• 社会

「国民の総意」なき皇室典範改正の危うさ

  • 潮

平成期に進んだ「天皇の皇后化」

昭和初期の天皇像は、白馬に乗って二重橋に現れるなど、明治天皇よりも神格化が進んだ。平成の天皇は戦後社会にフィットするよう、神格化された天皇像から脱却していく。この現象を私は「天皇の皇后化」と呼んでいる。 明治政府は天皇と皇后の役割分担をはっきり区分けしていた。天皇は政治や軍事を受け持つ。一方、皇后ら女性皇族はハンセン病や結核の患者といった社会的弱者に対して手厚い保護をした。女子教育や養蚕を奨励し、戦争が始まれば病院を慰問する。天皇がカバーしきれない領域を皇后が担当する形で、役務がはっきり分けられた。 戦争に負けて陸海軍がなくなると、もはや天皇は軍事指導者ではなくなった。1946年から54年にかけて、昭和天皇は沖縄を除く全国の都道府県を回る。一部皇后が同行したものの、戦後巡幸じゅんこうはほぼ天皇単独で実施された。 天皇が訪問する場所は、それまでとはガラリと変わった。もはや軍事施設はないため、病院や戦災孤児の施設や社会事業、社会福祉の施設を訪れる。それまで皇后ら女性皇族が訪れた場所を、天皇が訪れるようになったのだ。もちろん軍服を着ることはなく、背広姿で各地を回った。

かつて拙著『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(潮新書)等でも詳述したが、上皇夫妻は平成時代、「天皇の皇后化」をいっそう徹底的に推し進めていった。1959年に結婚した二人は、61年から国内を回り始める。最初に訪れたのは長野県穂高町(現・安曇野市)の安曇寮という高齢者施設だ。皇太子は起立したままだが、美智子妃は膝をついて国民と同じ目線で語りかけた。

「平成流」を探究し続けた天皇と皇后

このときの皇太子の姿勢は昭和天皇と重なる。1947年12月、昭和天皇は戦後初めて広島を訪れた。ここで撮影された写真は、当時の天皇と国民の関係を見事に表している。原爆ドームを背にした奉迎場ほうげいじょうに万単位の市民が集まり、天皇は台座に立って高みから見下ろす。人々は天皇を仰ぎながら万歳をする。両者の間で直接の会話はまったく成立しない。目線をひたすら上に仰ぎながら、いわば国民が天皇に「奉仕」をする構図だ。 国民と目線を同じくして1対1で語りかける美智子妃のスタイルに、皇太子も次第に感化されていく。平成になると、昭和天皇の時代にはありえなかった天皇像が現出していった。昭和期から引き続き太平洋戦争の激戦地を訪れたほか、自然災害が起きたときには避難所で床に膝をつけて被災者と語り合う。昭和天皇の時代の負の遺産をいかにして清算し、現代の象徴天皇にふさわしい新しいスタイルをつくっていくか――上皇夫妻はそれを考え抜いたのだろう。 二人が考えた象徴天皇像を明らかにしたのが、2016(平成28)年8月に公表された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」である。この中で天皇は〈高齢による体力の低下〉〈次第に進む身体の衰え〉を率直に認めている。さらに〈天皇の務め〉として〈国民の安寧と幸せを祈ること〉と〈人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと〉を挙げた。また昭和期から皇后と共に全国を訪れ〈共同体を地道に支える市井の人々〉と出会ったことを述懐している。 ただ単に宮中祭祀を通じて国民の平和と安寧を祈るだけでなく、地域で暮らす〈市井の人々〉のもとへ自ら飛びこんで対話に努める。しかし高齢になった結果「活動する天皇」としての公的行為を思うように果たせなくなった――「だから自分は退位するのだ」というロジックで、生前退位は実現することになった。

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