中の姉が)もう少し横を向いていたら、顔を見られたかもしれませんね……」という一言に〈胸を突かれる思いがした〉と、記者の所感が綴られている(2025年8月8日付)。



「沖縄戦の絵」の取り組みで、最終的に集まった絵は729枚を数える。その中の"一枚"が描かれた背景を辿ると、届けられた一枚ずつに、どのような重みがあるのかが垣間見える。


「長嶺房子さんのことは、父から何度か聞いていました。『野戦壕に、歌を歌って励ましてくれた、三つ編みの女の子がいた』と」「あの絵も、父が仏間で何枚も下書きしていたのを見ました。私が小学校5、6年のころでした」


宮里親輝の息子の高広が述懐する。


「母のアキも『沖縄戦の絵』を描きました。色を塗るのを手伝いました。でも、父は最初、絶対に描かないと言っていたんですよ。『死んだ戦友を思い出すから』と。男子部長だった池間さんが、うちに通い詰めて一生懸命話し合われていたのを覚えています」(P168-171)

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