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今を新たな草創期と位置づけて 鈴木美華・創価大学学長
1971年の創立から54年。創価大学の歴史で初めての女性学長が誕生した。
創価大学の卒業生であり、日本とニューヨーク州の弁護士の資格ももつ、鈴木美華さんだ。これまでの人生の歩みと、学長としての思いを聞いた。
(月刊『パンプキン』2025年8月号より転載。取材・文=鳥飼新市 撮影=雨宮薫)
「変な言い方かもしれませんが、本学の学生たちって尊いなといつも思うんです」
鈴木美華学長は、そう話す。
「人とのつながりを大切にする学生が多いし、先輩・後輩の絆がとても深い。先輩たちは後輩を自分以上の人材に育てたいと考えて親身に面倒を見ています。本当に人のためを思い、動ける人たちなんです」
学生をリスペクトする創立者に感動して
何より自分のことを優先するような風潮のなかで、これを尊いと言わずして何を尊いと言うのか――という思いが言外ににじむ。
自身にも、こんな体験があったそうだ。
鈴木さんは創価大学12期生である。志望校に落ち、母に言われるまま入学した。
「挫折感もあって、自分の人生を見つめ直そうと考えていたときでした。先輩が悩みを聞いてくれたり、相談に乗ってくれたり、よく面倒を見てくださったのです」
先輩たちはみんな創立者である池田大作先生のことを人生の師匠として尊敬していた。
池田先生って、どんな人なのだろうか。ぜひ知りたい、と思った。
「ある先輩から『先生を知りたいのなら、真剣に祈っていくことよ』と言われました」
本気で祈り、かつ創立者の指導や書籍を学んだ。そのなかで、先輩たちの後輩に対する思いや関わりは、すべて創立者の思想に淵源があることがわかった、と言う。
鈴木さんには忘れられない思い出がある。卒業を前にした12期生の会合でのこと。スピーチを終えた創立者は、学生たちに向かって深々とお辞儀をして退出したのだ。
「先生が本当に私たち学生をリスペクトしてくださっているということを心から感じて、そんな創立者の下で学んでこられたことに、ものすごく感動したのです」
創価大学で学んだ日々は、鈴木さんにとって両親が持ってきた信仰と意識的に向き合う時間でもあったのだった。
先生が創られた大学にどうして行かないの
鈴木さんは千葉県柏市の出身だ。両親と姉妹3人。5人家族の末っ子である。
「台風が来たら飛んでしまいそうな家でした」
長女は重い喘息を患っていたという。夜中になると頻繁に発作を起こした。母は娘を抱き、発作が治まるまで寝ずに祈った。
「自然と姉を中心に家庭が回っていました」
決して豊かではなかったが、みんなが長女を気遣う温かい家庭だった。
父は、職人で、寡黙だが非常に実直でまじめな人だったという。
「私はそんな父からまじめさ、地道に生きていくことの大切さを学んだように思います」
母は、とても明るい女性だった。お金がなくても、持ち前の明るさで貧乏など吹き飛ばすような人だった。
2人とも信仰に真摯な姿勢で取り組んでいた。いつも姉に「宿命転換しようね。今は苦しいかもしれないけど、全部、意味があるから」と励ますことを忘れなかった。
「母は、御本尊様は打ち出の小槌だと言うんです。『正しく振れば願いは必ず叶う』って」
長女は喘息と闘うなかで医師を目指すようになった。できるだけ経済的負担をかけないようにと国立大学の医学部で学び、今は開業医として活躍している。
「姉は、大学に入ってすぐに発作が出たらしいんですが、不思議なことにそれを最後に発作が出なくなったんです」
二女は関西の創価女子高校(当時)に入学し創価大学に進んだ。
両親は勉強や進路のことについては一切干渉しなかったという。だが、創価大学に行かず浪人したいと言ったときだけは、「先生が創られた大学に受かったのに、どうして入学しないの?」と、頑として譲らなかった。
経済的に苦しいなかで、両親は娘たちを大学に行かせてくれた。
「それがどれだけ大変だったか。今は感謝しかありません」
大事なのは自分が「やる」と決めること
鈴木さんが弁護士を志したのは、まだまだ女性の社会進出が進んでいないなかで、何か資格を取ったほうが女性が社会でやりがいのある仕事ができる、と考えたからだ。
入学してすぐ、司法試験などを目指す学生たちが研さんする「国家試験研究室」に入った。だが、だんだん足が遠のいたという。「司法試験は無理だと諦めて、教職を取ろうかと模索し始めていたんです」
2年生の夏のことだった。研究室で世話になっていた創価大学卒業生で弁護士の先輩が「最近、姿を見ないから」と、声をかけてくれた。鈴木さんは「私、法曹界には使命がないと思うんです」と言った。
すると先輩は、「使命があるかないかなんてだれにもわからない。大事なのは自分で『やる』と決めることだ」と言ってくれた。
「この言葉が心に刺さりました。このまま何もしないで諦めていいのか。真剣に考えました。そして『絶対に無理だと思う高い壁に挑戦していこう!』と決意できました。人間に無限の可能性があるというなら、自分自身でそれを実験してみようと思ったのです」
そう腹をくくるのに3か月かかったそうだ。

