戦争のすべてが凝縮された文章
宮里親輝は、徴兵されてから、負傷し、捕虜になり、悪名高い"裸船"でハワイの収容所に送られるまでの日々を、克明に覚えていた。『那覇市史 資料篇』(1974年)に、二段組みで17ページを超える戦争体験を寄稿している。そこにも白梅学徒隊への愛惜の念を刻んだ。 〈これ等の学徒看護婦は、戦死当時、僅か16、7才前後の乙女たちだった筈である。現在16才の娘を持つ私は、遺族の方々が最愛の娘を戦場に送った当時の愛別離苦の苦しみを察することができる。もし仮に現在の自分が、可弱い自分の娘を、再び帰る見込みのない殺戮の戦場に送らねばならない立場に立たされたら、私はどのように振舞うだろうか〉 しかし、「絵を描く」ことは頑なに拒んだ。記憶力がいいだけに、情景を再現するのは、耐えられるものではなかった。 「戦争が終わってから、父は警察官として働きましたが、今で言う鬱病で、まったく動けなくなり、1年ほどはトイレにも自力で行けませんでした。その時、隣に住んでいた山原(沖縄県北部)出身のおばさんが学員さんで、声をかけてくれたそうです」(宮里高広) 親輝が創価学会に入ったのは1957年の2月だった。やがて体調は回復し、妻のアキとともに、那覇市識名の地で地道に信仰を貫いた。 親輝に「沖縄戦の絵」の話を持ちかけた池間俊彦は、「何度目かの訪問で、宮里さんは『題目をあげて考えた』と言われました」と振り返る。 「『沖縄戦を体験している自分たちが、本当に語り伝えていかんといけない。こういう、描く運動を、創価学会の青年部が、しかも戦争を知らない世代が企画をして、よくぞ始めてくれた。応えなければと思った。1枚だけ、なんて言わないで、何枚か描いたよ。一生懸命描いたよ』と、10枚近い絵を手渡してくださいました。 私が『宮里さんと、婦人部の幸地和子さんのお二人が突破口を開いてくれました。ご恩は一生忘れません』とお礼を言いましたら、宮里さんは笑っておられました」 親輝は、仏間で題目をあげては絵筆を執った。ある時は、吐きながら描いた。その画用紙には、米軍の火炎放射器で焼かれ、黒焦げになった戦友が描かれていた。「父は『人間は、炭になるんだ』と言っていました」(宮里高広)。 そうやって描いた1枚に、長嶺房子の後ろ姿があった。 * 口数の少ない父だったが、ポツリ、ポツリと話す言葉は、子どもたちの心に焼きついた。 倒れた戦友たちが叫んだのは「水をくれ」「お母さんによろしく言ってくれ」。 絵に描いた野戦病院壕は「戦場より地獄だった。麻酔もなく、ノコギリで手足を切ってバケツに入れた」「壕の臭いは絵で表現できない」。 行軍があまりに苦しく、いっそ殺してくれと思ったこと。 「戦争は、極限状況だから、人間が人間でなくなるよ」 新原ビーチ(南城市玉城)で米軍に捕まったこと。そこまでの道は死体で埋まっていたこと。米軍がブルドーザーで死体の山を除けたこと。 ハワイの収容所では、真っ先に空き缶や棒で「カンカラ三線」を作ったこと。 「父は、戦争の話をしてくれた翌日は疲れてしまって、半日、起きられないこともありました」(宮里高広) 毎年、毎年、うなされる夢があった。「心配になって父に声をかけると、父は体を起こして、目を開けて、指をさして『あそこに兵隊さんが歩いているから、水をあげなさい』と言うんです。助けられなかった戦友を見ていたんだと思います。父が最後にそれを言ったのは、『沖縄戦の絵』を描いてから3年後の昭和60年だったから、沖縄戦から40年、悪夢が続いたことになります」(同)。 美しい蘭の花を愛した。晩年は、丹念に育てた100鉢以上の蘭を、友人に贈っては対話にも花を咲かせた。 宮里親輝が何度も読み返した本は、池田の『人間革命』だった。 「父が『那覇市史』に書いた手記の、最後のほうに〈戦争ほど、悲惨で、残酷非情、愚かなことはない〉とあります。それを読んだ私は、父が『人間革命』を大好きなのを知っていたので、『あの一言、池田先生の「人間革命」の冒頭をパクったでしょ』と冗談半分で声をかけました。 父は真剣な顔で『そうだ。使わせていただいた。あの池田先生の文章に、戦争のすべてが凝縮されている』と言いました。今も忘れられません。 池田先生の"青年が民衆の生存の権利を訴えよ、行動を起こせ"という呼びかけがなかったら、父は沖縄戦の絵を残しませんでした。先生の呼びかけに応えた父を、私は誇りに思います」(同)(P.171-174)